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ヨハンの予感は、果たして的中した
翌朝、まだ陽も昇り切らぬ薄暗い時刻。旅立ちの支度を整えていた一座の前に、異端審問官が現れたのだ。
「この館に魔女が匿われているとの報せを受けた。直ちに引き渡せ」
厳かな白の装束。その背後には武装した神殿騎士たちがずらりと引き連れ、彼らは門前を完全に封鎖した。
「魔女……? 誰のことだか、皆目見当もつきません」
最初はフリッツがそう応対した。困惑したように問い返す声に嘘はない。実際、魔女など思い当たる節はなかったからだ。
だが、審問官は一歩も引かなかった。白髭を蓄えた一人が、鋭い目でフリッツを見据える。
「知らぬはずがあるまい、こちらはヴァレリー殿下より直々に報告を受けているのだ。——この館に滞在している踊り子は神に仇なす魔女である、と」
「……!?」
館は騒然とした。サロメアのことだ。誰もがそう察したからだ。
ヨハンは反論した。サロメアが魔女などあり得ないと。彼女は宴のために呼ばれ、舞いを披露しただけだ。滞在中だって問題など何も起こしていない。異国の出ゆえ、信仰や風習が異なるところもあろうが、神や聖女に仇なすような者ではないと。
だが審問官は聞く耳を持たない。
サロメアと会ったこともないはずの彼らは、だというのに彼女をさも恐ろしいものだというように怯え、嫌悪し、言った。
「呪われた黒い肌を持つと聞く」
「異国の妖しき舞で男を誑かすとも」
「神に抗うと公言し、あろうことか王子殿下のお言葉を拒絶したそうだな」
「それが魔女でなくて、なんだと言うのだ!」
次々に飛ぶ糾弾。
そして最後に、中心に立っていた白髭の審問官が静かに口を開いた。
「これは、ヴァレリー殿下の勅命である。——魔女を引き渡しなさい」
異議など許さぬその圧力に、ついにフリッツは折れ、サロメアを神殿に引き渡すと決めた。
*
「ちょ、ちょっと待ちなよ、ヨハン!」
「……いいから、とにかく走れ!」
ヨハンはサロメアの腕を掴み、領主館の廊下を必死に駆けていた。
目指すのは裏口だ。正門はすでに夥しい数の神殿騎士によって封鎖されている。サロメアの姿を見つけられた瞬間に捕らえられてしまうだろう。
「待て、待ちなさい、ヨハン! その娘を引き渡すのだ!」
そんな彼らを追うのは、フリッツや、その他館に勤める使用人たちであった。つい昨日まで共に働いていた仲間たちが、鬼気迫る顔でこちらへ駆けてくる。
「ヨハン、お前、魔女を囲うつもりか!? 神殿への反逆として、お前も捕らえられるぞ!?」
「サロメアは魔女なんかじゃありません! 罪のない女性を魔女として突き出すなど、それこそ神への冒涜だ!」
責めるような叫びに、ヨハンもまた振り返りざま声を張り上げた。叫びながら、石造りの廊下を駆け抜ける。激しい足音が館中に響き渡った。
だが、ようやく辿り着いた裏門を見た瞬間、ヨハンは息を呑んだ。
「そんな……」
裏門にもまた、神殿騎士たちがずらりと並び、館を完全に包囲していたのだ。
白銀の鎧が朝日に鈍く光る。「嘘だろう……」愕然と呟くヨハンの隣で、サロメアもまた顔を青ざめさせた。
足を止めた二人を、追いついた使用人たちと、一座の者たちが取り囲む。彼らもまた、裏門の光景を目にして言葉を失った。
重苦しい沈黙の中、やがて口を開いたのはフリッツだった。
「……無駄だ。彼らは、殿下の勅命だと言っていた。それを違えるなど、許されない。だからこそ、これだけの数を連れてきているんだ。逃げ切れるわけがない……」
絞り出すような声音だった。
いつもの柔和な表情は見る影もなく、真っ青になった顔には脂汗が滲み、震える声には隠しきれぬ怯えが宿っている。
ヨハンは食い下がった。
「ですが……ですが、サロメアは魔女ではない! それはあなたもわかっているでしょう!?」
「わかっているさ、この館にいる全員。いや、きっと、ヴァレリー殿下ご自身も。……わかるだろう? 怒らせたんだよ、王族を」
「……っ!」
諭すような声色に、ヨハンはついに言葉を失った。周囲の者たちも皆、口を結んで視線を落とす。
ここにいる誰一人として、サロメアを魔女だとは思っていない。
だが、昨夜の出来事はすでに館中へ知れ渡っていた。平民が王族の手を振り払うなど、危うい好意。咎めを受けるかもしれないと、そう覚悟していた者はいた。
まさか、ここまでのことになるとは、誰も想像していなかったが。
館の空気が、鉛を流し込んだように重く沈む。
ヨハンは、自分の足元がぐらぐらと揺れているような感覚を覚えていた。
神殿の紋章を刻んだ白い装束。陽光を反射する神殿騎士たちの煌びやかな鎧。
そのすべては、本来ならば彼にとって敬うべきものだった。
幼い頃から祈りを捧げ、正しきものだと信じ続けてきた存在だ。神に仕え、民を導く者たち。そのはずだった。
そんな彼らが、なぜ、罪ひとつない女を魔女だと決めつける。
なぜ、こちらの言葉に耳を貸そうともしない。
ただ、王族の命だからと。ただ、それだけの理由で。
……いや、違う。
王族の命は絶対だ。
身分ある者の言葉に従うこと。それは、この国に生きる者として当然の規範であり、ヨハン自身、疑ったことなど一度もなかった。命じられた役割を果たし、定められた秩序に従う。それこそが正しい生き方だと、ずっと信じてきたのだ。
だが——
本当に、それでいいのか?
何の罪もない女を神殿へ差し出すことが。
ただ、それが『命令』だからと従うことが。
それが、本当に“正しい”のか?
まして、その相手が、サロメアであっても——?
思考が渦を巻く。
頭の中がぐるぐると回り、吐き気にも似た感覚が込み上げてくる。自分が何を信じ、どこに立っているのかさえわからなかった。
視界が揺れ、身体がふらりと傾く心地がする。
「ヨハン……」
隣で、サロメアが不安げにそう呟いた。
「——おい、ここ以外に抜け道はねえのか!?」
「仮にあったとして、どうするんだよ。あんたらの荷馬車は正門に置いたままだぞ!」
「荷馬車なんざ後でどうとでもなる! せめてサロメアだけでも逃がして——」
「逃げたと知れたら、次に狙われるのはあんたらだ! 神殿相手に、どうやって逃げ切るつもりだよ!?」
「……っ、なんだその言い方は! こっちは仲間が罪人扱いされてんだぞ!?」
「巻き込まれたのはこっちだって同じだ! その女がここにいるせいで、俺たちまで魔女の仲間だと思われたらどうする!」
「そもそも、その娘がヴァレリー様のご不興を買ったからこんなことになったんでしょう!?」
「サロメアは魔女なんかじゃねえ!」
「罪もない女を魔女呼ばわりして差し出すのが、この国のやり方なのか!?」
「やめなよ! 今そんなことで揉めてる場合じゃ——!」
頭上では、一座の者たちと館の下働きたちが言い合っていた。
怒号が飛び交い、互いに声を荒げ合う。誰もが焦り、怯え、どうにかこの状況から逃れようとしていた。だが、その先にあるものは、どう転んでも絶望しかない。
仮にサロメアだけを逃がせたとしても、今度は彼女を逃した罪で、一座の者たちや館の人間が反逆者として捕らえられるだろう。このまま館に閉じこもっていたところで同じだ。門前を取り囲む神殿騎士たちは、今にも館へ踏み込んできそうな空気を漂わせている。逃げ場など、最初からどこにもなかった。
ヨハンにも、それはわかっていた。サロメアを引き渡すべきだ。それですべて終わる。それで、この場の誰もが助かる。
——わかっているのに。
それでもヨハンは、掴んだサロメアの腕を、どうしても離すことができなかった。
そんなヨハンへ向けて、フリッツが重く沈んだ声を落とした。
「……いい加減、その娘を引き渡しなさい、ヨハン。これは殿下の勅命だぞ。私たちのような平民に、何ができるというんだ!」
「ですが——」
「どのみち、今日で別れるはずだった相手だろう。何を迷う必要がある。彼女はこの館を出て、また旅に出た。そう思えばいいじゃないか!」
悲鳴のような声に、ヨハンは息を呑んだ。
すると今度は、下働きの男の一人が口を挟む。普段から何かとヨハンをからかっていた男だった。
「そうだぜ、ヨハン。お前がこの嬢ちゃんを嫁にでももらうつもりだったってんなら、俺だって味方してやりてえよ。でも、違うんだろ? その程度の相手、手放して何が悪いってんだよ!?」
「違っ——」
言われた言葉に、胸が引き裂かれるように痛んだ。喉元まで込み上げた言葉は、けれど声にならない。
その程度。その程度、なのか?
違う。ただ、自分は——
サロメアに、自由でいてほしかっただけだ。
この館にも、どこかの誰かにも縛られず、彼女にはこれからも、自分の知らない世界を旅していてほしかった。
それを語る彼女の横顔が、この世の何よりも美しいと思ったから。
だから何も告げず、別れを受け入れようとしていたのだ。
だが、これは違う。
ヨハンの脳裏に、先ほどの異端審問官たちの顔がよぎる。
怯えと嫌悪、そして憎悪を滲ませながら、サロメアを魔女だと断じた者たち。
あんな目をした人間たちに、彼女を引き渡せるものか。
そんな、自由に空を舞う鳥の羽根を捥ぐような真似——そんなことを、自分が許していいはずがなかった。
「——使用人専用口」
張り詰めた空気の中、下男の一人がぽつりと呟いた。
彼もまた、よくヨハンに声をかけてくる者たちの一人だった。
落ちた言葉に、誰もが怪訝に顔を上げる。
「使用人専用口なら、騎士どもにも見つからずここから出られるんじゃねえか? ほら、昔使ってた、西館のやつだ」
ハッとした。
確かに、この館にはもうひとつ出口がある。老朽化を理由に、今ではほとんど使われなくなった小さな通用口。かつて使用人専用として使われていた、西館の外れにある古い出入り口だ。
たしかにあそこなら、正門も裏門も通らず、そのまま街へ抜けられる。騎士たちの目を掻い潜れるかもしれない。
「ま、待て! お前まで魔女を逃がすつもりか!? そんな真似をすれば、神殿に突き出されるぞ!」
別の男が青ざめて叫ぶ。
だが、提案した下男は苦い顔のまま首を振った。
「そんなつもりはねえよ! いいか、これはただの独り言だ。俺たちは、もう使われてねえ使用人用の出口なんざ忘れてた。誰も、そこが使われるなんて思ってなかった」
「何を……」
「俺たちは魔女を必死で探した。館中至るところ。でも、見つからなかった。あちこち探し回って、それでようやく——使用人専用口が使われてたことに気づいた」
「……っ!」
冷や汗を浮かべながら、男は続けた。ヨハンには一瞥もくれず。だがその言葉の意味は、明言されずとも痛いほど伝わった。
掴んでいたサロメアの腕を、ぎゅっと握り直した。項垂れていた顔をあげる。
「……すまない。恩に着る」
「ちょ、ちょっと、ヨハン……!?」
——そうして返事も待たず、ヨハンはサロメアの腕を引いて駆け出した。
目指すのは西館、旧使用人用出入り口だ。
「ま、待て、ヨハン!」
「お前、何を考えて——!」
背後からフリッツたちの慌てた声が飛ぶ。
だが、それを掻き消すように、一座の者たちと、下男の声が重なった。
「サロメア! 絶対に逃げ切れよ!」
「いいか、俺たちは何も見ちゃいねえ! これから先のことも、何ひとつ知らねえからな!」
その叫びに背を押されるように、ヨハンはただ前だけを見て走った。




