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血濡れの魔女は夜と踊る  作者: ウミノリリオ
第五章 祈らぬ舞い子は朝に笑む

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 ヨハンの予感は、果たして的中した

 翌朝、まだ陽も昇り切らぬ薄暗い時刻。旅立ちの支度を整えていた一座の前に、異端審問官が現れたのだ。


「この館に魔女が匿われているとの報せを受けた。直ちに引き渡せ」


 厳かな白の装束。その背後には武装した神殿騎士たちがずらりと引き連れ、彼らは門前を完全に封鎖した。


「魔女……? 誰のことだか、皆目見当もつきません」


 最初はフリッツがそう応対した。困惑したように問い返す声に嘘はない。実際、魔女など思い当たる節はなかったからだ。

 だが、審問官は一歩も引かなかった。白髭を蓄えた一人が、鋭い目でフリッツを見据える。


「知らぬはずがあるまい、こちらはヴァレリー殿下より直々に報告を受けているのだ。——この館に滞在している踊り子は神に仇なす魔女である、と」

「……!?」


 館は騒然とした。サロメアのことだ。誰もがそう察したからだ。

 ヨハンは反論した。サロメアが魔女などあり得ないと。彼女は宴のために呼ばれ、舞いを披露しただけだ。滞在中だって問題など何も起こしていない。異国の出ゆえ、信仰や風習が異なるところもあろうが、神や聖女に仇なすような者ではないと。

 だが審問官は聞く耳を持たない。

 サロメアと会ったこともないはずの彼らは、だというのに彼女をさも恐ろしいものだというように怯え、嫌悪し、言った。


「呪われた黒い肌を持つと聞く」

「異国の妖しき舞で男を誑かすとも」

「神に抗うと公言し、あろうことか王子殿下のお言葉を拒絶したそうだな」

「それが魔女でなくて、なんだと言うのだ!」


 次々に飛ぶ糾弾。

 そして最後に、中心に立っていた白髭の審問官が静かに口を開いた。


「これは、ヴァレリー殿下の勅命である。——魔女を引き渡しなさい」


 異議など許さぬその圧力に、ついにフリッツは折れ、サロメアを神殿に引き渡すと決めた。







「ちょ、ちょっと待ちなよ、ヨハン!」

「……いいから、とにかく走れ!」


 ヨハンはサロメアの腕を掴み、領主館の廊下を必死に駆けていた。

 目指すのは裏口だ。正門はすでに夥しい数の神殿騎士によって封鎖されている。サロメアの姿を見つけられた瞬間に捕らえられてしまうだろう。


「待て、待ちなさい、ヨハン! その娘を引き渡すのだ!」


 そんな彼らを追うのは、フリッツや、その他館に勤める使用人たちであった。つい昨日まで共に働いていた仲間たちが、鬼気迫る顔でこちらへ駆けてくる。


「ヨハン、お前、魔女を囲うつもりか!? 神殿への反逆として、お前も捕らえられるぞ!?」

「サロメアは魔女なんかじゃありません! 罪のない女性を魔女として突き出すなど、それこそ神への冒涜だ!」


 責めるような叫びに、ヨハンもまた振り返りざま声を張り上げた。叫びながら、石造りの廊下を駆け抜ける。激しい足音が館中に響き渡った。

 だが、ようやく辿り着いた裏門を見た瞬間、ヨハンは息を呑んだ。


「そんな……」


 裏門にもまた、神殿騎士たちがずらりと並び、館を完全に包囲していたのだ。

 白銀の鎧が朝日に鈍く光る。「嘘だろう……」愕然と呟くヨハンの隣で、サロメアもまた顔を青ざめさせた。

 足を止めた二人を、追いついた使用人たちと、一座の者たちが取り囲む。彼らもまた、裏門の光景を目にして言葉を失った。

 重苦しい沈黙の中、やがて口を開いたのはフリッツだった。

 

「……無駄だ。彼らは、殿下の勅命だと言っていた。それを違えるなど、許されない。だからこそ、これだけの数を連れてきているんだ。逃げ切れるわけがない……」


 絞り出すような声音だった。

 いつもの柔和な表情は見る影もなく、真っ青になった顔には脂汗が滲み、震える声には隠しきれぬ怯えが宿っている。

 ヨハンは食い下がった。


「ですが……ですが、サロメアは魔女ではない! それはあなたもわかっているでしょう!?」

「わかっているさ、この館にいる全員。いや、きっと、ヴァレリー殿下ご自身も。……わかるだろう? 怒らせたんだよ、王族を」

「……っ!」


 諭すような声色に、ヨハンはついに言葉を失った。周囲の者たちも皆、口を結んで視線を落とす。

 ここにいる誰一人として、サロメアを魔女だとは思っていない。

 だが、昨夜の出来事はすでに館中へ知れ渡っていた。平民が王族の手を振り払うなど、危うい好意。咎めを受けるかもしれないと、そう覚悟していた者はいた。

 まさか、ここまでのことになるとは、誰も想像していなかったが。


 館の空気が、鉛を流し込んだように重く沈む。

 ヨハンは、自分の足元がぐらぐらと揺れているような感覚を覚えていた。


 神殿の紋章を刻んだ白い装束。陽光を反射する神殿騎士たちの煌びやかな鎧。

 そのすべては、本来ならば彼にとって敬うべきものだった。

 幼い頃から祈りを捧げ、正しきものだと信じ続けてきた存在だ。神に仕え、民を導く者たち。そのはずだった。

 そんな彼らが、なぜ、罪ひとつない女を魔女だと決めつける。

 なぜ、こちらの言葉に耳を貸そうともしない。

 ただ、王族の命だからと。ただ、それだけの理由で。


 ……いや、違う。

 王族の命は絶対だ。

 身分ある者の言葉に従うこと。それは、この国に生きる者として当然の規範であり、ヨハン自身、疑ったことなど一度もなかった。命じられた役割を果たし、定められた秩序に従う。それこそが正しい生き方だと、ずっと信じてきたのだ。

 だが——


 本当に、それでいいのか?

 何の罪もない女を神殿へ差し出すことが。

 ただ、それが『命令』だからと従うことが。

 それが、本当に“正しい”のか?

 まして、その相手が、サロメアであっても——?


 思考が渦を巻く。

 頭の中がぐるぐると回り、吐き気にも似た感覚が込み上げてくる。自分が何を信じ、どこに立っているのかさえわからなかった。

 視界が揺れ、身体がふらりと傾く心地がする。

「ヨハン……」

 隣で、サロメアが不安げにそう呟いた。


「——おい、ここ以外に抜け道はねえのか!?」

「仮にあったとして、どうするんだよ。あんたらの荷馬車は正門に置いたままだぞ!」

「荷馬車なんざ後でどうとでもなる! せめてサロメアだけでも逃がして——」

「逃げたと知れたら、次に狙われるのはあんたらだ! 神殿相手に、どうやって逃げ切るつもりだよ!?」

「……っ、なんだその言い方は! こっちは仲間が罪人扱いされてんだぞ!?」

「巻き込まれたのはこっちだって同じだ! その女がここにいるせいで、俺たちまで魔女の仲間だと思われたらどうする!」

「そもそも、その娘がヴァレリー様のご不興を買ったからこんなことになったんでしょう!?」

「サロメアは魔女なんかじゃねえ!」

「罪もない女を魔女呼ばわりして差し出すのが、この国のやり方なのか!?」

「やめなよ! 今そんなことで揉めてる場合じゃ——!」


 頭上では、一座の者たちと館の下働きたちが言い合っていた。

 怒号が飛び交い、互いに声を荒げ合う。誰もが焦り、怯え、どうにかこの状況から逃れようとしていた。だが、その先にあるものは、どう転んでも絶望しかない。

 仮にサロメアだけを逃がせたとしても、今度は彼女を逃した罪で、一座の者たちや館の人間が反逆者として捕らえられるだろう。このまま館に閉じこもっていたところで同じだ。門前を取り囲む神殿騎士たちは、今にも館へ踏み込んできそうな空気を漂わせている。逃げ場など、最初からどこにもなかった。

 ヨハンにも、それはわかっていた。サロメアを引き渡すべきだ。それですべて終わる。それで、この場の誰もが助かる。

 ——わかっているのに。

 それでもヨハンは、掴んだサロメアの腕を、どうしても離すことができなかった。

 

 そんなヨハンへ向けて、フリッツが重く沈んだ声を落とした。


「……いい加減、その娘を引き渡しなさい、ヨハン。これは殿下の勅命だぞ。私たちのような平民に、何ができるというんだ!」

「ですが——」

「どのみち、今日で別れるはずだった相手だろう。何を迷う必要がある。彼女はこの館を出て、また旅に出た。そう思えばいいじゃないか!」


 悲鳴のような声に、ヨハンは息を呑んだ。

 すると今度は、下働きの男の一人が口を挟む。普段から何かとヨハンをからかっていた男だった。


「そうだぜ、ヨハン。お前がこの嬢ちゃんを嫁にでももらうつもりだったってんなら、俺だって味方してやりてえよ。でも、違うんだろ? その程度の相手、手放して何が悪いってんだよ!?」

「違っ——」


 言われた言葉に、胸が引き裂かれるように痛んだ。喉元まで込み上げた言葉は、けれど声にならない。

 その程度。その程度、なのか?

 違う。ただ、自分は——


 サロメアに、自由でいてほしかっただけだ。

 この館にも、どこかの誰かにも縛られず、彼女にはこれからも、自分の知らない世界を旅していてほしかった。

 それを語る彼女の横顔が、この世の何よりも美しいと思ったから。

 だから何も告げず、別れを受け入れようとしていたのだ。


 だが、これは違う。

 ヨハンの脳裏に、先ほどの異端審問官たちの顔がよぎる。

 怯えと嫌悪、そして憎悪を滲ませながら、サロメアを魔女だと断じた者たち。

 あんな目をした人間たちに、彼女を引き渡せるものか。

 そんな、自由に空を舞う鳥の羽根を捥ぐような真似——そんなことを、自分が許していいはずがなかった。


「——使用人専用口」


 張り詰めた空気の中、下男の一人がぽつりと呟いた。

 彼もまた、よくヨハンに声をかけてくる者たちの一人だった。

 落ちた言葉に、誰もが怪訝に顔を上げる。


「使用人専用口なら、騎士どもにも見つからずここから出られるんじゃねえか? ほら、昔使ってた、西館のやつだ」


 ハッとした。

 確かに、この館にはもうひとつ出口がある。老朽化を理由に、今ではほとんど使われなくなった小さな通用口。かつて使用人専用として使われていた、西館の外れにある古い出入り口だ。

 たしかにあそこなら、正門も裏門も通らず、そのまま街へ抜けられる。騎士たちの目を掻い潜れるかもしれない。


「ま、待て! お前まで魔女を逃がすつもりか!? そんな真似をすれば、神殿に突き出されるぞ!」


 別の男が青ざめて叫ぶ。

 だが、提案した下男は苦い顔のまま首を振った。


「そんなつもりはねえよ! いいか、これはただの独り言だ。俺たちは、もう使われてねえ使用人用の出口なんざ忘れてた。誰も、そこが使われるなんて思ってなかった」

「何を……」

「俺たちは魔女を必死で探した。館中至るところ。でも、見つからなかった。あちこち探し回って、それでようやく——使用人専用口が使われてたことに気づいた」

「……っ!」


 冷や汗を浮かべながら、男は続けた。ヨハンには一瞥もくれず。だがその言葉の意味は、明言されずとも痛いほど伝わった。

 掴んでいたサロメアの腕を、ぎゅっと握り直した。項垂れていた顔をあげる。


「……すまない。恩に着る」

「ちょ、ちょっと、ヨハン……!?」


 ——そうして返事も待たず、ヨハンはサロメアの腕を引いて駆け出した。

 目指すのは西館、旧使用人用出入り口だ。


「ま、待て、ヨハン!」

「お前、何を考えて——!」


 背後からフリッツたちの慌てた声が飛ぶ。

 だが、それを掻き消すように、一座の者たちと、下男の声が重なった。


「サロメア! 絶対に逃げ切れよ!」

「いいか、俺たちは何も見ちゃいねえ! これから先のことも、何ひとつ知らねえからな!」


 その叫びに背を押されるように、ヨハンはただ前だけを見て走った。

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