8.アネリア⑦
(……疲れた、な)
巫女寮の一角に与えられた小さな個室。その寝台に身を横たえながら、アネリアはぼんやりと天井を見つめていた。
白い漆喰の壁、小さな祭壇と窓辺に並ぶいくつかの鉢植えだけが、虚ろな表情を浮かべる彼女を慰めている。
あの温室が壊されてから、数日が過ぎた。
不思議なことに、それ以来カトリナから執拗な折檻を受けることはなくなっていた。
それどころか、今までの苛烈な振る舞いが嘘だったかのように気を遣われる。今もまた、「後はいいから休みなさい」と告げられ、侍女としての仕事もそこそこに部屋へ戻されていた。
温室もない今、聖務まで減らされてしまえば何もすることがなく、持て余した時間をこうしてやり過ごしている。
温室の残骸は、すでに業者によって片付けられたと聞いた。
あれ以来、アネリアは一度もあの場所へ行けていない。更地になったその場所を見たら、自分の中の何かが決壊してしまう気がした。
(……私がディーン様にしたことは、ご迷惑だったのかしら)
ふと、そんな考えが胸をよぎる。
ディーンは自分と同じ、『魔女』に裏切られて傷ついている仲間だと思っていた。それでも彼女を心のどこかで許してしまう、彼女を忘れられずにいる者同士なのだと。
だって、彼はあの温室の前で足を止めたから。誰もいない向かいの席を見つめたから。
だけど違ったのだ。
彼の心に、先代の居場所などもうなかったのだ。懐かしさを感じてくれているなんて、自分の思い上がりだった。彼の方はただ、『勇者』としてただそこにあっただけなのだ。
閃光が頭をよぎる。胸がじくりと痛んだ。
「……神殿を、出ようかな」
ぽつりと呟く。
自分は巫女という生き方に向いていないのかもしれないと、アネリアは最近思い始めていた。
子供の頃は、ただ嬉しかった。聖力なんて、特別な力が認められて。神に仕えられること、『奇跡』のような力を持つ存在にただ尽くせることが、自分にはどうしようもないほど幸せだった。
だけどもう、あの時抱いた純粋な気持ちなど残っていなかった。
敬愛した主は『魔女』として断罪され、その跡を継いだ聖女は自分を執拗に虐げる。どれだけ尽くしても尽くしても、自分の心が届くことはない。
それでもなお彼女らのために生きるべきなのかと、そんな疑問が胸を満たしていた。
神殿を出て、ただの女として生きる。そんな未来を、最近は考えるようになっていた。
聖力を活かして店を開くのもいいだろう。出会いがあって、ただ一人の殿方と人生を歩むのもいい。
神へ身を捧げると誓ったあの日から、一度も思い描いたことのない未来。そんな生き方も、案外悪くないのかもしれない——
そう思い始めた、その時だった。
「……アネリア、いる?」
控えめなノックの音が響く。続いて聞こえた呼び声に、アネリアはゆっくりと顔を上げた。
「あら、あなたたち。どうし——何、その傷……!?」
扉を開けて飛び込んできた光景に、アネリアは思わず声を上げた。
扉の向こうにいたのは、アネリアが特に親しくしている巫女仲間の二人だった。
そのうちの一人が、その片頬を大きく腫らしていたのだ。——まるで、誰かに平手で打たれたかのように。
小さな手のひらで抑えても、隠しきれない赤い痕。大きな瞳を涙に濡らし、もう一人に支えられるようにして立っている。
「ひどい。誰がこんなこと——」
「——カトリナ様よ」
「え」
慌てるアネリアに、低く押し殺した声が返る。
息を呑んだ。
もう一人の巫女が、悔しげに唇を噛みながら、言った。
「わかるでしょう? この神殿で、こんなことをする人なんてあの方くらいだもの。——カトリナ様に、やられたのよ!」
怒りと悲しみの入り混じった声でそう告げられ、アネリアは愕然とした。
ひとまずと二人を部屋へ招き入れ、手早く手当をしてやる。一息ついたところで、二人はようやく事の経緯を話し始めた。
どうやら彼女は、勇者ディーンと話しているところを見られ、悋気を起こしたカトリナに激しく叱責されたらしい。内容は聖務に関するごく事務的なもので、特別な会話でもなければ、業務連絡を二、三交わしただけだというのに。
思わずアネリアは声を上げた。
「そ、それだけで……!?」
「それだけじゃないわ。見て」
「……!?」
そう言うと、巫女は静かに自分の服の袖をまくった。
その細腕には、無数の痣が残されていた。青黒く変色した痛々しい痕。何度も鞭で打たれたことがわかる、自分と似たような傷が。
「……こんなこと、今に始まった話じゃないのよ。少しでも気に入らないことがあると、その場にいた人を適当に呼びつけて当たり散らすの。鞭まで使われることはそこまで多くなかったけれど……」
「最近は特にひどいんです。私たちだけじゃありません、巫女でも神官でも、孤児でもお構いなしで。この前なんて、まだ幼い新人巫女に鞭を向けるものだから、庇ったら今度は私の方が強く折檻されて……」
「そ、そんな……」
「アネリアはカトリナ様を信じているから、あまり言いたくなかったんだけど、ね……」
申し訳なさそうに眉を下げる巫女たちに、アネリアは言葉を失った。
ここまで酷い扱いを受けているのは、自分だけだと思っていたのに。
そして話はそれだけでは終わらなかった。巫女たちは続ける。
自らの聖務が上手くいかなければ、末端の巫女に責任を押し付け、人前で激しく叱責すること。孤児を「汚らしい」と嫌悪し、神殿付き孤児院の廃止を提言したこと。聖力の弱い者を「費用の無駄」と切り捨て、神殿から追放したこと。そしてその分の予算を自身のために使わせていたこと——。
語られるたび、アネリアの顔から血の気が失せていく。
自分が侍女として側に仕えている間、自分の知らないところで、カトリナはここまで好き放題振る舞っていたのだ。
「もうたくさんよ。もう耐えられないわ! みんな、みんなそう言ってる。あんな『聖女』のもとで働き続けなきゃいけないなんて、私、私……っ」
「……実際、限界だって神殿を離れた人もいます。出ていける人はいいんです。でも、私たち、ここを出ても行く場所なんてなくて……!」
巫女たちはそう言うと、わっと声をあげて泣き出した。張り詰めていた感情が一気に溢れ出したのだろう。
「あなたたち……」そんな彼女らに、アネリアはただその背を撫でることしかできなかった。
さめざめと泣く彼女らの顔に、後悔が押し寄せる。
(私はまた、自分の主が仲間たちを傷つけるのを止められなかったのか……)
悔恨に目を細める。
先代が魔女に堕ちた時、それをカトリナに救われた時。自分が誓ったことはただ一つ、『二度と、敬愛する主を道から踏み外させないこと』——ただそれだけだったのに。
「……そう。そうだったのね。ごめんなさい。私、今まで気づけなくて……」
——長い沈黙の末、アネリアは静かに口を開いた。
振り絞るような声に、二人は涙を拭いながら首を振る。「アネリアのせいじゃないわ」「そうです。あなただって被害者なのに……」鼻声で返された言葉にアネリアはかすかに微笑む。
そして大きく、息を吸い込んだ。
「……わかった。カトリナ様にお伝えしてみるわ」
そう言って、顔を上げる。その瞳には、久しぶりに強い意志が宿っていた。
「アネリア……!」
「いくら『聖女』とはいえ、罪のない巫女や孤児を虐げることが許されるはずがないもの」
静かに告げるアネリアに、二人が感嘆の声を漏らした。
もしかしたら逆鱗に触れ、さらに酷い折檻を受けるかもしれない。神殿を追放されることだってあり得るだろう。
それならそれでもいい。
もともと最近は、この神殿を離れることも考え始めていたのだから。もしその結果、ここを去ることになったとしたら、それも神の導きなのだろう。アネリアはそう思った。
アネリアは二人を病舎まで送り届けると、その足でカトリナを探し始めた。先ほど聞かされた話をするためだ。
だが、自室にもサロンにも彼女の姿はない。
アネリアは小さく首を傾げた。普段のカトリナなら、聖務がなければ大抵このどちらかにいる。
そうでなければ庭園で花を眺めているか、あるいは急な聖務でも入ったのか——そう考えながら、通りかかった神官へ声を掛ける。
と、「オーギュスト閣下の執務室へ向かった」と返された。
「枢機卿閣下の?」
「ああ。だいぶ前のことだから、今もいらっしゃるかはわからないが」
「ありがとう。行ってみるわ」
神官へ礼を告げ、アネリアは高位神官たちの執務区画である中央塔へ向かった。
一介の巫女である自分がそこに足を踏み入れることは滅多にない。見慣れた神殿の中であるはずなのに、なんだか背筋が伸びる感覚がした。
しかし、枢機卿閣下がわざわざ、カトリナ様に何の用だろう。
オーギュストは聖女選定官として歴代聖女の擁立に深く関わっており、先代聖女もカトリナも、彼の後見によってその座へ就いた。だから『聖女』へ用があること自体は不思議ではない。だが、それならどうして侍女である自分を通さなかったのだろう。
そういえば、二人は遠縁の親族関係にあると聞いたことがある。それならお身内のお話だろうか……。
取り留めのないことを考えながら、アネリアは中央塔へ続く回廊を進んだ。
枢機卿であるオーギュストの執務室は、その最上階にある。
最高位の神官たちだけが部屋を与えられるその階は、まるで人払いでもされているかのように静まり返っていた。
足音だけが石床に大きく響く。やがてアネリアは廊下の奥へ辿り着き、他のどの部屋とも異なる重厚な扉の前で足を止めた。
(ここまで来たのはいいけれど……どうしよう。枢機卿閣下の執務室だなんて、私なんかが入ってもいいのかしら)
もしもすでにカトリナが帰っていたら。あるいは重要な話の最中だったら……
自分の訪問は迷惑になってしまうかもしれない。
やはり私室へ戻られるのを待った方が——。今になって迷いが生まれる。
だけども悩むアネリアの脳裏に、頬を腫らした巫女仲間の姿がよぎった。
(……いいえ。カトリナ様がいないならいないで、これは閣下へあの方の所業をお伝えする機会かもしれない)
そう思い直すと、アネリアは唇を引き結び、顔を上げた。
そして扉を叩こうと腕を持ち上げた、瞬間。
「——いい加減になさいな、オーギュスト! あなた、いつまでディーン様の『呪い』を解かないつもりなの!?」
キンと高いカトリナの声が、扉越しにアネリアの耳に届いた。




