10.アネリア⑨
自室へ戻ったあとも、震えは一向に収まらなかった。
目を閉じ、毛布を頭から被っても、扉越しに聞いた会話が何度も何度も反芻されて、結局、その夜は一睡もできなかった。
知ってしまった事実が、アネリアに重くのしかかる。カトリナの世話をするたび、遠くにディーンの姿を見かけるたび、言いようのない焦燥が胸を焼いた。巫女たちに「カトリナ様とはお話しできた?」と尋ねられるたび、なんとも言えず曖昧に濁すことしかできなかった。
——いや。
本当は悩むようなことではない。どう考えても、忘れるべきだ。
自分は何も聞いていない。何も知らない。そんなふりをして生きるべきだと、アネリアとてよくわかっていた。
『呪い』。それも、あの『勇者』にかけられた。
そんな大それた問題、一介の巫女である自分の手に負えるはずがない。まして関わっているのは現聖女カトリナと、枢機卿オーギュスト。
カトリナもだが、神殿中枢を担う枢機卿の醜聞など、どうしたって自分の手には余る話だ。だけど——
同時に、頭を掠める想いもある。——本当にそれでいいのか、と。
人を『呪う』など、決して許される行いではない。もはやオーギュストは『魔』に堕ちているのと同じである。
そしてカトリナは『呪い』が見抜ける。
全て知っていて加担したのだ、オーギュストの『計画』とやらに。
『魔女』の断罪を主導した二人がその実、自らも『魔』に侵されていた。それなのに何の償いもなく、今なお神殿の要職に就いている。
そんなことが、許されていいのだろうか。
自分は、巫女である。神に身を捧げた、聖なる僕。
そんな自分が、この事実を知りながら見過ごしていいのか?——
それは、自らも『魔』へ堕ちることと同じなのではないのか?——
その問いだけが、アネリアの胸を絶えず苛み続けていた。
考えては首を振り、また頭を抱えて思考に沈む。アネリアは、まるで出口のない迷宮へ放り込まれたような気分だった。
巫女として、一人の人間として、カトリナの侍女として——自分は何をすべきで、逆に何をすべきではないのか。考えても答えは見つからなかった。
カトリナもまた、『呪い』を解きたがっていた。
加担したのは事実なのだろう。けれど、今はそれを正そうとしている。
ならば、自分が侍女として優先すべきなのは、カトリナの心ではないのか。
彼女を支え、彼女の望みを叶えるために動くことではないのか。いや、しかし——
『汝、人を愛せよ』
先代が口癖のように呟いていたその言葉が、不意に胸をよぎった。巫女として、何度も唱和した神殿の教え。
——私はまた、主が魔の道へ堕ちていくのを見過ごすのか?
「——……っ!」
アネリアは勢いよく顔を上げると、迷いを振り払うように立ち上がった。そして、その足でサロンへと向かう。
カトリナが聖女となった時、自らのために設えさせた専用のサロン。
神殿内の一室とは思えないほど豪奢な調度品が並ぶその場所。この広い大神殿の中で、彼女が最も気に入っている空間。
アネリアは迷わずその扉へ手をかけ、そのまま大きく開いた。
突然の来訪に、カトリナは僅かに目を見開く。
そのあとすぐにいつものように優雅な笑みを浮かべ、「あら、アネリア。どうしたの?」と、澄んだ高い声で尋ねた。
美しい相貌。どこか人を見下したような仕草。自分が、長く主と仰いできた人物。
その姿を認めて、アネリアは一度深く息を吸い込み——そして、意を決して口を開いた。
「カトリナ様。……お話が、ございます」
*
「カトリナ様。……お話が、ございます」
そう切り出したアネリアに、カトリナが返したのは、「……まずは一杯、お茶を淹れてくださらない?」
そんな一言だった。
あまりにもいつも通りの調子に、アネリアは思わず面食らう。これから大切な話をしようとしているのにと、そう思いながらも断ることもできず、自分の気持ちを落ち着ける意味も込めて薬草茶を淹れる。
温室のなくなった今、これを淹れられるのもあと数回だろう。……いや。そもそも、この話を切り出せば、彼女にお茶を淹れてやる機会すらなくなってしまうのだ。それでいい。その覚悟で、自分はここへ来た。
「……で?」
しばらくして、カトリナが口を開く。
「何よ、話って」
アネリアが差し出した茶には目もくれず、彼女は言う。
突然本題を促され、アネリアは僅かに息を詰まらせる。
だが、こんなところで怯んではいられない。
覚悟を固めるように一つ息を吸い込み、ゆっくりと口を開いた。
「……先日、聞いてしまったんです。カトリナ様と——オーギュスト閣下の会話を」
アネリアの言葉に、カトリナは小さく目を瞠った。次いで眉を顰め、美しい相貌をこれみよがしに歪める。
その表情が示すのは不快か、疑念か、あるいは警戒か。
アネリアにはわからない。それでも視線を逸らさず、言葉を続けた。
「先日、枢機卿閣下の執務室に向かわれましたよね。私、その場にいたのです。カトリナ様にお話ししたいことがあって、お姿を探していたら……閣下の執務室へ入るところを見たと、神官の方に教えられて」
「……」
「だから私、中央塔へ向かったんです。オーギュスト閣下の、執務室へ。そして、その扉の前で……聞いてしまったんです。お二人が、話されていた内容を」
「聞き耳を立てていたってこと? 悪趣味ね」
「ち、違います! 決してそのようなつもりではなくて……!」
カトリナの冷ややかな言葉に、アネリアは大きく首を振る。
「本当に偶然だったんです。扉を叩こうとした、その瞬間に声が聞こえてきて……そのまま、動けなくなってしまった。あまりのことに……だって、オーギュスト閣下が、ディーン様に、『呪い』をかけているなんて、そんな、そんなこと……!」
アネリアは、ほとんど叫ぶように言い切った。感情を抑えきれず、声が震える。握り締めた手が痛いほどだった。
だが、そんなアネリアを前に、それでもカトリナは沈黙を崩さない。
驚きも、否定もしない。反論の一つすら。
ただ静かにアネリアを見つめる紫の瞳に、アネリアは悟った。——自分の聞いたことは、全て事実なのだと。
心の中で、何かが決壊する。
ここに来てもなお、これが冗談だと、何かの聞き間違いだと、そう信じたかったのだ。
息を吸った、唇が震えた。
「……本当、なのですね。ディーン様のお心を、『呪い』で縛っているというのは」
震える声で、アネリアは言った。絞り出すような問いだった。
だが、カトリナはそれにも何も答えなかった。卓上の茶器に手を伸ばすこともなければ、気まずそうに扇子で顔を隠すこともない。ただ黙って、アネリアを見つめていた。
アネリアはたまらず、その場に膝をついた。
「カトリナ様、お願いです! 私と一緒に、教皇猊下のもとへ参りましょう!」
カトリナの足元に跪き、祈るように両手を組む。
縋るように言葉を重ねた。
「全てをお話しして、罪を告白するのです。今ならまだ、間に合います……!」
——それが、アネリアの出した答えだった。
また、主が道を踏み外すのを止められなかった。それならば自分は、主と共に責を負おう。
先代の時、自分は彼女を告発することしかできなかった。
だが、違うのだ。自分が侍女として、巫女として果たすべき役目は、主を見捨てることではない。
共に、罪と向き合うことだ。共に神の御前へ進み出、共に裁きを受けること。
『聖女』でありながら『勇者』への呪いに加担した、その罪がどれほど重いものなのか、アネリアにはわからない。
それでも構わない。
神の赦しを得られるまで、いや、たとえ得られなくても。
カトリナと共に、その罪を背負おう。
それが彼女の侍女として——かつて彼女に救われた、一人の人間として。
今の自分にできる、唯一の償いだ。アネリアは、心からそう思った。
「どうか……どうか。このままでは、カトリナ様のお名前が汚れてしまいます。私が間違っているなら、どうか罰してください。でも……先代から、『魔女』から、私たち巫女を救ってくれた。カトリナ様には、とても感謝しているのです。そんな優しいお心を持ったあなたが、これ以上『魔』に穢れていくのを見たくない。だからどうか、どうか、神の信徒として、正しき道に戻ってください……!」
震える声で、アネリアは続けた。
懇願だった。
何度も言葉に詰まる。話しているうちに涙が溢れ、最後の方はまともに言葉になっていたのかさえわからない。
神へ祈りを捧げるように、ただただカトリナに請う。
組んだ両手は震えていた。背筋にはずっと冷たい汗が這っているのに、心だけは焼けるように熱かった。
「……」
跪いた姿勢のまま、カトリナの返答を待つ。
静寂が落ちた。
袖にされる可能性も、もちろんアネリアは考えていた。できるだけ考えたくないことではあるが。その時はまた、別の覚悟を決めなければならない。
だから、どうか。できるだけ穏便に。
彼女自身の意思で罪を認め、悔い改めてくれることを。ただただ心で願った。
この想いがどうか、カトリナに届いてほしいと。ただ、そう願った。
「……ふっ」
長い沈黙のあと、張り詰めた空気を最初に揺らしたのは、そんな小さな吐息だった。
アネリアははっと顔を上げる。恐る恐る視線を向けたその先で、アネリアの目に飛び込んできたのは、
「ふ、ふふ。あは。あははははははは!」
——口元に手を添え高らかに笑う、カトリナの姿だった。
「ああ、莫迦らしい。本当に。あなたはどこまで愚かなのかしら、アネリア」
クックッと喉を鳴らしながら、カトリナは笑った。
先ほどまでの張り詰めた空気など最初から存在しなかったかのように、心底愉快そうに笑い続ける。
そして紫の瞳を細め、ゆっくりと顎を上げる。
「莫迦ね。本当に大莫迦。——そう言われて、このわたくしが頷くと、本気で思っていたの?」
「え……?」
クスクスと嘲るような声音に、アネリアは目を見開いた。
たしかに、突然侍女から「悔い改めよ」と言われたところで、簡単に受け入れられるものではないだろう。
だが、アネリアは知ってしまったのだ。彼女とオーギュストの罪を。
もしこの事実が公になれば、二人とて無事では済まないはずだ。それならそうなる前に、自ら罪を告白するべきだ。そう思っての諫言だったのだが……。
なのに、カトリナはなぜこうも余裕でいられるのだ?
じわりと嫌な汗が背を伝った。
「告解など求めるくらいなら、あなたが勝手にすればよかったのに。まあ、後ろ盾の一つもないあなたの言葉を、教皇猊下が信じるとも思えないけれど」
「カトリナ、様……?」
「答えはノーよ、アネリア。そんなに罪を償いたいのなら、あなた一人でなさいな」
カトリナはそう言うと、手にしていた扇子をバサリと開いた。
そしてそれで口元を覆い、視線だけで冷たくアネリアを見下ろす。
言われた言葉をやっと飲み込んで、アネリアは叫んだ。
「で、ですが……! カトリナ様も、ディーン様の『呪い』を解きたがっていたのでしょう!? それなら尚更、猊下のお力をお借りするべきです。勇者相手への『呪い』など——」
「それとこれとは話は別よ。そんなことをしたら、わたくしだってただでは済まない。少なくとも、『聖女』の座からは下ろされるでしょうね。……冗談じゃないわ。どれだけ苦労して手に入れたと思っているの。今更手放したりするものですか」
「そ、それでは、勇者様の『呪い』はこのままでいいと仰るのですか……!?」
「そんなもの。『呪い』が解かれても、わたくしが彼の方の隣にいられないのなら意味がないもの」
「そんな……!」
吐き捨てるようなカトリナからの返答に、アネリアは愕然とした。
『ディーンの呪いを解きたい』その願いは、彼女に残された良心ではなかったのか。
アネリアの中のカトリナに、先代の姿が重なった。
何度諌めても耳を貸さず、多忙を理由に取り合おうとしなかったかつての主。そして、そんな自分に唯一手を差し伸べてくれたカトリナ。
それを思い出して、アネリアは振り絞るように言った。
「それなら……それなら、私一人でも、教皇猊下のもとへ向かいます。もし猊下に取り合っていただけなかったとしても、聖騎士団でも、異端審問官でも、街の衛兵でも構わない。このことを、もうこれ以上、私だけに留めておくことはできません……!」
跪いていた体を起こし、アネリアは言い放った。
まっすぐカトリナを見据える。その瞳には、たしかな決意が宿っていた。
これ以上、『魔』へ堕ちた者に頭を垂れることはできない。
たしかに、自分の言葉程度には、教皇も神殿上層部も耳を貸してくれないかもしれない。
だが、自分の言葉程度でも、波紋を落とすことくらいはできる。
「——失礼いたしました」
そう告げるとアネリアは、カトリナの返答を待つこともなく踵を返した。
そのままサロンを後にしようと、扉に手をかける。重厚な扉を僅かに開けた、その時だった。
「——ああ。やっぱり愚かね、アネリア。あなたのそういうところ、あの女そっくりだわ」
背後から投げかけられたその言葉に、アネリアははっと振り返った。
あの女? 疑問に思ったのは一瞬で、すぐにそれが先代のことだとわかる。
カトリナは、愛用の椅子からゆっくりと立ち上がると、身につけていた聖女服の裾を軽く整えた。その表情は変わらず扇子に隠されたまま、伺い知ることはできない。
「長年侍女をしていたからなのかしら。それとも生まれつきの性分か……どうしてこうも似ているのかしらね。ねえ、アネリア。わたくし、そんなあなたのことが——」
カトリナはそう言うと、扇子で隠したままの顔を少しだけ伏せた。
視線だけをアネリアに向け、冷たく言い放つ。
「あなたのことが、大嫌いだったの」
「えっ……」
唐突に投げつけられた憎悪に、アネリアはびくりと身体が震わせた。
嫌悪を隠そうともしない紫の瞳。
その視線に射抜かれ、思わず息を呑む。
「どこまでも正しいところも。どこまでも自分を正しいと思っているところも。そんな顔をしてディーン様のお側にいるところまで、そっくりだわ」
「ディーン様……?」
カトリナの言葉に、アネリアは眉を顰める。
困惑を滲ませながら首を振った。
「まさか、まだそのような誤解をなさっているのですか? 何度も申し上げたはずです、私はディーン様にそのような感情を抱いたことはありません。私は神に身を捧げた巫女、勇者様に恋慕など——」
「ほら、そこよ。そういうところ。そういうところが大嫌いなの。何が『神に身を捧げた』よ。本当は彼の方に惹かれているくせに。神を言い訳に、自分の心を偽っているだけだわ!」
「……? 何を仰って——」
カトリナの声が鋭く割り込む。紫の瞳が苛烈な色を帯びるのに、アネリアは戸惑った。
言葉の意味がわからなかった。ここまで事実とかけ離れた理由で、カトリナに憎悪を向けられていることも。
「……でも。一番嫌いなのは、『正しい行いをしている自分は、罰せられることなどない』と信じているところよ」
ふいに、カトリナの声音が落ちた。先ほどまでの激情が嘘のように、静かにアネリアを見据える。
「え——?」
その言葉の意味を問い返すより先に、カトリナは手にしていた扇子をパタリと閉じた。
そして、その閉じた扇子の先を、まっすぐアネリアへ向ける。
「——アネリア」
そうして呼ばれた自分の名前に、アネリアはなぜだか凍りついた。
冷え切った声が、瞳が、彼女の全身を支配する。
そして、
「今代聖女カトリナ・ヴィオレッタ・ブランシェの名において——あなたを、『魔女』として断罪いたします」
静まり返ったサロンに、その宣告だけが冷たく響いた。




