14.カトリナ・ヴィオレッタ・ブランシェ
サンクティア王国、その信仰の中枢を担う大神殿には、神官や巫女だけでなく多くの下働きたちが暮らしている。
彼らは日々の雑務に追われながらも、その合間には決まって噂話に花を咲かせていた。
「——ねえ、聞いた? アネリア様のこと」
「カトリナ様に毒を盛ろうとしたって話でしょう? 怖いわよね」
「でも……少しだけ気持ちはわかるのよね。ほら、あの方の普段の振る舞いを見ていると……」
「しっ。声が大きいわよ」
周囲を気にしながらも、下女たちは囁きをやめない。
「……でも、わかるわ。この前だって、孤児を捕まえて鞭を振るったって聞いたもの」
「聖務もしょっちゅう放り出すしね。聖女らしいことなんて、ほとんどしていないじゃない」
「本当よ。アネリア様が魔女だっていうなら、カトリナ様だって、よっぽど——」
「——よっぽど、何かしら?」
「……!? か、カトリナ様……!?」
クスクスと噂話に興じていた彼女らの頭上に、鋭い声が降った。
カトリナである。
いつもと変わらぬ華やかな聖女服を纏い、口元へ扇子を添えたまま、洗濯物を抱えた下女たちを冷たく見下ろしていた。
「な、何でもございません……!」
「し、失礼いたしました……!」
その姿を認めた瞬間、下女たちは顔を青くして、そのまま逃げるように駆け去っていった。
そんな後ろ姿を見送りながら、カトリナは不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「ふん……見咎められたくらいで逃げ出すのなら、最初から陰口なんて叩かなければいいのよ。本当に腹立たしい」
苛立ちを隠すこともなく、カトリナはそう吐き捨てた。「処分いたしますか?」後ろに控えていた侍女にそう尋ねられ、一度だけ逡巡するが、すぐに興味を失ったように扇子を揺らし「いいわ、あんな小物」とだけ答える。
本音を言えば、この場で首を刎ねてやりたいくらいには腹立たしい。聖女たるこの自分を悪く言う不届き者など。
だが、「目立つ行動は控えろ」と、最近オーギュストに釘を刺されたばかりだった。苛立つ胸を押さえつつ、カトリナはそのまま回廊を歩き出す。
実際、アネリアの死を境に、自身の評判がさらに落ちていることはカトリナも感じていた。
アネリアはあれで、神殿内で敬虔な巫女として知られていた。人当たりも良く真面目で、巫女としての聖務も侍女としての雑務も真摯にこなす女だった。
そんな彼女が『魔女』に堕ち、カトリナを害そうとしたなど、信じられないと声を上げる者も少なくはない。
そんなもの、全員まとめて首を刎ねてしまえばいいのだわ。
そう言うとオーギュストには大きなため息を吐かれ、そのまま執務室から追い出された。
それもまた腹立たしい。一体、誰のおかげで枢機卿などという立場を手にできたと思っているのか。
奥歯を噛み締めた。
カトリナ・ヴィオレッタ・ブランシェは、このサンクティア王国の名門貴族、ブランシェ家の息女として生まれた。
王家にも連なる由緒ある血筋と、類い稀なる聖力。
そのどちらをも授かって生まれた彼女は、『いずれは聖女か、王族への輿入れか』と持て囃されて育った。
しかしカトリナは、そんな王国中の娘たちが憧れる栄光にも名誉にも、少しも興味を示さなかった。
昔から、彼女の心を奪って離さなかったのはただ一人——ディーン・マリウス・ヴァレンティス。
後に勇者として名を轟かせる、その少年だけだったからだ。
年頃も近く、家格も釣り合っていたことから、二人は幼い頃より何度も顔を合わせていた。大人たちの間では、婚約者候補として名前が挙がったことさえある。
それがどこまで本気の話だったのか、今となってはわからない。
だけどカトリナは、その噂を耳にするたび胸を躍らせていた。ディーンに初めて出会った日からずっと、カトリナは彼に恋をしていたのだ。
しかしその縁談話も、ディーンが『勇者』として選ばれたことで跡形もなく消え去った。
『勇者』をはじめとする聖職者には婚姻が許されない。神へ身を捧げる者に、伴侶を持つことは許されないのだ。
神によって恋路を断たれたことにカトリナは激しく怒り、嘆き、悲しんだ。本来なら祈りを捧げるべき神を心から憎んだことさえあった。
しかしどれだけ神を恨んだところで、ディーンが『勇者』の座から解放される訳ではない。彼の隣に行くためにと、カトリナは今度は聖女候補に名乗りを上げた。
聖力の強さだけで言うなら、カトリナも『聖女』として申し分ない。聖職者を多く輩出してきた遠縁のブラッドフォード家から、直々に神殿入りを勧められたこともある。その時は、婚姻も許されず神殿に閉じ込められるなんて御免だとすげなく断ったのだが。
だが、ディーンが『勇者』として神殿に拠点を構えるなら、話は別だ。
『聖女』としてなら、誰に憚ることなく彼の隣に立てる。それはカトリナにとって、何より魅力的なことだった。
たとえ男女として結ばれることがなくても構わない。同じ時代を生き、『勇者』と『聖女』として共に名を刻めるのなら、それで十分だった。
だが、そんなささやかな願いすら、あっけなく踏みにじられる。
——あの女だ。
名前を思い出すのもおぞましいあの女——カトリナの一つ前に、『聖女』として戴かれた女。
あの『魔女』のせいで、カトリナの全てが狂った。
あの女は、平民の出でありながら、その規格外の聖力によって神殿に見出され、瞬く間に『聖女』の座へと上り詰めた。
そしてあろうことか、身の程知らずにも、ディーンの心までも奪ったのだ。『勇者』として、誰のものにもならないはずだった彼の心を。
許せなかった。
あの女が『聖女』として讃えられるのも、ディーンの隣で微笑むことも。
そこに立つべきなのは、わたくしだったのに。
わたくしの方がずっと、ディーン様を愛しているのに。
そんな想いが、カトリナの胸で昏く燃えた。
だから、奪った。
全て、全てを。
あらゆる策を巡らせ、何年もの時をかけ、地道に、着々と。
あの女を支持する者たちを切り崩し。都合の悪い者を遠ざけ。醜聞を捏造し。少しずつ孤立へ追い込んでいった。
幸いにも、カトリナにはそれを成し遂げられるだけの力があった。オーギュストという、あの女を目障りに思う協力者もいた。
かくしてあの女——先代聖女は、『魔女』として散ることになる。
そしてその『魔女』を告発した功績が認められ、カトリナは新たな『聖女』としてその座に就いたのだった。
そこから先思いもよらない事態に発展したが、それはまた別の話である。
「——とはいえ、神殿の者が聖女様を愚弄するなど、あってはならないことです。私の方から注意を促しておきます」
「……そう。好きになさい」
そっけなく答えるカトリナに、侍女はどこか憤慨したようにそう言った。
アネリアの代わりとして新たに付けられた侍女である彼女は、下級ではあるが貴族の出自であり、高位貴族の令嬢であるカトリナには殊更礼を尽くした。
命じられたことは黙ってこなし、余計な口出しも決してしない。アネリアとは違ってよくできた侍女出会った。自分を第一に据えたその言葉に、カトリナは満足そうに微笑んだ。
「——あれ、カトリナ様。お召し物から何か落ちましたよ」
と、ふと侍女が足を止め、身を屈めカトリナの足元へ手を伸ばした。
カトリナは興味なさげに答える。
「どうせゴミ屑か何かでしょう。片付けておきなさい」
「いいえ、違いますよ。ほら——綺麗なお花です」
「え?」
振り返ったカトリナの眼前に差し出されたのは、白い花弁をつけた小さな花だった。
どこにでも咲いていそうな、なんの変哲もない花。
けれどそれを認めた瞬間、カトリナの眉が大きく寄せられた。
「先ほど庭園を散策した時に、裾へ引っ掛かったのかもしれませんね——」
「——ちょっと、貸しなさい」
「えっ?」
言うや否や、カトリナは侍女の手から花を奪い取った。
侍女が戸惑う中、カトリナは掌の上の花をじっと見つめる。
しばしの間、その花を紫の瞳に焼き付けると——
「……ふ、小賢しい真似を」
そう呟いて、冷たく笑みをこぼした。
瞬間、花は音もなく黒く焦げ、掌の上で灰へと変わる。
突然の出来事に、侍女が「わ……っ!?」と間の抜けた声を上げた。
だがカトリナは意にも介さず、軽く手を払い灰を床に落とした。
「不愉快よ。塵一つ残らないよう掃除しておきなさい」
そして、冷ややかな声で命じる。そのままカトリナは、彼女を置いて歩き去っていった。
振り返ることもない彼女の背中に、事情の飲み込めない侍女は「は、はあ……」と戸惑った返事をすることしかできなかった。
その翌日からだった。カトリナの行く先々に、花が咲くようになったのは。
サロンの扉に、私室へと続く廊下に、祈祷の間の祭壇に。
まるで彼女の存在を祝福するかのように、あるいはその場へ閉じ込めようとするかのように。小さな花々は、神殿のあらゆる場所で静かに咲き誇った。
何の前触れもなく現れるその花に、侍女たちの中には「聖女様の奇跡かしら」と喜ぶ者もいた。
しかしカトリナにその話題を楽しむ気はなかった。
彼女の紫の瞳は、すでに見抜いていたからだ。——この花が、アネリアの『呪い』であることを。
『呪い』とは、本来人のためにあるべき『聖力』を、他者を害するために用いたことで穢れた力。
そしてカトリナの瞳は、それを見分けることができた。
咲き乱れる花々からは、アネリアの聖力——いや、もはや呪力と呼ぶべき力が感じられた。
花の形も、かつてアネリアがサロンや自室へ飾っていたものと同じだった。見間違えるはずがない。
魔女として断罪された彼女の罪は、もちろんカトリナが捏造したことではあるが、なるほど彼女は死してその『魔』に堕ちたのか。なんと皮肉なことだろう。カトリナは掌の上で『呪い』の花を弄びながら、僅かに口元を歪めた。
「……せいぜい足掻きなさいな、アネリア」
たちまち黒く焦げ、灰となって零れ落ちるその花を見下ろしながら、カトリナは嗤った。
灰だけが、音もなく床へ散っていった。
衣装部屋にも、鏡台にも、果ては寝台の上にまで。その花は咲いた。カトリナの行く先々が花畑に変わると、神殿でも噂になった。
だが、カトリナは気にしなかった。『呪い』の力は、それより強い『聖力』を持つ者には効かないからだ。
アネリアの聖力は弱い。
その力が呪いに変じたところで、カトリナを害することはできない。カトリナは何度でも、己の聖力を使ってその花畑を消し炭に変えた。
しかし、どれだけそうしても、また花は咲いた。
気づかず蔓に足を取られたり、紅茶を口にした瞬間喉を焼くような熱に襲われ、思わず吐き出した茶の中から花が現れたこともあった。
その頃にはさすがのカトリナも、背筋に冷たいものを感じ始めた。
彼女の瞳には見えていたのだ。花に宿る『呪い』の力が、日に日に増していくことが。
やがて花々は、まるで意思を持ったかのようにカトリナへ牙を剥き始めた。
蔦が伸びて首へ絡みつこうとしたことも、寝台いっぱいを埋め尽くしす花弁に窒息しかけた夜もあった。
——花が、自分を殺そうとしている。それも、自らの聖力では相殺しきれないほど強い力で。
ここまでくればカトリナも、そうと認めざるを得なかった。
まさかと思う気持ちはある。アネリアにはそこまでの力など決してなかったのだから。
まして『聖女』である自分を上回る力など、そもそも王国中を探しても片手で数えられるほどしかいないはずだ。
それなのに、この自分でさえ抑え込めないほどの『魔』の力を持つ者など——
どくり、心臓が嫌な音を立てた。
カトリナの脳裏に、不意に長い黒髪が過ぎる。振り払うように大きく首を振った。
——まさか、そんなはずがない。
そうは思うが、これ以上放置することもできなかった。
行く先々花だらけにされては聖務もあったものではないし、何より自分の命が危うい。
——あれを頼るのは、できれば避けたかったけれど……
胸中でそう毒づきながら、カトリナは中央塔へ向かった。
高位神官たちの執務区画、その最上階にある重厚な扉の前で足を止める。
そして躊躇もなく扉を押し開き、高圧的な声を上げた。
「——オーギュスト。少し話があるのだけれど」
突然の来訪にもかかわらず、執務机の向こうにいたその男は少しも動じなかった。
むしろ予想していたかのように、その唇に優雅な笑みを浮かべる。
そしてその瞳をカトリナに向けると、
「……ああ、ようこそ、カトリナ。実は私も、君に話があったのだよ」
笑みを浮かべたまま、温度のない声でそう言ったのだった。




