6
ディーンが遠征へ赴き、しばらく経った頃だった。
「——アネリア。少し、よろしくて?」
聖女専用サロンに隣接した侍女用執務室で、面会記録の整理をしていた時だった。
不意に扉が開き、顔を覗かせたカトリナがそう声をかけてくる。
——それが、地獄の始まりだった。
*
「や、やめ……っ、やめてください、カトリナ様……!」
「お黙りなさい、この恥知らず!」
「あ゛ぁッ!」
鋭い叱責とともに、鞭がアネリアの肌を裂く。
アネリアを執務室から連れ出したカトリナは、彼女を冷たい床に這い蹲らせ、その背を鞭で打ち始めた。
鞭打ちは、彼女が機嫌を損ねたとき従者に対しよくやる折檻だ。だが、今の彼女は明らかに常軌を逸していた。振るわれる力も、込められた怒気も、普段のそれとは比べものにならない。
「ど、どうしてこんなこと。何か至らないことがあったのなら直しますから……!」
「至らないこと? そうね、至らないことだらけだわ。一介の巫女風情が、ディーン様に色目を使って近づくなんて……!」
「ディーン様……? な、何のお話——痛゛っ!」
自分の何がここまで彼女を怒らせたのか。何もわからずただ混乱するアネリアの、露わになった背に再び鞭が振り下ろされる。
「白々しいこと。このわたくしに隠れて、ディーン様と逢瀬を重ねていたのでしょう?」
「……!?」
「なんてはしたないのかしら。あなたのような下賎の娘が、お近づきになってよい御方だとでも思ったの?」
「ち、違いま——っ、あぁっ!」
「なんて不埒、なんて厚かましい、なんて身の程知らず! あなた如きが、彼の方に懸想するなど……!」
「ぁ゛……ッ! う゛ぅッ……!」
バチンッ、バチンッ、バチンッ!
怒りに震えた声で吐き捨てながら、カトリナは何度もその鞭を振り下ろす。
その音は、勢いは、彼女の激情に呼応するように次第に激しさを増していった。
どうやらカトリナは、アネリアとディーンの関係を完全に誤解しているらしかった。嫉妬に歪んだ瞳でアネリアを見下ろし、容赦なく鞭を落とす。
カトリナがディーンを恋慕を抱いていることは知っていた。もし温室でのやり取りを知られれば、機嫌を損ねられる可能性もよぎったことはあった。
だけどアネリアにやましい気持ちなど欠片もない。カトリナを不快にさせたかったわけでもなければ、彼女からディーンを奪いたかったわけでもない。
ただ純粋に、あの穏やかな空間が好きだっただけなのだ。
「ご、誤解です……! 私は神に身を捧げた巫女、恋情など、どなたであっても向けるつもりは——」
「まあ、聖女でありがら彼の方を想うわたくしへの当てつけ!?」
「そ、そういう意味では、あ゛ぁっ!」
弁明するアネリアの言葉を遮って、カトリナはまた激しく鞭を振るった。二度、三度、同じ箇所を執拗に打たれ、アネリアは声にならない悲鳴を漏らした。
焼けつくような痛みが肌を苛む。歯を食いしばった口の中に鉄の味が広がった。それでも鞭は止まらない。
「誰も彼も、ディーン様とわたくしの邪魔ばかり……! 彼の方の隣にふさわしいのは、この『聖女』であるわたくしだけですのに!」
「邪魔なんて、ぃ゛、ああ゛っ」
「侍女であるあなたが、侍女であるあなたまで……!」
「……っ、ごめんなさ、ごめんなさい……!」
怒りに震える声でカトリナは叫んだ。
背が、肩が、首筋が。鞭が振るわれるたび痛みに悲鳴を上げた。
指先すら震え、まともに力が入らない。
掠れた声で謝罪を繰り返す。何に対して謝っているのか、もうアネリア自身にもわからなかった。
ただただ涙が流れる。
「——泣けば許されるとでも思っているのかしら? どこまでも浅ましい女」
だがそんなアネリアに、カトリナは容赦するどころか、どこまでも冷たい言葉を落とした。その言葉とともに、カトリナの口元がゆっくりと吊り上がる。
それは、ゾッとするほど美しい笑みだった。
「どうやら、あなたには再教育が必要なようね」
「ひっ……!」
恐怖に声を引き攣らせる。
誰の立ち入りも禁じられたサロンに、乾いた音が再び響いた。
——それから、カトリナによる苛烈な折檻の日々が始まった。
侍女として着替えを手伝っている最中、食事の支度を終えた直後。ほんの些細でも何か失態があれば、いや、そんなものなくても、彼女は理由を作っては鞭を手に取り、アネリアの肌を打った。
彼女の陰湿な仕打ちは、それだけでは終わらない。
全身を鞭で打った後、手当ても許されぬまま長時間の祈祷を命じられる。硬い床に長時間跪き、足が痺れ、膝に血が滲んでも、その場を離れることは許されなかった。
時には「不純な心を洗い流しなさい」と、冷水による禊を強いられる。凍えるような寒さの中に立たされ、震える身体を抱くことすら許されない。それどころか、冷水に濡れた傷口へ追い打ちをかけるように鞭が振るわれた。傷に染み込む冷たさと痛みに、何度意識を失いそうになったかわからない。
少しでも反論すれば、今度は懺悔室へ閉じ込められた。昼も夜もわからぬ暗闇に何日も一人きりにされ、気が狂いそうになったことも一度や二度ではなかった。
侍女としての仕事も、日を追うごとに増えていく。祈祷や面会の予定を大量に組まされたかと思えば、直前になって全て取り消される。その謝罪や調整に走るのも、当然ながらアネリアの役目だった。各所に頭を下げて回る彼女を、カトリナはただ愉快そうに見下ろした。
そんな侍女業務に追われる傍ら、「巫女としての奉仕が足りないから心が穢れるのよ」と、休む暇もなく予定を押し込まれる。カトリナの身支度を整え終われば、朝食を口にする間もなく病舎へ向かう。祈祷の準備もそこそこに、今度は孤児院へ駆り出された。日も落ちてようやく一息つけるかと思ったところに今度は写本を命じられ、夜通し大量の経典を書き写させられた。
その全てに耐え抜いても、耐えられなくても、また鞭で打たれた。
わざと食事を抜かれることもあった。アネリアが侍女として世話したものは、全て「気に入らない」とこれみよがしに踏み躙られた。生けた花も、淹れた紅茶も、聖務の日程も。何度もやり直しを命じられ、それもまたあっさりと捨てられる。やり直しを命じられる。捨てられる。その繰り返し。
(……どうして、こんなことになってしまったのだろう)
カトリナの夜食を用意しながら、アネリアは途方に暮れていた。
今しがた淹れているこの薬草茶も、差し出したところで「気に入らない」と床へ投げ捨てられてしまうのだろう。
だったらいっそ、と胸をよぎる投げやりな考えを振り払うように、アネリアは小さく首を振る。そして再び、丁寧な手つきで茶の支度を続けるのだ。
ディーンとのことが発端なのだということは、もう理解していた。だが、それは誤解だとどれほど言葉を尽くしても、カトリナは聞き入れてくれない。
そもそも彼は今遠方への遠征中で、しばらく顔を合わせてすらいない。カトリナが疑うようなことなど、何一つ起こりようがないというのに。
毎日のように仕事を押しつけられ、唯一の拠り所だった温室へ足を運ぶこともできない。水仕事のたびに鞭で傷が疼いた。じんじんと尾を引く痛みは、身体だけでなく心までも蝕んでいく。
心も身体も疲れ果てた、ある日のことだった。その日アネリアは、久方ぶりの休みを与えられた。
「今日は用事があるから、休んでいていいわ」
と、そうカトリナ本人から告げられたのである。
聖女としての聖務の予定はなかったはずだが、と少々疑問には思いつつも、久々に訪れた自由な時間にアネリアは喜んだ。
身体を休められることももちろんだが、何より不意に鞭が襲ってくる恐怖に怯えなくて済むことが、今の彼女にとっては何よりの救いだった。
アネリアは、身体を休めることもそこそこに、温室へと足を向けた。
もう長いこと、この場所には顔を出せていない。育てていた草花たちが気がかりだった。
聖力を注いで育てたそれらは、そう簡単に枯れることはないだろう。それでも、だからといって放っておいてよい理由にはならない。長らく世話をできていなかったことが、アネリアにはずっと心苦しかったのだ。
「……ただいま」
神殿の裏手、小さな森の一角を切り取ったその小屋の扉を開けて、アネリアはそっと囁いた。
隠しきれない疲労の滲んだ声だった。
もちろん返事などない。ただ、白い花弁をつけた小さな緑が、彼女を迎えるようにその葉を風に揺らした。
「ここだけは、変わっていないのね」
その葉に触れて、アネリアは呟く。
久しく訪れられなかったというのに、温室はまるでそこだけ時を止めていたかのように、瑞々しい緑を守っていた。
深く呼吸して、独特の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
……だけどどうしてだろう。以前ならそれだけで心が満たされていたというのに。
自分の育てた花々に囲まれても、疲れ切った心を回復させてはくれなかった。
心が僅かに沈んだ、その時だった。
カタリ。小さく音がして、アネリアはハッとして振り返った。
神殿の片隅にあるこの温室を、わざわざ訪れる者などほとんどいない。来るとすれば自分か、あるいは自分に用のある巫女仲間くらいのものだ。そうでなければ——
(……まさか、ね)
ふと、脳裏に輝く白髪がよぎる。その姿を打ち消すように首を振ると、アネリアはそっと温室の外へ出た。巫女たちの誰かが仕事の手伝いでも頼みに来たのだろうと、そう思って。
だが、
「あら、アネリア。こんなところで会うなんて、奇遇ね?」
「えっ——カトリナ、様?」
そこに立っていたのは、カトリナだった。
朝に見た時と変わらぬ、彼女のためだけに仕立てられた豪奢な聖女服に身を包み、愛用の扇子でその口元を優雅に覆い隠している。
派手な扇子に隠され、その表情は窺えない。
だけどそんな彼女と対峙した瞬間、なぜだかアネリアの胸に、言いようのない不安がよぎっていた。
「ど、どうされたのですか、カトリナ様。こんなところまで……」
「いやね、わたくし、『聖女』でしょう? 少々気になる噂を耳にして、ここへ確かめに来たんですの」
「噂?」
「ええ」
そう言って、カトリナはゆるりと扇子を傾けた。
「ここ——あの『魔女』が作らせた温室なのですってね」
「——っ!」
目を見開くアネリアと裏腹に、カトリナはその紫の瞳を愉しげに歪ませた。
明らかに愉悦の色が浮かぶその瞳に見つめられ、背筋を冷たいものが走る。
「ああ恐ろしい、恐ろしい。あの『魔女』の遺物が、まだ神殿の中に残されていただなんて。彼女にまつわるものは全て処分したものと思っていましたのに。このままでは、どんな災いを招くかわかったものではありませんわ」
大げさに肩をすくめながら、カトリナは続ける。
歌うような声音だった。
だが、その言葉の端々に滲む悪意を、アネリアは嫌というほど感じ取っていた。
「呪いの温床になっていたらどうするの? そんなもの、『聖女』として、見過ごすわけにはいかないわ。——ねえ、そう思いませんこと? アネリア」
「か、カトリナ様? 何をおっしゃって——」
「だから」
口早に話すカトリナに、アネリアは引き攣った笑みを浮かべることしかできない。
カトリナの言葉の意味が、うまく理解できなかった。
魔女の遺物? 呪い? たしかにこの温室は、先代が自分に贈ってくださった建物ではあるけれど——
困惑するアネリアをカトリナはは気にも留めず、優雅な仕草で懐から一枚の羊皮紙を取り出すと、それをひらりと掲げて見せた。
そして、にっこりと微笑む。
「だから、この温室は、取り壊すことに決めたわ」
「……え?」
目の前に突きつけられたその証文——それは、正式に神殿の印が押された、
——この温室の、撤去命令書であった。




