9.アネリア⑧
「オーギュストあなた、いつまでディーン様の『呪い』を解かないつもりなの!?」
扉越しに響いたその声に、アネリアはその場で硬直した。扉を叩こうとしていた手を思わず引っ込める。
——呪い? ディーン様の? ……一体、何の話だ?
突然飛び込んできた言葉に動揺する。『呪い』など、この神殿で滅多に耳にする言葉ではない。神殿とはそのような『魔』の力に対抗するための場所なのだから。だからあの温室だって、『魔女の遺物』としてあっさりと取り壊されてしまったのだから。
だが、そんなアネリアの存在など知る由もなく、部屋の中の二人は会話を続ける。中から漏れ聞こえるそれを、アネリアは混乱した頭のまま受け止めた。
「……声が大きい。誰かに聞かれたらどうするのです」
「聞かれたところでこんなところ、あなたの子飼いの神官くらいしか近寄らないでしょう」
「そういう問題では……はあ。いいです、あなたが直情的な性格なのは今に始まったことではありませんから」
深いため息が聞こえた。
扉の向こうで、ギシリと音が鳴る。どちらかが椅子へ深く身を預けたのだろう。
「全く、あなたのような激情家と血が繋がっているなんて、未だに信じられませんよ。また聖務を放棄しているそうですね。聖女としての責務くらい果たしてください。あなたを推した私にまで責任が及ぶ」
「話を逸らさないで! あなた、わたくしが聖女として立ったら『呪い』を解くと約束したじゃない! もう何年経ったと思っているの!?」
カトリナが鋭く遮った。その声には隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
『呪い』。
またその言葉だ。聞き間違いなんかじゃない。アネリアは今度こそ狼狽した。
「……それを解いて、どうするのです? 勇者とは神殿の剣。今のディーンは実によく働いているではありませんか。『呪い』を解いたそのあと、あれが今ほどの働きをするとは思えません」
「働いている? 働かされている、の間違いでしょう! 毎日毎日、国中から呼び出されて。神殿に留まる時間なんて、ほとんどありはしないじゃない!」
「『勇者』の本懐ではありませんか。それのどこに問題が?」
「問題だらけでしょう! わ、わたくしが聖女に立ってから、顔を合わせる機会だって数えるほどしか——」
「——なるほど」
僅かに言い淀みながらも声を荒げるカトリナを、遮るようにオーギュストは言葉を落とした。
そして、容赦なく言い放つ。
「つまりあなたはこう言いたいのですね。——『せっかく聖女になったのに、勇者と過ごす時間があまりにも少なすぎる』と」
「……!」
図星だったのだろう、オーギュストの言葉に、カトリナは勢いを削がれ押し黙った。
そんな彼女にオーギュストは、愉快そうに喉を鳴らして笑う。
「ち、違うわ。わたくしは……!」
「ええ、ええ。わかっていますよ、カトリナ。そうですね、この魔女騒ぎが落ち着けば、ディーンにも休暇を与えましょう。聖務を減らしてやってもいい。その間、彼をどう扱うかはあなたの自由です。なんなら、そう『命令』しても構いませんよ」
「……っ莫迦にしないで! 今の人形みたいなディーン様に何をされても、嬉しくなんてないわ!」
ダンッと、執務机を叩く音が響く。カトリナが金切り声で叫んだ。
激しく迫るカトリナに、だけどもオーギュストはひとつも動じずに応じた。
「おや。人形だからこそ都合が良いのでしょう? 正義のための命令だと言えば、彼は何でも従う。あなたも先日、それを利用したではありませんか」
「そ、それとこれとは話が別でしょう! あれは実際に、あの『魔女』の遺物を処分しなければならなかったのだから……!」
「別? 本当にそうでしょうか。もしディーンにまだ心があれば、あの命令には必ず反対した。あなたもそう思うから、私の『計画』に加担したのでしょう?」
「……っ」
カトリナが息を呑んだのがわかった。室内が張り詰める。
「ディーンの心を縛らなければ、あれは間違いなく『魔女』の処刑の邪魔になった。場合によっては『勇者』の肩書きを捨ててでも神殿へ刃向かったかもしれませんね」
「……やめて」
「だから初めてこの計画を聞かされた時、あなたは喜んだのでしょう? これでディーンはあの女から離れると。逆に、そうまでしないとあれからディーンを引き離すことはできなかった」
「やめなさい」
「彼の心が縛られるのも承知で、あなたは私の計画に加担した」
「黙りなさい!!」
悲鳴にも似た叫びが部屋を切り裂いた。
それは癇癪を起こした子供の声にも、大切なものを奪われた者の慟哭にも聞こえた。どちらともつかない、痛ましい声だった。
——しばらくの沈黙が落ちる。やがてカトリナは、絞り出すように口を開いた。
「……でも、それももう、終わったことでしょう。あの女はいない。それなら——」
「……あなたは本当に愚かですね、カトリナ。我々が今、誰と戦っているのか理解しているのですか?」
冷ややかな言葉に遮られる。
「今『呪い』を解いたところで、結果は同じです。今度は神殿の在り方そのものに反対する。ならば縛ったままの方が都合が良い」
「そんなもの、わたくしがなんとでもするわ。『聖女』として、きちんと彼の隣でお支えして。『魔女』のことだって……」
「どうにかできると? ……あなたに?」
「……っ!」
それは、露骨に嘲りを含んだ声だった。小さく鼻で笑う気配すら伝わってくる。
あまりにも直接的な侮蔑に、それでもカトリナは憤るどころか、むしろ押し黙った。
普段の彼女の苛烈さが嘘のような、弱々しい姿だった。
「安心なさい。次代の勇者でも見つかった暁には、あの『人形』はあなたに差し上げます。その時は好きにするといい。そもそも、あなたたちが『勇者』と『聖女』である限り、結ばれることはないのですから」
「……」
「他に、話は?」
「……ないわ。もういい、戻ります」
力を失ったような声が落ちる。
その言葉と同時に、コツコツと硬い床を歩く足音が近づき、アネリアはびくりと肩を震わせた。
ガチャリ。扉が僅かに開かれ、光が一筋差し込んだ。
息を呑む。
(どうしよう。こんなところにいるのを見つかったら。話を聞いていたと知られたら)
そう思うのに、足が言うことを聞かない。身体が強張り、その場から一歩も動けなかった。
(どうしよう。このままでは……!)
恐怖からぎゅっと瞼を閉じた。その瞬間、
「カトリナ」
呼び止める声に、開きかけた扉が半ばで止まった。
カトリナが振り向く。
「どちらにしろ、私たちは共犯者なのです。それをゆめ忘れないよう」
「……わかっているわよ」
妙に重苦しいオーギュストの一言に、カトリナは吐き捨てるように言葉を返す。
ガチャリ。
今度こそ扉が大きく開かれた。
重厚な扉の向こうから、見慣れた聖女服に身を包んだカトリナが現れる。
隠しきれない苛立ちを浮かべたまま廊下へ出ると、そのまま足音を立て歩き去って行った。
その背後で、パタリと音を立てて執務室の扉が閉まる。
——その一部始終を、アネリアは柱の影に隠れてやり過ごす。そのままずるずると崩れ落ち、冷たい石床へ膝をついた。
手足が震える。ガタガタと歯の奥が鳴った。胸の鼓動だけが、嫌に大きく耳の中へ響いていた。
(どう、しよう……)
頭の中を、その言葉だけが何度も巡っていた。
(なんて話を、聞いてしまったの……!)
その重さに耐えきれず、アネリアは自分の身体を抱きしめた。
呪い? 心を縛る計画? ディーン様に、オーギュスト閣下が?
そしてそれに、カトリナまで関わっている。なんてたちの悪い冗談だろう。そうだと言って欲しかった。けれど、これが冗談ではないことくらい、アネリアにもわかっていた。
思い出すのは、すっかり変わってしまったディーンの姿だ。
少年らしい自由な性格は影を潜め、ただ正義のためだけに剣を振るうその姿。先代との思い出の詰まった温室を、何の感情も見せることなく斬り崩したあの姿。
『魔女』となった先代に裏切られた、その喪失感からそうなったのだと思っていた。あるいは成長したことで『勇者』としての自覚が芽生えたのだと。
けれど違った。
全て違ったのだ。
『勇者ディーンは、枢機卿オーギュストによって、心を縛られている』
……どうして?
彼らの交わしていた会話、その言葉が一つ残らず事実なのだとしたら、それは——
「……っ」
アネリアの脳裏に、長い黒髪がよぎる。思わず口元を手で押さえた。そうでもしなければ、叫び出してしまいそうだった。
(私、とんでもないことを知ってしまったのでは……?)
口元を押さえた手が、わなわなと震えた。全身から血の気が引き、寒気が止まらなかった。膝は力を失い、立ち上がることすらできなかった。
自分の知った真実が、たまらなく、恐ろしかった。




