12.アネリア⑪
「————————————は?」
あまりにも何気なく告げられた言葉に、アネリアは目を見開いたまま固まった。
間の抜けた声が唇から漏れる。
何を言われたのか理解できず、恐る恐る顔を上げた。
震える瞳でカトリナを見つめる。
そんな彼女に向かって、カトリナはこの上なく美しい笑みを浮かべた。
「言おうかどうか、迷っていたのだけれど……ほら、わたくし『聖女』でしょう? それなら罪人であるあなたにも、少しくらい慈悲を与えるべきかと思って」
カトリナは肩を竦めると、どこか楽しげな声で言った。
扇子の先を顎に添え、クスリと笑う。
「死にゆく者にも、真実を知る権利くらいはあるでしょう?」
「真、実……?」
「そう、あなたの大好きな先代聖女のことよ。『聖女』でありながら『魔女』に堕ちた罪深き女。あれはね、『魔女』なんかじゃなかったの。あれに被せられた罪は全て、わたくしとオーギュストが仕組んだものだったのよ」
カトリナはまるで、可愛らしい笑い話でも語るように無邪気な笑顔のまま、言葉を重ねた。
ペラペラと紡がれる言葉たちが、アネリアの脳内でこだまする。
頭の中がぐらぐらと揺れるような感覚に襲われた。
耳から入ってくる言葉を、脳がうまく処理してくれない。
「な、にを……言って……?」
掠れた声で問い返す。返答などきっと求めていなかった。
『魔女ではない』『被せられた罪』『仕組んだ』
その一つ一つをようやく飲み込んだ瞬間、アネリアは叫ぶように声を上げた。
「そ——んなわけがありません! だってあの時、私たちは事実あの方に必要以上の血を奪われて……!」
「その指示をしたのは誰? あの女が自らあなたたちのところへ来て、血を差し出せと命じたの?」
「それは……」
言葉に詰まる。たしかに先代自身に強要されたことなど一度もない。
しかしあの当時、「聖女の祈祷のために必要だ」と言われ、毎日のように聖務官へと血を捧げるのが自分たちの日課だった。「もうこれ以上は無理だ」と懇願する自分たちに、「『聖女』からの命なのだ」と彼は申し訳なさげに目を伏せた。
——あれ、そういえば。
あの聖務官は、今ではオーギュストつきの神官として出世したと聞いたような——
背筋が冷えた。心臓がバクバクと嫌な音を立てる。
しかし、それならなぜ。アネリアの諫言に耳を貸さなかったのだ? 何度訴えても、多忙だと言って話を打ち切られたのだ?
……いや、当時の彼女は事実多忙だった。そんな中、もし身に覚えのない非難を何度も受けていたのだとしたら——
「あとは何だったかしら。一部の豪商や地主と結託して飢饉を引き起こした罪、疫病を広め奇跡を演出した罪……ああそれから、高位貴族の男を誘惑し堕落させた罪なんてものもあったわね」
罪なき者に被せたというその『罪』を、カトリナは楽しげに指折り数える。
ころころとした笑い声は鈴のように愛らしく、アネリアの耳をくすぐった。
無垢な幼子のような笑みを浮かべたまま、カトリナは首を傾げて問う。
「それもこれも全部、全部、わたくしとオーギュストが仕組んだことなのよ。驚いた?」
告げられた言葉と、その表情の乖離に混乱する。何を信じればいいのかわからなかった。
だけど、一つだけ確かなことがある。
目の前にいるカトリナは、無実の自分を偽りの罪で断罪しようとしている女だ。
そんな彼女が、過去にも同じ手口で先代を陥れたというのなら——
「な、ぜ……!? なぜ、そんなことをしたのですか!? 先代様を——聖女様を陥れるだなんて……! それにあの時、私たち巫女がどんな思いをしていたか、ご存知でしょう!?」
アネリアは泣き出しそうな声で叫んだ。
掴みかからん勢いで身を乗り出す。その間に堅牢な鉄格子が横たわっていなかったなら、実際その痩躯に掴み掛かりこの石床にでも引き倒していたことだろう。
冷たい格子を両手で握り締める。がしゃりと乾いた音が鳴った。
「——だって、邪魔だったんですもの。あなたたちが一番」
そんなアネリアにカトリナは、あっけなく言い放った。
「あの女を『聖女』の座から引き摺り下ろすには、あの女に心酔する神殿内の人間たちが何より邪魔だったのよ。市井の評判なんてどうとでも操れる。罪状だって好きなだけ捏造できる。でも、あれの本当の姿を知っている者たちは、そう簡単には騙されないでしょう?」
「そ、んなことで……?」
「大事なことよ。わたくしが『聖女』の座に立つためにはね」
呆然と呟くアネリアに、カトリナは即座に言い返す。
あまりにも当然のように言い切られ、アネリアは脱力した。
自分が『聖女』の座に立つ、ただそれだけのために。
このひとは、一体どれだけの犠牲を強いたのだ?
「血を奪われすぎて死んでしまうなら、それでもよかった。そうでなければあの女に反感を抱いてくれればいい。まあ、あなたのおかげでこのわたくしに感謝する者が増えたのは、嬉しい誤算だったかしらね」
クスクス、クスクス。楽しそうな笑い声が地下牢に響く。
その笑い声を聞いた瞬間、アネリアは、全身から血の気が引いていくのを感じた。
そこでようやく。本当に、ようやく。
自分が何をしたのか気づいてしまったからだ。
「…………待っ……、て、ください。無実、ってことは、………………私が、告発したことは……?」
今にも消え入りそうな声で、アネリアは呟く。
鉄格子を掴む手は震え、視線は定まらず左右に細かく揺れ続けた。
そんな彼女を見下ろし、カトリナはニコリと微笑んだ。
——慈愛に溢れた、聖女のような微笑みで。
「ねえ、アネリア。わたくしのために、虚偽の告発をしてくれてありがとう」
「————!」
アネリアはついに崩れ落ちた。
脳裏に浮かぶのは、かつての主の姿だ。
誰よりも優しく誰よりも気高く、ただひたすら祈りを捧げていたその姿。
不作に疫病に、揺れる王国の果てから果てまで駆け回り、『聖女』としての務めを果たし続けたその姿。
その全てが偽りで、裏では私欲に溺れていたのだと知り、どうしようもなく傷ついたというのに。
「ぁ、あ……」
震える唇から声が漏れる。
ずるずるとその場にへたり込む。冷たい鉄格子だけがもはや支えだった。
何度も注意を繰り返す自分に、「なんのこと?」と困ったように首を傾げたその姿。
裁判の場で告発した自分に、「違うの、信じて」と何度も縋ったその姿。
そんな彼女に、自分は何をした? 自分はなんと言った?
あの漆黒の瞳に宿っていた絶望が、本物だったのだとしたら——
「あ、……ぁ、ぁあああ、あああ——っ!」
牢獄の中に崩れ落ちながら、アネリアは叫んだ。叫ばずにはいられなかった。
長年自分を支え続けていたものが、ガラガラと音を立てて壊れていく。
大切だった思い出に、泥を塗ったのは自分だった。誰よりも敬愛し、誰よりも近くで支えたいと思っていた人を、最後の最後で突き落としたのは——他でもない、自分自身だったのだ。
「ああ……あぁ……」
口からは言葉にならない叫びがひっきりなしに上がった。腹の底から逆流してくる悔恨に、狂いそうになって何度も頭をかき混ぜる。
息が詰まる。唇が震える。うまく呼吸ができない。はっ、はっ、と肩で浅く息をするたび、喉は枯れ胸は熱く張り裂けていった。
瞼から、額から、噴き上げてくる熱い雫が涙なのか汗なのか、そんなことすらわからなかった。
瞳が細かく揺れる。瞬きもできない。
——私は。
——私は、一体なんてことを……!
「そう、そうよアネリア! やっと見せてくれたわね、その表情!」
絶望に打ちひしがれるアネリアを見下ろしながら、カトリナは声を高くして笑った。
ケラケラと愉しげな声がアネリアの頭上に降り注ぐ。
「あの女そっくりだと言ったことは撤回するわ。あれは最期まで、そんな顔を見せてくれなかったもの。まったく忌々しいったらない、あなたみたいに頭の一つでも垂れていたら、情けくらいかけてあげてもよかったのに」
やっと胸がすいたと、カトリナは嗤う。
まるでアネリアの向こうに、別の誰かを見ているかのようだった。いや、事実そうだったのだろう。カトリナがここまで執拗にアネリアを虐げ続けたのは、きっと。
「……ふっ、ぅう、あ……っ!」
だけどそんなことすら、アネリアにはもうどうでもよかった。
後から涙が溢れて仕方なかった。今すぐにでも魔女裁判を開いてほしかった。処刑人を連れてきてこの場で自分の首を刎ねてほしかった。
読み上げられる罪の全てを受け入れるから。刃でも炎でも、何でもいいから自分を罰して欲しかった。
そうでなければ、とても償いきれない。自分が犯した過ちの重さに押し潰されてしまいそうだった。
「ああ、いい子ねアネリア。あの女とはまったく違う。ねえ、そんないい子なあなたには——」
そんな彼女に向かって、カトリナはことさら優しい声をかけた。
言いながら自身の懐を探り、何物かを取り出しながら告げる。
「——せめてもの、慈悲をあげるわ」
取り出した小瓶を、鉄格子の向こう側へと置く。
ことりと小さく音を立てたそれは、意匠の細やかなガラスの小瓶だった。
どこかで見覚えがあると、虚な思考の中でアネリアは考える。
黒々とした液体で満たされた、それは——
「……おやすみ、アネリア。いい夢を」
そう言い残して、カトリナは静かな足取りで地下牢を去っていった。
靴音が遠ざかり、やがてそれも聞こえなくなる。
残されたのは小さな毒瓶と、たしかな絶望だけ。
遠くで神殿の鐘の音が響いた。祈祷の時間だ。
だけどアネリアは、もはやその両手を組むことすらできなかった。自分には神へ祈る資格すらないと、そう思えてならなかった。
ずりっ……。
力の抜けた身体を引きずって、置かれた小瓶へ近づく。
ずり、ずりっ……。
伸ばした指先が瓶を掠め、からりと小さな音を立てて石床に倒れる。
そのまま、カラカラと乾いた音を響かせ、自分の足元へと転がってきた。
「…………ふっ」
思わず笑いが漏れた。
あまりにも出来すぎていた。まるで神の思し召しのようだった。
こんな時に神の御心を感じるなど、なんと皮肉なことだろう。
『祈りは必ず届く』と、そう口癖のように語っていた先代様は、一体どんな想いでこの牢に囚われていたのだろう。
無実の罪を着せられ、侍女にすら信じてもらえず、最後には自らの身を削って救い続けた民から罵声を浴びせられ処刑された。
——『正しい道を行けば必ず報われる』そんなことを心から信じているのでしょう?
ふと、カトリナに言われた言葉が脳裏をよぎった。
ようやくその意味を理解した。自分で自分が、どうしようもなく滑稽だった。
——ああ、いい子ねアネリア。あの女とはまったく違う。
その通りです、カトリナ様。
どれほど憧れても、敬愛しても、私はあの方のようにはなれない。
自分程度の言葉でも波紋くらいなら生むことはできると、そんな想いも今は跡形なく消え失せていた。
自分はあまりにも愚かで、あまりにも小さい。聖女や枢機卿に抗うには、あまりにも無力だった。
そう思うと、胸の奥から力が抜けていった。
もし自分にもっと力があったなら、何かを変えることはできたのだろうか。
先代を冤罪から守り、勇者を呪いから救い、彼らに迫る『魔』の手を払い除けることができただろうか。
——ああ、でもそれも全て、考えたって栓ない話だ。
黒い液体が、薄暗い牢の中で鈍く揺れた。
足元に転がる小瓶を、アネリアは拾い上げる。
その手は、もう少しも震えてはいなかった。




