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「——なあ、ちょっと。ちょっと待っとくれよ、ヨハン!」
「……っ、声を抑えろ、サロメア。君の顔を知っている者もいるんだ」
「そうは言ったってさあ……」
ヨハンとサロメアは、人目を避けるように街中を進んでいた。
褐色の肌はどうしても目立つ。ヨハンはサロメアの頭からすっぽりと上衣を被せ、建物の影から影へと身を滑り込ませるように歩いていく。まるで罪人にでもなった気分だった。
領主館からの脱出は、驚くほどあっさり成功した。
館の人間ですら忘れかけていた古い出入り口など、外部の神殿騎士たちには完全な盲点だったのだろう。誰にも見咎められることなく、二人は街へ抜け出すことができた。
だが、本当の問題はここからだった。
街を巡回する衛兵の数が、明らかに増えている。そして、その視線は皆、同じものを探していた。——サロメアだ。
万一館から逃げ出した場合に備え、ヴァレリーが先手を打っていたのだろう。
一声で神殿も、衛兵まで動員できる、その圧倒的な権力を二人は改めて思い知らされた。
乗合馬車で領外へ逃れようにも、停留所にはすでに衛兵たちが立っていた。
街を行き交う人々もまた、ひそひそと噂話を交わしている。
「魔女が現れたらしいぞ」
「ヴァレリー殿下に怪我を負わせたとか」
話には尾ひれがつき、事実などどこにも残っていない。
その中には、つい先日までサロメアの舞いを囲み、惜しみない拍手を送っていた者たちの姿もあった。それなのに今は、嫌悪に顔を歪めながら『魔女』の噂を口にしている。
その光景に、ヨハンは言いようのない感情を胸の奥に滲ませた。
かつてサロメアと共に訪れた古書店の前を通りかかれば、店先に立っていた主人が、こちらを見てびくりと顔を引き攣らせる。そしてそそくさと店の奥へ消えていくものだから、察してその場を離れれば、しばらくもしないうちに数人の衛兵がその店の近くへ駆けつけてきた。背筋がぞわりと粟立つ。
目立たぬよう裏通りへ回れば、今度は、いつぞやギターを弾いてくれた男と鉢合わせた。わけを話そうと近づけば、「よくも騙したな。魔女に聞かせる音楽はない!」と嫌悪を露わに怒鳴られる。その声に周囲の視線も一斉に集まり、またそこから逃げ出す羽目になった。
サロメアが館から逃亡したことが知れ渡ったのだろうか、次第に衛兵の数も増えていった。
まるで街全体が、自分たちを包囲しているようだった。
昨日まで笑いかけてくれていた人々が今は恐れと嫌悪の目でこちらを見、隠れられる場所などどこにもない。ただただサロメアの腕を引き、街を駆けた。館と教会を往復するだけの人生を送ってきたヨハンには、こういう時に身を潜められる場所など、ほとんど思い当たらなかったのだ。
ついに追い詰められた二人は、街外れの空き家へと転がり込んだ。
薄暗い室内で、息を殺す。
崩れかけた壁際に身を寄せ合いながら、外を駆け回る衛兵たちの足音が通り過ぎるのをじっと耐えて待った。
その音が少しずつ遠ざかっていくのを確かめてから、ようやく二人は顔を見合わせ、小さく息を吐いた。
「……大丈夫かねえ。一座のみんなも、館のみんなも」
外へ出るべきか、それとも夜まで息を潜め街を離れるべきか——そう思案していた時だった。サロメアが俯いたまま、ぽつりとそう零した。
自分自身が、今この街で最も追われている立場だというのに。
ヨハンは胸の奥が鈍く痛むのを感じながら、静かに答えた。
「殿下が捕らえろと命じたのは、君だけだ。君がもう館にいないとわかれば、他の者にまで危害を加えることはないだろう」
「でもさ……そうは言っても、まだ館の中に匿ってるんじゃないかって疑われるかもしれないだろう?」
「そうではないから、こうして街中に衛兵が出ているんだろう? それに、ああ見えて皆頭の回る人たちだ。うまくやるさ」
「……そう、かな」
慰めるようなヨハンの言葉にも、サロメアは気持ちが晴れないとばかりにまた俯いた。膝を抱えるようにして座り込むと、そのまままた押し黙る。
今日のサロメアは、普段からは考えられないほど沈み込んでいた。
館を取り囲む神殿騎士たちを見た時からずっと、ひどく塞ぎ込んでいる。あれほど気丈だった彼女が、だ。
無理もない。魔女だと断じられ、異端審問官に連れ去られかけたのだ。どれほど肝の据わった人間であろうと、平然としていられる出来事ではなかった。
「ヨハンも……本当に、よかったのかい? こんな……神殿に逆らうような真似をして」
沈み切った声で、サロメアはぽつりと呟いた。
「狙われてるのは私だけだ。今からでも、あんただけでも逃げて——」
「駄目だ! 君ひとりで、異国の土地をどう逃げ切るつもりだ。それに……無実の人間を捕らえようとするなんて、やはり間違っている」
「無実……?」
「ああ。たとえ王族の命でも、領主の命でも……神の名の下に、そんなことが許されていいはずがない」
「そう、か……」
消沈した声をかき消すように言う。
サロメアは力なく笑った。
「そう、かな……。神に祈らない、王族にも傅かない。そんな私が魔女だって言われたら……きっと、この国じゃ、それが正しいんだろうさ」
「それは違う……!」
落ちていくその声を遮るように、ヨハンは声を張り上げた。
古びた空き家の中に、その声が鋭く響く。
驚いたように顔を上げたサロメアに、ヨハンは続けた。
「君がいつ『魔』に堕ちた? 邪悪な術を使った? 君はただ、舞っていただけだ。それのどこが、魔女なんだ!」
「でも、神殿の連中にとっちゃあ、あれも男を惑わす舞いなんだろう? 私が悪かったんだ。貴族なんかが集まる舞台に立ったから。こんな目立つ見た目をしてるくせに、それでも踊りたいなんて願ったから……っ!」
サロメアは唇を震わせた。悲鳴のようなその声に、ヨハンの胸が裂けそうになる。
彼女の生きがいであるはずの舞いを、サロメア自身が否定する。そのことが、何より苦しかった。
「そのせいで、一座にも、あんたにも迷惑をかけて——」
「迷惑なんかじゃない! 俺が、自分の意思でサロメアを連れ出したんだ。俺は——っ」
言いながら、気づけばサロメアの細い肩を両手で掴んでいた。
はっとしたように見上げる金の瞳を、真正面から見据える。
そして、胸の奥から込み上げた言葉を、そのまま吐き出した。
「俺は、君の舞いは、祈りのようだと思った……!」
「君の舞いに誰もが心を奪われるのは、それが君の祈りだったからだ。君の祈りが、ちゃんと人に届いたからだ。覚えているだろう。あの下手くそなギターに合わせて踊った時、皆が笑って、手を叩いたことを。宴の夜、舞台の上の君に、貴族たちが惜しみない拍手を送ったことを」
ヨハンは掠れた声で、必死に言葉を紡いだ。引き攣った声だった。ところどころ掠れ、震え、それでもなお語りかけるヨハンを、サロメアはひたすら見つめていた。
「君が言ったんだろう。聖女様のお言葉を聞いて、舞いとは祈りなのだと知ったと。君は魔女なんかじゃない。神も聖女も侮辱などしていない。君はずっと、祈っていただけだ。君自身のやり方で、ずっと、真摯に。だから——」
語るほどに声は熱を帯びていく。石造りの古びた空き家に反響し、今にも外へ漏れてしまいそうだった。それでも止められなかった。ヨハンは一呼吸、息を吸い込み、縋るように言った。
「だから——踊らなきゃ良かったなんて、言わないでくれ……」
——言い終わると同時、教会の鐘が、街中に響き渡った。
昼を告げる鐘の音だった。気づけば太陽は空の真上にまで昇っていた。抜けるような青空に、鐘の音が高く広がっていく。
いつかも、こんなことがあった気がした。青空の下、自由に舞う鳥を見た時のことだ。誰より軽やかに、どこまでも自由に。場所にも、衣装にも、何にも縛られず舞っていた。
その鳥が今や、こうやって薄暗い空き家の片隅で小さく肩を震わせている。自らの運命に怯え、顔を青ざめさせ。そして、自分が何より愛していたものを、後悔しようとしている。
ヨハンには、それが耐え難かった。
どうしても。どうしても、許せなかった。
「————あっはっはっはっは!」
しんと静まり返っていた室内に、突然、サロメアの高い笑い声が響き渡った。
ヨハンは目を瞬かせ、項垂れていた顔を思わず上げた。
「な、なんだ、急に」
「いやあ、ごめんよ。ふふっ……やっぱりあんた、面白い男だなあと思ってさ」
「なっ!? こんな時にまで何を、」
「だってそうだろう? 罪人扱いされてる女を連れて逃げて、自分まで追われる立場になってるくせにさ。言うに事欠いて、『踊らなきゃ良かったなんて言うな』だろう? もっと他に、言うことあるじゃないか」
「そ、それは……!」
くつくつと喉を鳴らしていたサロメアは、返す言葉に詰まるヨハンを見て、ついに堪えきれなくなったように腹を抱えて笑い出した。肩を震わせ、からからと楽しげな声を上げる。
その様子に、ヨハンは急に気恥ずかしくなり、頬を染め口元を拳で隠した。
やがて、ひとしきり笑ったあと、サロメアは静かに息を吐き、まっすぐヨハンを見た。
「——ああ、でも。……そうか、そうだね。私は魔女なんかじゃない。ただの——踊り子だ」
その言葉に、ヨハンは思わず息を呑んだ。そう告げるサロメアの顔には、もう先ほどまでの陰りはなくなっていたからだ。
そこにあるのは、いつものように自信に満ちた笑み。緑の瞳には、強い意志の光が宿っている。それは紛れもなく、ヨハンの知るサロメアそのものだった。
胸の奥に張り詰めていたものが、ようやく少しだけ緩む。ヨハンは小さく息を吐いた。
だが同時に、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
何かがおかしい。
だが、それが何なのかわからない。
戸惑うヨハンに、サロメアは再び声をかける。
「ヨハン——ありがとう」
言いながら、彼の手をそっと取り、掌に何かを握らせる。
「何……?」目を落とす。受け取ったそれは——昨夜、自分が彼女へ渡したはずのハンカチだった。鳥の刺繍が見えるよう、几帳面に折り畳まれている。ヨハンは目を見開いた。
「サロメ、……っ!」
名を呼んだ。その時にはすでに、サロメアは立ち上がり、古びた空き家の扉を勢いよく開け放っていた。
軋む扉の向こうから、眩い陽光が一気に差し込む。
「——言っただろう? 誰かの言いなりになるくらいなら、死んだ方がマシだって」
扉の向こうへ半ば身を躍らせながら、サロメアは言った。
そしてにわかにヨハンを振り返り、笑う。金の瞳が、陽光を受けて鮮やかに揺れた。
「誰かから隠れて怯えて生きるくらいなら——ここで踊り狂って死んだ方が、よっぽどマシさ!」
そう言うと同時に、サロメアは勢いよく空き家を飛び出した。
まるで舞台へ駆け出す踊り子のように、軽やかな足取りで大通りへ躍り出る。
通りには、すでに何人もの衛兵が巡回していた。
その真正面へ進み出ると、サロメアは高らかに声を張り上げる。
「おい、あんたたち! 一体、誰を探してるんだい?」
そして、頭から被っていた上衣をばさりと脱ぎ捨て、褐色の肌を晒した。艶やかな薄布が風に揺れる。
「私はここだよ。あんたらのご主人様が探してる——魔女様だ!」
「馬鹿、サロメア……!」ヨハンもまた、慌てて外へ飛び出した。伸ばした手が、彼女の背を追う。
だが、その指先が届くより早く、
「——いたぞ! 魔女だ!」
叫び声が響き、周囲にいた衛兵たちが一斉に駆け寄ってきた。そして彼女の細腕を捕える。
サロメアは、逃げなかった。自分を押さえつける手に、それでも一切の抵抗もしない。——なんの力もない彼女は、魔女だなどという仰々しい呼び名が笑えるほどあっさりと、呆気ないほど容易く捕らえられた。
褐色の腕を乱暴に捻り上げられ、大柄な男たちに取り囲まれ。そのまま、どこへとも知れぬ場所へ引き立てられていく。彼女に駆け寄ったヨハンもまた、衛兵の一人に捉えられ、石畳の地面に引き倒された。
「サロメア、サロ……っ!」
地面に転がり泥だらけになった顔で、ヨハンは何度も叫ぶ。
それでも、サロメアはずっと、その口元に笑みを湛えていた。




