エピローグ
満月に照らされた夜空には、隙間なく星々が瞬いていた。
夜の淡い光さえ灼けつくような輝きへ変えながら、聖剣が閃光を放つ。
第七王子ヴァレリーの私邸——その敷地内に築かれた処刑場では、なおも勇者ディーンが剣を振るい続けていた。
ヴァレリーの命を受けてから、どれほどの時が経ったのか。
だがディーンは止まらない。
眼前に現れる死霊を討つため、何度も、何度も聖剣を振るう。
光が夜を裂くたび、怨嗟の声が闇の奥から湧き上がった。
「私が何をしたというの」「どうして私が」「あの男が憎い」「あの男のせいで」「あの男が——」
女の、男の、幼子の、老いた者の——
あらゆる声が幾重にも重なり、夜を震わせては掻き消えていく。
どれも皆、死してなおヴァレリーへ深い怨みを抱き続ける魂たちの声だった。
その声ごと、ディーンは聖剣で切り裂いていく。
顔色一つ変えることなく、眉一つ動かすことなく。ただ、己に課された責務だけを全うした。
「……ふ、ふふっ。まさか、ここまで上手く運ぶとはね」
——ヴァレリー私邸、その城の頂。街を見下ろす塔の上から、耳元を撫でるような笑い声が響いた。
どうやって登ったのか、急勾配の屋根の上には二つの人影がある。そしてその足元には、小さな獣の影がちょこんと座っていた。夜風に揺れる長い髪に、黒猫がじゃれつくように身を擦り寄せる。
「相変わらず間抜けな勇者。自分に命を下した主が、とっくに死んでいることにすら気づかないなんて」
そう言ってルナはクスクスと喉を鳴らしながら、眼下へ視線を落とした。
遥か下、塔の根元には——第七王子ヴァレリー・ルイ・フィリップ・サンクティアの亡骸が転がっている。
まるで、見上げるほど高い場所から、無理やり引き摺り落とされたかのような姿で。
「……これは、一体どういうことなんです?」
と、ルナの背後に立っていた男——ヨハンが、訝しげに彼女に問いかけた。
ルナは不思議そうに瞬きをすると、首を傾げて聞き返す。
「どういうって?」
「どうして、勇者様は俺のところに——ヴァレリーを助けに来なかったんでしょう。そのために、彼の方はこの城へ来たはずなのに」
「ああ、そういうこと」
どこか腑に落ちない様子のヨハンに、ルナは納得したように頷く。そして、すっと人差し指を立てた。
「簡単な話よ。ヴァレリーが勇者に命じたのは、『自分の命を狙う魔女を討て』 あなたは、魔女なの?」
「それは……違う、が……」
「でしょう?」
あっさりと言い切ると、ルナは静かに立ち上がり、クスリと笑って続けた。
「しかもあの男、『あの処刑場に囚われている怨霊』なんて余計なことまで口にしたものだから、なおさら勇者はあそこから動けなくなってしまったのよ。まあ、あんな夢を何度も見せられたら、自分を呪っているのは処刑場の亡霊だと思い込むのも無理はないけれど」
そして何より、あの処刑場そのものも問題だった。あそこには、『ヴァレリーを恨んで死んだ魂』が、あまりにも多すぎたのだ。
死霊とは、この世に未練を残したまま死んだ者の魂。恨みや苦しみに囚われ、神の御許へ辿り着けなかった者たちの成れの果てである。
その一つ一つに魔女のような強大な力はないが、聖剣が討つべき『魔』に連なる存在であることはたしかだった。
あの処刑場には、ヴァレリーによって無実の罪を着せられ、命を奪われた者たちの魂が数多く彷徨っていた。それらを『ヴァレリーへ害をなす死霊』と判断し、聖剣が滅ぼすべき対象として認識したのは、ある意味当然だった。
——その数が少なければあるいは、勇者もヴァレリーの危機に気づけたかもしれないが。
ルナの説明に、ヨハンは耳を疑う。愕然とした顔のまま、掠れた声を漏らした。
「そんな、莫迦げたなこと——」
「あるのよ。それが命令である以上、勇者はその通りに動くわ」
揺るぎない声だった。まるで、勇者という存在を隅々まで知り尽くしているとでも言いたげな。
ヨハンはしばらく、そんなルナの表情を見つめていた。
だがやがて視線を落とし、重たい口を開く。
喉に引っかかった何かを無理やり絞り出すように、ルナに問うた。
「それじゃあ……サロメアも、勇者様に斬られてしまったのでしょうか」
躊躇いを飲み込んだような声。重々しい雰囲気のヨハンに、ルナはきょとんと目を丸くした。
「あら、あなた、気づいていなかったの?」
「え?」
「あの踊り子なら、もうこの世界にはいないわよ。あの娘の魂は、死と同時に天へ還ったもの」
夜風に髪を揺らしながら、ルナはさらりと言ってのけた。その言葉に、ヨハンは目を見開く。
死霊とは、この世へ未練を残した魂。ルナが力を貸せるのは、その強い恨みや執着に囚われた死霊だけ。
だから、ルナの元へ辿り着いたのはヨハンだけだったのだ。
あの時すでに、サロメアの魂は空へ昇っていた。
袖から舞台へ踊り出るように。狭い鳥籠から飛び立つように。
「つまりね、あの場所には最初から、あの娘の魂なんて縛られていなかったのよ」
「——……」
いっそあっけないほど軽やかな口調で、ルナは続けた。
高い塔の上、月光を一身に浴びる彼女もまた、舞台の上脚光を浴びる踊り子のようだった。
そんなルナに見つめられ、ヨハンは思わず黙り込む。
「……復讐なんて、意味がなかったと思う?」
ルナの問いかけに、ヨハンはしばし黙し、やがて静かに首を振った。
「いや……そうだな。今の話を聞いて、むしろ納得した」
神にも王にも縛られないと、サロメアは言った。
ならば、その魂がこの世界に、ましてヴァレリーへの恨みなどに囚われ続けるはずがない。
そもそもヨハンがルナの手を取ったのは、サロメアのためではなかった。
ただ、自分が、許せなかったから。
サロメアを殺したヴァレリーを。彼女を守れなかった自分自身を。
その怒りを、この胸の憎しみを、ただ晴らしたかっただけ。自分自身を蝕む怨嗟に、縛られてしまっただけなのだから——
ああ、どこまでもサロメアは、自分とは違う道をゆく。
だけど俺は、そんなサロメアが——
「……そんな彼女の姿に、俺は恋をしたのだから」
ふっと、苦笑にも似た笑みが零れる。
同時に、ヨハンの瞳から涙がひとしずく溢れ落ちた。月光を受けて淡く輝いたそれは、ぽたりと夜の闇へ沈んでいく。
瞬間、ヨハンの輪郭がじわりと闇に滲んだ。
指先から崩れた身体が、夜風に攫われるように溶けていく。
涙を頰に伝わせながら、それでもどこか穏やかに微笑むその男の姿を、ルナは静かに見つめていた。
最後まで、ただ静かに、見届けた。
「……恋、か」
ヨハンが消え去り、塔の上にはルナと黒猫だけが残された。
夜風の吹き抜けるその場所で、ルナは処刑場の方へ視線を向けると、小さく、小さく囁いた。
「それもまた、人ならではの感情。ねえ、そう思わない? ……ディーン」
処刑場には、なおも勇者が聖剣を振るう音だけが響いていた。
*
——翌朝。
第七王子ヴァレリー・ルイ・フィリップ・サンクティアの遺体が、私邸の庭で発見された。
寝所のある塔から転落したものと思われたが、寝室の窓は内側から固く閉ざされていたこと、厳重に配置されていた見張りの兵たちが誰一人として異変に気づかなかったことなど、不可解な点がいくつも残った。
また、ここ数日、ヴァレリーが私邸へ大量の神官を呼び寄せていたこと、さらには勇者ディーンまでも招き、屋敷の警備を異様なほど増やしていたことが明るみなり、いつしか市井では『王子は魔女に呪い殺されたのではないか』などと言う噂が飛び交うようになった。
王家も神殿も必死に情報を封じ込めようとしたが、人の口に戸は立てられない。ヴァレリーの不可解な死は、瞬く間に王国中へ広がっていった。
王族の異様な死を前にして、王国は大きく揺れる。
民衆は面白半分に噂話を語り合い、王家は激怒して神殿を糾弾した。貴族や権力者たちも、表立ってこそ口にしないものの、あからさまに警戒を強め始める。
王国全土に呪いを振り撒く『魔女』の存在は——もはや、誰もが知るところとなっていた。
——————————クスクス。
————クスクス。
お読みいただきありがとうございました。
明日(7/23)より第六章の投稿を開始します。
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