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「……ディーン様?」
温室の前に一人佇み、一面の緑へ静かに視線を向けていたのは、勇者ディーンだった。
帰還の報せはまだ聞いていなかったが、すでに王都へ戻っていたのか。
アネリアは姿勢を正し、恭しく頭を下げた。
「お戻りになられていたのですね。このたびは長き旅路、ご苦労様でございました」
そこでようやくアネリアの存在に気づいたかのように、ディーンはわずかに顎を引き、「ああ」と答えた。青い瞳は相変わらず感情の色を映さぬまま、温室の緑を眺め続ける。
そのままその場を立ち去ろうとしない彼に、アネリアは少しだけ首を傾げた。
任務から帰還したばかりの彼が、なぜ神殿の片隅にあるこんな場所にいるのだろう。
「あの……どうかなさいましたか? このようなところで」
「……オーギュストに呼び出されていた。その帰りだ」
「枢機卿閣下に?」
「ああ。そのまま聖騎士団の鍛錬場へ顔を出そうと思っていた」
その答えに、アネリアは得心した。高位神官たちの執務室が並ぶ塔から聖騎士たちの官舎へ向かうなら、たしかにこの辺りを通るのが近道だ。
そういえば以前も、同じようにここを通りかかったディーンを先代聖女が半ば強引に呼び止め、この温室でお茶会を開いたことがあった。
ふとその頃の記憶が胸をよぎり、どこか懐かしい気持ちになる。
「ああ。それでここを通りかかったら……懐かしい気持ちになって」
「えっ……」
返ってきた言葉に、アネリアは驚く。ちょうど自分も同じことを考えていたからだ。
そして同時に、ディーンもまたこの場所を懐かしく思っていてくれたことを嬉しく思った。
自分と先代の、大切な思い出の場所。かつてはこの勇者もまた足を運んだことのある。
覚えていてくださったのだ。こんな小さな温室のことを。一介の巫女にすぎない自分にとって、天上の人のようなこの御方が。
そして何より——自分以外にも、先代聖女を懐かしんでくれる人がいた。そのことが、アネリアにはたまらなく嬉しかった。
「あ、あの……」
「ん?」
嬉しさのあまり、アネリアはつい言葉を漏らす。
「も、もしよろしければ……中で、お茶でも召し上がっていかれませんか?」
胸の高鳴りを隠しきれないまま、アネリアはそう問いかけた。
*
「ど、どうぞ……」
「ああ」
アネリアはディーンと共に温室に戻ると、片隅に設えられた小さなテーブルへ彼を案内した。
その卓も、揃いの茶器も、かつて先代聖女が「あなたの育てた緑に囲まれてお茶が飲みたい」と言って用意させたものだ。
彼女がいなくなってから使われることはほとんどなくなったが、それでもアネリアは欠かさず手入れを続けている。
「少々お待ちくださいね」
そう声をかけると、ディーンは小さく頷いた。そして深い青の瞳で、温室の中をゆっくりと見渡す。
その仕草を見て、アネリアはわずかに肩を強張らせた。
(勇者様にお声をかけるなんて……少し出過ぎた真似だったかしら)
勇者とは、本来なら教皇や王族にも並び立つ存在である。同じく神殿の要職である聖女付き侍女を務めているとはいえ、やはり緊張せずにはいられない。
ましてここ数年のディーンは、勇者として数々の功績を重ね、王国中を飛び回る英雄として知られていた。
冷たい表情のまま正義を執行するその姿は、人々に尊敬と同時に畏怖を抱かせ、一部では『正義の人形』『神殿の犬』などと陰口を叩く者までいるほどだった。
(……昔は、そんな人じゃなかったのだけれど)
テーブルへ静かに腰掛ける勇者を横目に、アネリアはふと、彼が昔よく浮かべていた屈託のない笑顔を思い出していた。
幼い頃から神殿で暮らしてきたアネリアは、ディーンがまだ勇者となったばかりの少年だった頃を知っている。
当時の彼は、今とはまるで違う。無邪気で裏表のないどこまでも少年らしい性格で、『勇者』という肩書きに縛られない自由な人間だった。
少しお調子者で、悪戯好きで。聖務も鍛錬も窮屈だとこぼしては、しばしば抜け出そうとして周囲を困らせることもあった。
それが今では、王国中の期待を一身に背負い、神殿から下された命令に一切逆らうことのない勇者様だ。
時の流れを噛み締めながら、アネリアは静かに湯を沸かした。
だけど、無理もないとも思う。
ディーンが大きく変わったのは、ちょうど先代聖女が処刑された頃だった。
奔放で明るくどこか子供じみていた彼は姿を消し、空いた時間のすべてを聖務へ捧げる厳格な正義の執行者となった。
盟友と信じた聖女が魔女へ堕ち、その手で処刑しなければならなかったのだ。その衝撃は計り知れない。
同じ過ちを二度と繰り返さぬためと、聖務に身を捧げるようになったディーンの気持ちがアネリアにはわかる気がした。
「どうぞ」
アネリアは、そう言って手ずから淹れた薬草茶をディーンへと差し出した。
「……うまいな」
それを一口含むと、その口元をわずかに緩め、ディーンはそう呟いた。
深い青の瞳に小さく光が宿った気がして、アネリアはほっと息をつく。
「お口に合ったようでよかったです。ディーン様は、こういう癖のあるお味は苦手かもしれないと思っていたので……」
「そうだったか?」
「はい。昔、この温室でお茶をお出しした時も、あまり得意ではなさそうなお顔をされていましたから。あの頃よりは、美味しく淹れられるようになったと思うのですが」
言いながらアネリアは、クスリと思い出し笑いを漏らした。
まだアネリアが薬草茶の研究を始めたばかりの頃だ。「試飲会を開こう」と、半ば無理やり温室へ連れて来られたディーンは、試しに淹れてみた薬草茶を口にして、なんとも言えない顔をしていた。
勇者様のお口に合わないものを出してしまったと慌てるアネリアに、彼は気を遣って「うまい」と言う。けれど表情までは誤魔化しきれず、それを見た先代聖女は楽しそうに笑い転げ、ディーンはそんな彼女へ不満げな視線を向けていた。
『聖女』や『勇者』なんて大層な肩書きが嘘のように、彼らはただの少年少女のように笑った。小さなことで揶揄いあって、喧嘩をして、次の日にはなんでもなかったかのように笑い合う。
アネリアは、そんな光景を見るのが好きだった。
それは幸せな空間だった。まだ彼らの周りに、平穏と笑顔だけが溢れていた頃の話だ。
懐かしさを胸に、アネリアは自然と思い出話を口にする。しかし、
「覚えていないな」
返ってきたのは、そんな淡々とした一言だった。
温度のないその声に、アネリアの胸がすっと冷える。
「……そう、でしたか。申し訳ありません。不躾なことを」
先ほどまでよりも幾分声を落とし、アネリアは頭を下げた。
勇者相手に、あまりにも気安く話しすぎてしまった。そんな反省が胸をよぎる。
もう何年も前の話だ。そもそも、先代の話など、ディーンにとっては触れたくもないことだったかもしれない。彼女の存在はあまりにも大きく、簡単に語れるようなものではないのだから。特に、自分やディーンのように、彼女と近しい場所にいた者にとっては。
「だが、」
そう気落ちするアネリアに、ディーンが静かに言葉を継いだ。
「この香りは……嫌いじゃない。この場所にいると、少しだけ気が静かになる」
深い青の瞳は変わらず深いまま。それでも彼は、はっきりとそう言った。
その一言に、アネリアの心がふわりと持ち上がる。
ディーンは静かに茶器を置くと、テーブルを挟んだ向かい側へを見つめた。そこは、いつも先代聖女が腰掛けていた席だった。まるで、ここにはいないその面影を追うように、青の視線を滑らせる。
覚えていない——それはきっと、本当なのだろう。こんな小さな温室の何気ない話など、忘れてしまって当然だ。
だけど彼の心のどこかには、まだ先代の残したものが息づいている。
アネリアにはそれだけで充分だった。自分だけではないのだと、そう思えたから。
「それに、身体の調子が良くなった気がする。君の聖力か?」
「お分かりになるのですね。はい、私の育てた草花には、人を癒す力が宿るのです。とはいえ、本当にささやかなものですけれど」
「いや、自分でも気づかないような日々の疲労は、治癒術師にも癒せない。茶や飾り花でそれができるのなら、十分に稀有な才だろう」
「……ありがとう、ございます」
思いがけない言葉に、アネリアはどこか気恥ずかしそうに視線を伏せた。
珍しく饒舌に語るその様子。不器用ながらも滲むその優しさに、アネリアは胸の奥が温かくなるのを感じる。遠い存在になってしまったと思っていたディーンだが、その本質は今も変わっていないのだろう。
「……俺も、気づかぬうちに疲れを溜め込んでいたのだろうな」
そう呟くと、ディーンはカップに残っていた薬草茶を飲み干した。
そして静かに立ち上がる。
「ありがとう。邪魔をしたな」
「あ、いえ……」
温室を出ようとするディーンに、アネリアは慌てて首を振った。
鍛錬へ向かう途中だった彼を呼び止めてしまったのはこちらの方だ。自分よりはるかに高い地位にある勇者が、こうして時間を割いてくれただけでも信じがたいことなのに。
なのに、この時間が終わってしまうことがアネリアには名残惜しく感じられた。
自分の人生で最も穏やかだった日々。もう戻ることのできないその時代を、思い起こさせてくれた時間だった。
だからだろう。気づけば、その言葉が口をついて出てしまったのだ。
「あの……よろしければ、これからも気軽にいらしてくださいね。聖務でお疲れのことも多いでしょうし、お茶くらいでしたら、いつでもお淹れできますから……!」
その言葉に、ディーンはわずかに目を瞬かせた。
出過ぎた真似だっただろうかと、アネリアは少しだけ後悔する。
だが、先代聖女がいなくなって以降どこか曇り続けていた青い瞳が、淡い光を宿してこの温室を見渡すのを——アネリアは、もう一度見たいと思ってしまったのだ。
「……わかった」
「……!」
しばしの沈黙の後——その沈黙の重さにアネリアが耐えきれなくなった頃。
ディーンは、ただ一言そう言葉を落とした。
そしてそのまま踵を返すと、振り返ることもなく温室を後にする。
アネリアは耳にした言葉が信じられず、思わず大きく顔を上げた。
彼の背中はすでに遠く、青いマントが風に靡いていた。
その姿が見えなくなるまで見送り——
そうだ、カトリナ様に勇者様のご帰還を伝えなければと、
やっとそこで思い出したのだった。




