7.アネリア⑥
『撤去命令書』。
それが何を意味するのか理解した瞬間、アネリアの顔から血の気が引いた。
そんな彼女の反応など意にも介さず、カトリナは「失礼するわね」とだけ告げると、ずかずかと温室の中へ足を踏み入れる。慌てて後を追った。
「お、お待ちください! これは一体——」
「まあ。思っていたより立派な温室ですのね」
静止の声を遮るように、カトリナはわざとらしく感嘆の声を上げた。これ見よがしに、ゆったりと室内を見渡す。
「これは以前わたくしにも淹れてくれた薬草茶かしら。こちらは病舎用、孤児院用——ふふ、さすがアネリア。丁寧ね」
視線が棚から棚へと移る。言葉だけを聞けば褒めているようなそれは、どこか疑わしいものを検分するような色を持っていた。
その細い指先で、扇子の先で、花々を丁寧になぞる。
花瓶に生けられた季節の花。芽吹いたばかりの薬草。小さな白木のテーブル。
その一つ一つを確かめるように見つめ、紫の瞳へ焼き付けていく。
そして、
「だけど残念。——この子たちみんな、すでに『魔』に侵されているわ」
そう言うなり、咲きかけていた花を無造作に握り潰した。
「なっ……!」
息を呑むアネリアの前で、花弁がくしゃりと潰れる。
「カトリナ様、何を——!?」
「この花も、あの薬草も。可哀想に、魔女の残り香にあてられてしまったのね」
カトリナは憐れんだような口調でそう言うと、今度は近くの鉢を扇子の先で小突いて落とし、吊るされていた薬草束を放り投げた。次にアネリアの育成記録帳を見つけては乱雑に投げ捨て、泥だらけになったそれを底の厚い靴で踏み躙る。床に散らばった花々を踏みつけるのも厭わず、そのまま温室の奥へと向かい、「これが魔女の椅子ね」と手に持ったそれを床に転がした。
「待、おやめください、カトリナ様!」
あまりのことに、アネリアは悲鳴のような声を上げた。
けれどカトリナは振り返りもせず、花瓶を払い落とし、散った花を踏みつけながら歩いた。砕けた鉢の間を歩くその様が優雅で、荒れた室内との落差にアネリアは夢を見ているような気にすらなった。
「あら、どうして止めるの? 『魔女の呪い』を放置するわけにはいかないわ。一つ残らず、処分しなくては」
クスクスと笑いながら、カトリナは首を傾げる。ゾッとするほど冷たい笑みだった。そしてまた、「あれも、これも」と言って鉢を床へ落とすのだ。
毎日欠かさず掃き清めていた床に、無惨にも土が、葉が、散らばっていく。
耐え切れなくなってアネリアは叫んだ。「——やめて!」
「呪いなんて、そんなものありません! たしかにここは、先代様が与えてくださった場所です。でも管理していたのはずっと私です。あの方が呪いを残すようなことなど……!」
肩で息をしながら、アネリアは必死に訴えた。
現に、ここで育てた草花は、神殿の至る所に飾ったり、薬草茶としてカトリナやディーンに振る舞っている。それで誰かに『呪い』の症状が出たことなど一度もない。それこそが、ここに『魔女の呪い』など存在しない何よりの証拠だろう、と。
だが、
「そんなもの、わたくしたちが“特別”だからでしょう!」
何が気に障ったのか、カトリナは怒気を孕んだ声で言い返してきた。
「わたくしたちの聖力は特別なのよ。そこらの一般人とは違うの。わたくしたちほどの聖力があれば、魔女の呪い程度、容易く退けられるわ。だから症状が出なかっただけのこと!」
カトリナは激しくそう叫ぶと、近くにあった植物の鉢をガシャンと大きく床に叩きつけた。砕けた鉢の破片が飛び散る。鋭いその音に、アネリアは思わず肩を震わせた。
「そんな、そんなはず……」
「あら。わたくしの言うことが間違っているとでも言うの?」
それでも食い下がるアネリアに、カトリナは僅かに声音を落としてそう言うと、紫の瞳をぽうと光らせた。そこに宿る確かな聖力を感じ取り、アネリアは言葉を呑み込む。
たしかに、アネリアには本当にそこに『呪い』があるのかどうかを見抜く術はない。
だけど、カトリナなら。
カトリナが「そこに呪いがある」と言うのなら——
それを「間違いだ」と断じきることなど、一体誰にできるのだろう。
ついに口を閉ざしたアネリアを見て、カトリナは満足げに微笑んだ。そして、「そう、それでいいのよ」と、さらに草花を踏み躙る。
ガチャン、ガシャン。バキリ。鋭い音が温室に響く。
また一つ鉢が砕ける。葉が床へ散った。「あ……」彼女が鉢を落とすたび、草花を踏みつけるたび、自分の大切な思い出ごと壊されていくような錯覚に陥った。もうここにしかない、かつての主との大切な思い出が。「ああ……」アネリアはもう、頼りない声を漏らすことしかできなかった。
「……わかり、ました。この温室は閉鎖します。だから、せめて……壊すのだけは、おやめください」
アネリアは耐え切れず、カトリナにそう縋った。
本当は、閉鎖されるだけでも耐え難い。もうこの場所へ来られなくなるのだから。
だけれども、大切に育ててきた草花たちが、思い出の詰まった穏やかなこの場所が、目の前で無惨に破壊されてしまうより、ずっとずっとよかった。
なのに。
「あら、それは駄目よ」
返ってきたのは、あまりにもあっさりとした言葉だった。
「『呪い』に侵されたものは、聖なる奇跡によってしか浄化できないもの。ねえ、そうでしょう? ——ディーン様」
「え……?」
そして優雅に扇子を掲げる。
不意に呼ばれた名に、アネリアは驚いて振り返った。
ガラスの温室。その入り口で、差し込む陽光を背負うように一人の男が立っている。輝く白髪を風に靡かせるその男は——
ディーン・マリウス・ヴァレンティス。
現在遠征に出ているはずの勇者、その人だった。
「ディーン、様……?」
「……」
驚きに思わず声が漏れる。
だが、名を呼ばれてもなお、ディーンは何も答えなかった。
普段なら、お戻りになられていたのですね、と労りの声の一つもかけていただろう。
あるいは、彼ならこの状況もなんとかしてくれると、助けを求めていたかもしれない。
だけどなぜだろう。
いつもより深さの増した青の瞳。日差しを浴びてさらに輝く聖剣が、今のアネリアにはどうしようもなく恐ろしいものに思えた。
「来てくださったのですね、ディーン様!」
そんなアネリアを置き去りに、カトリナは弾んだ声を上げた。
そして足早にディーンのもとへ駆け寄る。
「聞いてくださいませ、ディーン様。なんと、この神殿にまだあの『魔女』の遺物が残されていたのです」
「そうか」
「なんて恐ろしいことでしょう。神の御許たる大神殿に、魔女の残滓など。そんなこと、許されていいはずがないわ。ねえ、そう思われませんこと?」
「そうだな」
「そうですわよね、ですから——」
ディーンの隣に寄り添いながら、クスクスと喉を鳴らす。その一つ一つに、ディーンはほとんど人形のようにただ頷いた。
まるで決められた台本を読み上げるようなそのやり取りに、アネリアの胸に嫌な予感が積み上がっていく。
やがてカトリナは満足そうに口角を上げ、扇子の先を温室へ向けると、言った。
「ですから——『勇者』よ、命令です。魔に侵されたこの温室を、その聖剣で斬り砕きなさい」
「——!?」
その言葉に、アネリアの喉が強く引き攣った。
「了解した。排除する」
そんな彼女に目もくれず、ディーンは答える。そして躊躇なく背の聖剣に手をかけると、
閃光が、ガラスの小部屋を両断した。
耳をつんざくような音とともに透明な壁へ亀裂が走り、建物全体が悲鳴を上げるように軋んだ。
「なっ……!」
息を呑むアネリアの前で、ディーンは顔色一つ変えず、また大剣を振り下ろす。再び閃光が温室を裂き、ガラスは砕け散り支柱は崩れ落ちた。丁寧に育ててきた草花が、次々と瓦礫の下へ埋もれていく。
「っやめ、」音を立てて崩れる室内に飛び込もうとすれば、「あら、危ないわ」と不意に腕を引かれた。カトリナだ。崩落から庇おうとしている風を装って、その声に隠し切れない愉悦が滲んでいたことに、アネリアは気づいていた。
「ま、待ってください。おやめください、勇者様。ディーン様——!」
喚いても叫んでも、破壊音は激しくなるばかり。
背後からはカトリナのクスクスと笑う声が、目の前からはガラスを切り裂く剣音が聞こえた。
最後に一閃、光が空を裂き、アネリアの温室はグシャリと音を立てて崩れた。
——それは、あっけないものだった。
「……任務、完了した」
「ご苦労様。オーギュストへはわたくしから報告しておきます。後はお任せくださいな」
「ああ」
「……」
——ディーンは聖剣を静かに鞘に収めると、それだけ告げて踵を返した。
瓦礫と化した温室の前に座り込むアネリアへ、一瞥すら向けることなく。
規則正しい靴音が遠ざかっていく。
その背を追うことすら、今のアネリアにはできなかった。
「……可哀想に。そんなにショックだったの? ディーン様に、この温室を壊されたことが」
そんな彼女に、クスクスと嘲り笑う声が降った。
図星だった。
他の誰にそうされるよりもつらかった。
だって、ディーンもまたこの場所を大切に思ってくれているのだと信じていたから。あの方との記憶を、懐かしんでくれていると思っていたから。
「莫迦ね。勇者である彼の方が、一介の巫女風情に心を傾けるわけがないでしょう。いつまでも『魔女』の遺したものに囲まれているから、そんなことすらわからなくなるのだわ。あなた自身の心も魔に穢れて、ディーン様に近づこうなんて不届な考えを抱いたのよ」
クスクス。クスクス。
嗤いながら、カトリナは言葉を重ねた。紫の瞳が嘲るように細められる。
アネリアは、何も言い返せなかった。
何を言われているのか、頭では理解できる。
けれど、それに反論する力が残っていなかった。
ただ瓦礫の前に座り込み、俯くことしかできない。
そんな彼女を見下ろしながら、カトリナは声高に言った。
「感謝なさい、このわたくしが助けて差し上げたのよ」
どこまでも尊大に、傲然と。
いつかも聞いた言葉を口にした。
「だって、わたくしはいつだって、あなたの味方なのだから」
神殿の片隅、今や見る影もなくなった温室の跡地で。
カトリナの高らかな笑い声だけが、いつまでも響いていた。




