13
「——殿下、勇者様がお着きになられました」
私室の扉が開き、顔を覗かせた従者がそう告げる。その背後から、一人の男が姿を現した。
夕暮れの薄闇の中ですら眩く映える白銀の髪。神殿の紋章を大きく背負ったその男は、ヴァレリーの姿を視界に収めると、静かに口を開いた。
「——ディーン・マリウス・ヴァレンティス。枢機卿オーギュスト・ドミニク・ブラッドフォードの命により、参上した」
感情の欠片もない声音だった。
だが、それを聞いたヴァレリーは、ゆっくりと口元を歪める。
伏せていた顔を持ち上げ、勇者ディーンを見据えると、愉悦を滲ませて言い放った。
「——待ち侘びたぞ、勇者。愚かにもこの俺の命を狙う、身の程知らずの“魔女”を——その聖剣で叩き斬れ!」
先ほどまで青ざめ怯えていた男と同一人物とは思えぬほどの尊大な態度で、ヴァレリーは宣った。勇者相手ですら見下すような目を向け、玉座にでも座る王のようにふんぞり返る。
扉脇へ控えていた従者が、わずかに頬を引き攣らせる。そんな様子になど気にもかけず、ヴァレリーは喉を鳴らして笑った。
毎夜続く悪夢が魔女の呪いであると気付いたヴァレリーは、とうに大神殿へ助力を求めていたのだ。勇者を寄越せと。魔女を討ち滅ぼせ、と。
領内の神官や衛兵で事足りるならそれでよかった。だが、あの『魔女』が絡むのであれば、用心するに越したことはない。
そもそも、この宴を開く以前から、ヴァレリーはオーギュストより直々に魔女の噂を聞かされていた。「だから目立つ真似は避けろ」と、釘を刺されるような形ではあったが。
そんなこと自分の知ったことではない。己の命が脅かされているというのなら、民が命を賭して守ればいい。この俺の享楽を、魔女風情に邪魔されてたまるものか。そんなことを考えながら、ヴァレリーは喉の奥で、愉快げにくつくつと笑った。
「……“魔女”?」
「ああ。あの処刑場に囚われている怨霊だ。先日、神に仇なす魔女を、この俺自ら断罪してやったのだがな。どうやら死してなお、この俺を恨み、城を彷徨っているらしい」
そう言ってヴァレリーは、窓の外——城内に設けられた処刑場を指差した。
「この俺を、あの処刑台から引きずり落としたいのだろう。おかげで寝不足で敵わん。討て」
ディーンは無言のまま、ヴァレリーの示す先へ視線を向ける。色のない目でしばしその先を見つめていたかと思うと、「……たしかに。あそこには死霊の気配がある」と平坦に告げた。
王族の私邸に処刑場が存在する——その事実を前にしても、ディーンは眉一つ動かさない。蒼い瞳は相変わらず、何を映しているのかもわからぬほど無機質だった。
「あれが『魔女』の操る死霊であるならば、それを討つのが俺の役目。その命、承った」
ディーンは一つ頷くと、淡々と言い残し、そのまま部屋を後にする。
ぱたり、扉が閉まる。その背を見送ってから、ヴァレリーはどこか面白くなさそうに呟いた。
「……ふん。相変わらず、つまらん男だ」
鼻を鳴らすヴァレリーに、部屋に残っていた従者がおそるおそる声をかける。
「ゆ、勇者様お一人で、本当に大丈夫なのでしょうか……? 今からでも聖女様をお呼びして——」
「構わん。あの女が、こんなことで役に立つとは思えぬ。そもそも王族を守るのは、王国の剣たる勇者の務めであろう? わざわざ仕事を与えてやったのだ。せいぜい励めばよい」
「は、はあ……」
どこか釈然としない顔で頷く従者に、ヴァレリーは少し早いが床につく支度を命じる。窓の外では、すでに陽が沈み始めていた。
昇りかけた満月を眺めながら、ヴァレリーは満足げに呟いた。
「……今宵は、ようやく安眠できそうだな」
——夜、また夢を見た。
夢の中のヴァレリーは、処刑台の上ではなく、それを見上げる特等席に腰掛けていた。手には酒杯を持ち、まるで芝居でも眺めるように、悠然と足を組んでいる。
視線の先、広場ほどの大きさの処刑場では、勇者が聖剣を振るい死霊を斬り払っている。
いや、死者の魂など、ヴァレリーの目には見えない。だが、月光を浴びて白く輝く聖剣が振るわれるたび、“何か”が閃光と共に夜の闇へ溶けていく気配だけは、はっきりと感じられた。
「くく……」思わず、喉が鳴る。
「くく……くははは! 見たか、魔女め! この俺様に逆らうから、こうなるのだ!」
ヴァレリーは、自らの策が上手くいったのだと確信し、酒杯を月へ掲げ高らかに笑った。
「愚かな魔女め。小物だけを狩って満足していればよかったものを、この俺様を狙ったのが運の尽きだ。貴様らなど所詮、勇者には敵わぬ。聖剣はあらゆる『魔』を断ち切る。そして、その剣すら動かせるのが——金と権力だ」
口角を吊り上げ、愉悦に満ちた笑みを漏らす。その表情には、絶対的な自信で満ち溢れていた。
自分が欲しいと言ったものが手に入らないことはなく、いらぬと言ったものが目の前から排除されないこともない。
なぜなら、自分には、それだけの力があるのだから。
誰も彼も、自分を害せる者などいない。それがたとえ、人智を越える、魔女などという存在であったとしても。
ヴァレリーは心から信じていた。驕りなどではない。それは純然たる事実であった。
「金、そして権力。それさえあれば、勇者も神殿も思いのまま。魔女など、この俺様の恐れるに値せん!」
酒杯を傾けながら、ヴァレリーは誰も立っていない処刑台を見上げた。まるで、幕が上がるのを待ち侘びる観客のように。
そう、これだ。こここそが、自分のいるべき場所なのだ。
あの処刑台の上などではない。あんな場所で踊り狂うべきなのは、自分ではなく、この俺に逆らう愚かな民どもの方だ。この俺がいるべきなのは、ここ、それをただ一方的に鑑賞する、この場所なのだ。
そんなことを胸中で嗤いながら、ヴァレリーは死霊を討つ勇者を肴に、満足げに酒を煽った。
聖剣を振るうその姿はまるで舞いのようだった。
そうだ、勇者の剣技を宴の余興として披露させるのはどうだろう。
ふと浮かんだ思いつきに、ヴァレリーは口元を歪める。
異国の踊りよりも、流行りの劇団よりも、よほど貴族たちの関心を引くだろう。
そう考えると気分がよくなり、酒もさらに進んだ。気づけば酒杯は空になっている。それでもなお、勇者は淡々と聖剣を振るい続けていた。
と、不意に疑念が胸を掠めた。
勇者は、一体いつまで剣を振っている?
勇者に魔女討伐の命を出したのは、日の暮れかけた薄闇の頃だ。ところが今はもうすっかり夜の帷が降り、月は天高く登っている。
それまでの時間、何体の死霊を、あの剣は斬ったのだ?
ぞわり。
ヴァレリーの首筋を冷たい汗が伝った。気付いてはいけないことに気付いた気がした。
自分に呪いをかけているのは、“魔女”——あの踊り子ではなかったのか?
ならば、討つべき相手は一人のはずだ。
なのに、なぜ、勇者は未だ剣を止めない。まるで、斬るべき“何か”が尽きぬかのように。
胸の奥がざわついた。
そもそも、なぜ自分はこんな光景を見ている? 勇者が聖剣を振るう夢など——
——夢?
本当に、これは夢なのか?
ぞわりと背筋が粟立つ。誰かに見下ろされているような気配に駆られ、ヴァレリーは弾かれたように空を仰いだ。満月だけがぽつりと浮かぶその空には——星は、一つも出ていなかった。
「————え?」
気づけばヴァレリーは、またあの処刑台の上に立っていた。
声が漏れるより早く、体が勝手に動き出す。
狭い台の上で足を鳴らし、くるりと体を旋回させた。
「な、なんだ……!? 待て、なぜ俺がこんな場所に——!?」
叫べども声は誰にも届かない。眼下ではなお、勇者が聖剣を振るっていた。どこからともなく、拍手の音が鳴り響いてくる。
雨のように降り注ぐ拍手の中、ヴァレリーは踊る、踊る、踊る。
観客など一人としていないというのに、身体を捻り、脚を高く蹴り上げた。
満月だけがその姿を照らしている。まるで、舞台役者へ向けられる、冷たい照明のように。
「おい! おい、勇者! ディーン! 何をしている! 俺はここだ、助けろ!」
処刑台の上からどれだけ叫んでも、ディーンはまるで聞こえていないかのように、ただ黙々と聖剣を振るい続ける。
気づけば背後には、また大剣を携えた処刑人が立っていた。足元には、ヴァレリーの脚を掴もうと無数の手が這い寄ってくる。
どれもこれも、あの踊り子の褐色の腕だった。
「うわあああああああ!!!」
憎らしい褐色の肌。それらを振り払うように、ヴァレリーは狂ったように足を動かす。
そのうちの一つが足首を掴んだ瞬間、喉の奥から引き攣った悲鳴が上がった。
「なぜ、なぜだ!? 魔女は今、勇者が——」
「魔女なんていないからだ。——最初から」
不意に落ちたその声に、ヴァレリーの動きがぴたりと止まる。
聞き覚えのない、低い男の声だった。
恐る恐る足元を見る。細く褐色だったはずの腕は、いつの間にか白い男のそれへと変わっていた。
節ばった指先には薄くインクの染みが残っている。処刑台の縁から覗く暗い青髪。銀縁の眼鏡が月光を受けて鈍く光り、ヴァレリーははっと目を見開いた。
「お前だって、わかっていたはずだ。あそこで踊っていたのは、魔女なんかじゃない。——ただの、踊り子だ」
「き、貴様……あの時の……!? ま、待て、やめろ……やめ——ああああああああっ!!!」
叫びと共に、足が強く引かれる。気づけば背後に立っていた処刑人も、足元から這い寄っていた無数の人影も、すべてあの踊り子から姿を変えていた。
暗い青の髪。華奢な体躯。銀縁の眼鏡。
ほとんど記憶にすら留めていなかったその男は、たしかに、自分がここから突き落とした——
ぐらり、世界が傾いた。
眼下に広がる石畳は、月光を浴びてなおさら白々と輝いていた。眼前に白が迫る。
月だけが見下ろす夜の世界に、
拍手だけが、いつまでも鳴り止まなかった。




