13.アネリア⑫
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「 愛してるわ 」
——慈愛に満ちた声が耳をくすぐり、アネリアはゆっくりと目を開けた。
冷たい石床の感触も、喉を焼く毒の苦しみも、いつしか遠のいていた。
ひたすらに重かった胸の痛みまでも、静かな囁きによってじわりじわりと溶けていく。
胸を満たすのはどこまでも深い愛、愛、愛、愛愛愛愛愛愛。
その深い深い慈愛を、アネリアは知っていた。
聖母のように優しく囁くその声を、自分は、自分は。
泣き出しそうな気持ちで顔を上げる。
いつの間にかアネリアは、夜の中に立っていた。
果てのない闇と、頭上には満月。足元には水鏡のような黒い地面が広がり、その上を淡い月光が揺れている。
風も音も感じられない、静寂に包まれた『夜』。
夢と現の狭間、その空間に、柔らかな声が落ちた。
「——それであなたはここに囚われたのね。祈りも矜持も、全て奪われて」
月光の下、長い黒髪が揺れる。
黒猫を傍らに侍らせた女が、静かにアネリアを見つめていた。
薄い唇が見慣れた微笑みを浮かべる。
「こんにちは、私は『魔女』。あなたの願いを叶えに来たの。
——なんて、今更自己紹介なんてするまでもないかしら」
クスクス。
喉を鳴らしながら、血のように紅い瞳が悪戯に細められる。
瞬間、アネリアの中の何かが決壊した。
——ああ、ああ、ああ。
私はきっと、ずっとこの日を望んでいた。
「願い、など……! そんなもの、もう、ありません。許されるならば……あなた様に、あなた様の手で、どうか、私を、罰してください……!」
枯れた声を振り絞る。
アネリアはそのまま、その場へと崩れ落ちた。
溢れた涙が夜の水鏡に波紋を落とす。
心を震わすのは悔恨と、そして紛れもない歓喜だった。
星の海の中、胸の前で両手を組む。
願いなど、愚かな自分にはそんなものを抱く資格すらない。
心からそう思った。そう思ったのに。
「……ふうん?」
魔女は訝しげに片眉を上げると、ゆっくりとアネリアの元へ近づいた。
ふわりとその身体を夜に浮かべ、音もなくアネリアの前に降り立つ。
「それはおかしいわね。
この場所に招かれるのは、死してなお強い恨みに囚われた者だけ。
……ねえ、アネリア。この私に、隠し事をするつもり?」
「——っ!」
魔女は言いながら、アネリアの胸元へそっと指を伸ばした。
その言葉に、仕草に、アネリアは息を呑む。
「わ、私は……」どくり、心臓が脈打った。重く沈んだ感情が揺れる。
「私は……!」願いなど、抱く権利はない。そう思ったのは本当。だけれども同時に、こう思ったのも本当だ。
『もしも自分に力があったなら』、と——。
「ああ、愛してるわ、アネリア。あなたの無垢な愚かさも、優しい脆さも。だから——」
魔女はそう言うと、しなやかな指先でアネリアの頬を撫でた。
よりいっそう優しい声で囁く。
「もう一度聞くわ、私の愛しい踊り手よ。あなたの願いはなぁに?」
紅い唇が静かに弧を描く。
同時に、あらゆる感情がアネリアの胸に流れ込んできた。
カトリナの高らかな笑い声。ディーンの動かない表情。牢獄の冷たさ。突きつけられた絶望の色。
——ああ、もしも自分に、力があるとしたならば。
一体何を守れるだろう。何に反抗できるだろう。
繰り返される悲しみを、断ち切ることはできるのだろうか——?
どくり、心臓がまた脈を打つ。
顔を上げたアネリアに、魔女は満足そうに頷いた。
「自分の無力さを嘆くのなら、私が力を貸しましょう。
——あなたがその血を、捧げるのならば」
涙はもう止まっていた。
長い年月をかけて育てた献身は、もはや根から腐り落ちた。
その骸を踏み台にするように、胸の奥で新たな芽が顔を出す。
細く弱々しかったそれは、瞬く間に蔦となり、アネリアの全てを覆い尽くす。
代わりに咲いた花、その花弁に色をつけるのは、もはや純粋な祈りではない。
「さあ、幕を上げましょう——」
アネリアの眼前に、白い手のひらが差し出される。
その細い指先だけが、いつだってアネリアの標だった。
月光が揺れる。夜が大きく脈打つ。
夢は、そこで深く沈んでいった。




