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「サロ……メア……?」
鳴り止まない拍手の中、ヨハンは呟いた。喉から勝手に漏れたかのような、頼りない声だった。
目の前で起きたことが信じられず、唇だけが震えるように動く。
「サロメア!」
ヨハンは叫んだ。
拍手の音が耳を犯した。視界が真っ赤に染まる。
呼んだ名前に声が返ってくることはない。笑顔で振り返ることはない。
喉が張り付くように渇いた。背筋は冷え切っているのに、腹の底は煮え滾るように熱かった。
「何が……何が魔女だ! サロメアが何をしたと言うんだ! ただ招かれて、踊って——あの男の誘いを断っただけじゃないか! それで、それで何が異端だと言うんだ!」
ヨハンは絶叫した。
後ろ手に縛られ、地面へ押さえつけられたまま。それでもなお声を張り上げた。
だけどそんな彼を止める者はいなかった。ヨハンの声など、誰も聞こえていないかのようだった。彼を押さえつけている衛兵ですら、魂を抜かれたような顔で空を仰いでいる。
「肌の色か!? 踊り子として生きた、その在り方か!? お前たちも見ただろう、あの、あの舞いのどこが、どこが魔女の舞いだったと言うんだ……!」
それでも叫び続けた。
頰が熱かった。視界が歪んで、そこでやっと自分が泣いていることに気づいた。構わなかった。何度だって叫んだ。
それでも誰一人こちらを振り向かない。
皆、もう誰もいなくなった処刑台を見上げ、ただひたすらに拍手を捧げる。
それは、異様な光景だった。
鳴り止まぬ拍手に、それでもヨハンが感じるのは絶望だった。
ただ手を鳴らす彼らにあるのは、感動か? 賞賛か?
そんなもの、どうだっていい。
それだってもうサロメアには届かない。
サロメアを、ただの踊り子を、見世物にしようと集った者たちが、何を今更そんな顔で彼女を見つめるのだ。
胃の底が灼けつくようだった。肩が震え、胸の内が煮えくり返る。噛み締めた奥歯から血の味がした。
法を信じ規範を信じ、ただ神に祈りを捧げて生きてきた。その末路がこれなのか。
ならば俺のしてきた祈りとは、一体なんだったのだろう。自分の守り続けてきた正しさの先に、この光景があるというのなら、俺は——
「な、なんだ、この空気は……!」
鳴り止まぬ拍手の中、いっそヴァレリーだけが正気だった。
眉間を引き攣らせ、狼狽した目で広場を見渡す。
「なぜ誰も嗤わん!? なぜ恐れぬ!? 処刑だぞ!? これは断罪なのだぞ! 拍手を止めろ……止めろと言っているだろうが!! っ〜〜〜〜!」
尊大なその声にも、誰も振り返らない。拍手は止まない。
ヴァレリーはついに堪えきれなくなったように喉を鳴らすと、ぎろりと視線を巡らせ——処刑場の隅へ転がされていたヨハンを見つけた。
「貴様……っ! 貴様、あの踊り子と共にいた男だな! 魔女の手先め……! お前も、お前も魔女の信徒として処刑してやる……!」
ヨハンを見つけたヴァレリーは、まるで子供の癇癪のように叫び、八つ当たりでもするかのように今度は彼を処刑台へと突き出した。ヨハンを押さえつけていた衛兵と、処刑人の男だけがようやく我に返ったように顔を上げる。
そうしてヨハンもまた、石畳へと投げ落とされたのだった。
***
「——ようこそ、私の愛しい『踊り手』よ。あなたの願いは、何かしら?」
——夢と現の狭間、揺り籠を揺らすような声にヨハンは目を覚ました。
耳を犯す拍手はもう聞こえない。
目の前にあるのは夜のような静けさと、一面の星海だけ。
突きつけられた白い石畳も、ただ茫然と拍手を送る貴族たちの姿もない。
不思議に思って顔を上げた。
「ここは——ぐぅッ!」
瞬間、頭の奥に直接感情が刻み込まれた。
愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる。
まるで子をあやす親のように。人を陥れる悪魔のように。
慈愛と狂気に満ちた愛の言葉が、ヨハンの脳内を埋め尽くす。
濁流のようなそれから逃れるように目を開ければ、夜の中心、その空間に、長い黒髪の女がいることに気づいた。
「あら、驚いた。
ここに落とされたのは、あなただけなのね」
ヨハンと目が合うと、女は驚いたように目を見開き、そう言った。
夜凪に揺蕩うようにするその女の足元で、黒猫が退屈そうにあくびをする。
「こんなこともあるものなのねえ。まあ、あなたが舞台に上がるというのなら、私はそれに手を貸すだけだけれど……」
「——お前は、誰だ?」
口元に細い指を当て、何某か呟くその女にヨハンは尋ねる。
長い黒髪、黒のドレス。夜の空間に溶けてしまそうなその女は、いたって普通の女性のようでいて、どこの誰にもない異彩を放っているようにも見えた。
その姿を視界に入れるだけで背筋が粟立つ。なのにそこから目が逸せなかった。そうだ、まるで——サロメアに魅入られた者たちのように。
恐怖を超えた畏怖を抱く。目を見開き固まるヨハンに、女は小さく笑んで答えた。
「私は魔女よ。あなたたち神の信徒が、心から忌避するもの」
「ま、じょ……?」
その言葉に、ヨハンは腹の底がカッと熱を持ったのがわかった。
まじょ、魔女。
それは、己が祈りを捧げてきた神殿が、最も忌み嫌うもの。
この国で最も恐れられる、神への反逆者。
そして——サロメアに対して押された烙印。
目の前にいるのが、その——
「あら、怒る相手が違うのではなくて? 怒りも恨みも、あなただけの気高き感情。あなたが向けるべき相手に向けなさいな」
怒りを再燃させるヨハンにルナは言うと、クスクスとくすぐるように喉を鳴らした。
夜の世界をふわりと跳ねると、ヨハンの眼前に舞い立ち、その紅の瞳で真っ直ぐに彼を射抜いた。
——怒る相手が違う?
ああ、たしかにそうだ。サロメアを殺したのはこの魔女ではない。
サロメアを殺したのは、むしろ——
ヨハンの脳裏に、あの高い高い処刑台が思い起こされる。
次いでサロメアを連れ去りに来た異端審問官の顔が。
そして何より、そこへとサロメアを追いやった、ヴァレリーの笑い顔が。
「さあ、私の愛しい『踊り手』よ。
あなたの願いを叶えるために、力が欲しいのではなくて?」
そう言うと、女は白い手をヨハンに向かって差し向けた。
紅い唇が弧を描く。
「神も聖女も誰一人あなたを救わなかったというのなら、この魔女が力を授けましょう。
——あなたがその血を、捧げるのならば」
途端、心臓が熱を持つ。
全身を打つ拍動が拍手のように彼を包んだ。
鳴り止まない喝采がヨハンを蒼穹へと舞い上げる。
喉の奥からせり上がるのは愛か、呪いか。
叩きつけられた情動は、すでに地を染める染みとなった。
理性も信仰も、サロメアとの思い出さえ、全て怒りに呑み込まれた。
祈りの言葉は呪詛へと変わり、世界中を染め上げていく。
「あなたの信じる正義のために。
さあ、幕を上げましょう——」
ヨハンの目の前で、魔女がその両手を叩く。
弾けるようなその音が、夜を切り裂き太陽を呼び込んだ。
夢は、そこで崩れ落ちた。




