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「それで? ディーン様は、まだお戻りではないの?」
——大神殿、聖女専用サロン。
神殿内の一室とは思えぬほど豪奢な調度品に囲まれたその空間。聖女のためだけに設えられた私的なサロンに、高く張った女の声が響いた。
「はい。ヴァレリー殿下の件で、今も調査が続いているとか。なにぶん王族の死に関わる事件ですので、神殿も王家も慎重になっておりまして……」
「そんなことはわかっているわよ。わたくしが聞いているのは、いつお戻りになるのかということよ!」
「も、申し訳ございません……!」
鋭く冷えた声音に、アネリアは慌てて頭を下げた。彼女の機嫌を少しでも損ねてしまったら、酷い目に遭うのはわかりきっていたからだ。それほどまでに彼女の性格は苛烈で、そして何より、この神殿内で絶対的な地位を誇っていた。
カトリナ・ヴィオレッタ・ブランシェ。
聖力の高さを示す豪奢な金髪と、王家に連なる血を表す紫の瞳を持つその女性。彼女は、サンクティア王国でも指折りの高位貴族の令嬢であり——今代『聖女』の称号を戴く存在である。
「全く……ヴァレリーごときの死で大袈裟なのよ。あんな放蕩者、『魔女』じゃなくても呪い殺したい人間は吐いて捨てるほどいたでしょうに」
むしろ今まで生きていたのが奇跡だわ、と、カトリナは茶器を持ち上げた。その指先の動き一つ取っても優雅で美しい。だが、その口から飛び出す言葉は、王族への敬意とは程遠いものだった。
王子の訃報すら意に介さず、勇者の帰還ばかりを気に掛ける。
侍女であるアネリアは、そんな主に苦笑を飲み込みながら言葉を続けた。
「ご帰還の日取りについては、まだ通達はございません。お忙しいお方ですから、そのまま別の遠征へ向かわれる可能性もあるかと」
「……ふん。そう。なら別にいいわ」
アネリアが言うと、カトリナは興味を失ったように目を伏せ、アネリアの淹れた薬草茶へ口をつけた。
白い喉が小さく上下する。
その様子を見届けてから、アネリアはそっと口を開いた。
「神殿からも注意喚起が出ておりますし、そう遠くないうちにお戻りになると思います。王都でも怪死事件が続いておりますから」
「……」
「もし相手が本当に魔女でしたら……カトリナ様も、どうかお気をつけくださいね」
「……は?」
アネリアが言った、その瞬間だった。
ガシャンと強く音を立て、カップが勢いよく卓へ叩きつけられる。
カトリナの紫の瞳がすうっと細められ、アネリアは自身の失言に気づき顔を青くした。
「“お気をつけください”? それは、どういう意味かしら?」
「え……、と……」
「わたくしは『聖女』よ? あの道楽王子とも、そこらの聖力の欠片もない平民どもとも違うの。魔女の呪い程度、跳ね返せるに決まっているでしょう!」
「は、はい……!」
だんっ、と強くテーブルを叩かれ、アネリアはびくりと肩を竦める。
甲高い怒声がサロンに響き渡った。こうなってしまえば、もう誰にも止められない。
「それとも何? あなたまで、わたくしが『偽りの聖女』だと言いたいの?」
「そ、そのようなことは決して……!」
「誰も彼も、わたくしを莫迦にして……!」
吐き捨てるようにそう言うと、カトリナは乱暴に立ち上がった。その拍子に茶器が倒れ、琥珀色の液体が白いテーブルクロスへ飛び散る。
「——不愉快だわ。今日はもう自室へ戻ります」
そう言ってサロンを後にしようとするカトリナを、アネリアは慌てて呼び止めた。
「お、お待ちください! 午後から祈祷のご予定が——」
「知らないわよ、そんなもの。適当な巫女にでもやらせておきなさい」
「そんな……!」
振り返りもせず、カトリナは言い放つ。そして金の髪を翻し、そのままサロンを出ていった。
後に残されたのは、倒れた茶器と、床や卓に広がった薬草茶だけ。
「……はあ」
アネリアは小さく息を吐き、溢れた茶を片付けようと腰を落とす。鼻先にハーブの独特の香りが漂った。
その茶は、アネリアが自らの聖力を込めて育てた薬草で淹れたものだった。
日々、聖女としての務めに追われる主人の疲れが少しでも癒えればと、心を込めて育てた薬草。
だが、それがこうして床に撒かれてしまうのは、一度や二度のことではなかった。
誰もいなくなったサロンで、アネリアは濡れ布を手に取る。黙々と床を拭いながら、胸の奥に小さな痛みが広がった。
(ただ、カトリナ様の癒しになればと思っただけなのに)
そんな考えが、彼女の脳裏を過ぎる。
(こんな時、先代聖女様なら——)
「……っ」
ふとカトリナとは別の影が頭を掠め、アネリアは慌てて首を振った。
いけない、カトリナ様と先代様を比べるなんて。
先代聖女は、聖女という地位にありながらその身を呪いに染め、魔女へと堕ちた罪人だ。
そしてカトリナ様は、その『魔女』から自分たち巫女を救ってくださった恩人なのだから——
言い聞かせるように、アネリアは胸の内でそう繰り返す。——それなのに。
どうしても、心の片隅を微かに揺らす思いがあった。
——本当に、これで正しかったのだろうか、と。
*
アネリアが巫女としてこの大神殿に入ったのは、齢十二の頃だった。どこにでもいる町娘だった彼女に、聖力が認められたのだ。
聖力とは、神より授けられる人智を超えた力。その恩恵を持たぬ者は聖職者にはなれない。
アネリアの聖力は決して強大なものではなかったが、その真面目な働きぶりと篤い信仰心が評価され、やがて彼女は聖女付きの侍女へと抜擢された。
アネリアが仕えることになったのは、カトリナの一代前——先代聖女だった。
彼女は歴代聖女の中でも群を抜く聖力の持ち主であり、それ以上に、人々から『奇跡』と呼ばれるほどの力を備えていた。
そして何よりも、心根の優しい人だった。
侍女であるアネリアにも分け隔てなく接し、まるで友人のように言葉を交わす。多忙な務めの合間を縫っては孤児院へ足を運び、病人や貧しい者たちを救うために尽力していた。
『汝、人を愛せよ』——初代聖女の残したその教えを、誰よりも体現しているような人だった。
そんな彼女に、アネリアは当然のように心酔した。
自分たち神の僕が、何より規範にするべき御方だと思った。
聖女のためなら寝る間も惜しんで働いた。彼女の身の回りの世話をできることが至上の喜びのように感じられた。
少しでも彼女の疲れを癒したいと、薬草茶の淹れ方を研究したこともある。自ら育てた薬草を使い、何度も試行錯誤を重ねた。そうして差し出したものを口にし、「美味しい」と微笑む主人を見るだけで、アネリアは天にも昇る気持ちになった。
——しかし、聖女は変わる。
その強すぎる力に溺れたのか、その力に群がる魔の誘惑に抗えなかったのか——彼女は、その強大な聖力を己のために使い始めたのだ。
一部の豪商や貴族と結びつき、授かった『奇跡』を私欲のために振るう。
彼女の『奇跡』は強大だが、その分『代償』も必要だった。
血である。
彼女がその『奇跡』を行使するには、願いを持つ誰かの血が必要だった。聖女はその血を、アネリアをはじめ彼女を慕う巫女や神官たちから繰り返し奪った。
聖女への忠誠から、はじめは自ら望んで差し出していたそれも、繰り返されればやがて身体に害が及ぶ。それはいつしか必要以上の量となり、仲間たちは目に見えてやつれていった。
普段の聖務すら滞る。顔色を失い、寝台から起き上がれなくなった者、中には命の危機に瀕する者まで現れ始めていた。
アネリアは何度も進言した。どうかおやめくださいと。これ以上は皆が持たないと。
しかし聖女は、アネリアの言葉になど一向に耳を貸さない。多忙を理由に各地を飛び回り、地方地方でさらに弱者から血を奪った。
アネリアは困り果てた。
どうすればいいのかわからなかった。誰を頼ればいいのかも。
その間にも、共に神へ祈りを捧げてきた仲間たちは少しずつ命を削られていく。
アネリアは、ただ途方に暮れることしかできなかった。
そんな時声をかけてくれたのが、カトリナだった。
「何か困っていることがあるのではなくて?」
「わたくしは、あなたの味方よ」
——と、一介の巫女に過ぎないアネリアへ、優しくそう語りかけた。高位貴族の令嬢であるカトリナが、である。アネリアは、カトリナのその優しさに心を砕かれた。
実際、カトリナはアネリアの話を真剣に話を聞いてくれた。
そして、教えてくれたのだ。
聖女の力はもはや、魔に侵されきっているということを。
本来、人々を救うためにあるはずの聖力が、私利私欲によって穢されてしまっているのだと。強大だった聖力は歪み、『呪い』へと変質している。このまま放置すれば、いずれ国をも蝕むだろう。
そう判断した彼女は、当時大神官であったオーギュストをはじめとする神殿上層部とともに、彼女を『魔女』として告発する準備を始めている——と。
アネリアは、カトリナに請われるまま証言台へ立った。
先代聖女の魔女裁判である。
自分の仲間である巫女や神官たちが、必要以上の血を捧げさせられていること。孤児たちまでもが、その力のために利用されていること。知っていることを、すべて語った。
迷いがなかったわけではない。それでもアネリアはそれを選んだ。彼女は知っていたからだ。魔女と呼ばれる以前の、あの優しい聖女の姿を。
かつての美しい心を思い出して欲しい。最後の最後には、魔女ではなく聖女としてその生涯を終えてほしい。そんな祈りにも似た思いで、アネリアは言葉を尽くした。
そしてついに先代聖女の悪事は暴かれ、結果として彼女は魔女として断罪され、その命を絶たれることになった。
——その後、新たな聖女として選ばれたのがカトリナだった。
『魔女』を告発した功績も相まって、その擁立は驚くほど円滑に進んだ。
アネリアもまた、引き続き聖女付きの侍女として仕えることになる。カトリナ自身の指名だと聞いた。『魔女』の侍女だった自分を遠ざけるどころか、変わらぬ役目を与えてくれた。そのことに、アネリアは心から感謝した。
主が魔の道に行くのを止めて差し上げられなかった——その後悔は今もアネリアの胸に残っている。
だからこそアネリアは誓った。カトリナに、誠心誠意仕えようと。
今度こそ、自分の主を誤った道へ進ませないと。神の僕として、正しき道を歩み続けられるように。
——しかしどうだろう。
聖女の称号を戴いたカトリナは、それまで見せていた優しさが嘘のように我儘に振る舞った。
聖女に与えられた私室には豪奢な調度品を次々と運び込ませ、神殿の一角には自分専用のサロンまで造らせた。日々の聖務も巡礼も、気に入らなければ若い巫女へ押し付け自らは優雅な時間を過ごす。
そしてそれを諌められようものなら、容赦なく相手を甚振った。侍女であるアネリアも例外ではない。むしろ聖女としての振る舞いを説く彼女に苛立ち、鞭を振るったことは一度や二度ではなかった。
それでもアネリアは言葉を尽くした。そのたびに鞭は振るわれる。痛みで膝をつき、傷を負っても、それでも口を閉ざさなかった。何度でも、何度でも。
今度こそ、主を人の道から踏み外させてはならぬと。
もう二度と、敬愛する主を『魔女』へ堕とさせてはならぬと。
その一心だけが、アネリアを支えていた。
『汝、人を愛せよ』神殿に受け継がれるその教えのままに。
たとえ、どれほど虐げられたとしても。




