7
「ヴァ、ヴァレリー殿下……!?」
突如として現れた館の主に、使用人たちは慌ててその場に跪いた。
誰もが一様に焦り、顔を強張らせる。当然だ、ここは下働きの者たちが行き交う裏廊下——館の主人、それも王族が足を踏み入れるような場所ではない。
張り詰めた空気の中、冷や汗を滲ませながらフリッツが前へ進み出た。
「で、殿下。こ、こんなところへ、いかがなされましたか。まだ広間にはお客様方も残っておられますでしょう……」
「俺の館のどこを歩こうが俺の勝手だ。それに、」
返ってきたのは、取り付く島もない声だった。
「俺が用があるのは、そこの女だ」
「……え?」
フリッツの戸惑いなど意にも介さず、ヴァレリーはずかずかと廊下を進んだ。
赤いマントを翻し、そのままサロメアの前で足を止める。
見下ろすような視線をくれた後、不遜に口を開いた。
「女。お前は、先ほど舞っていた踊り子だな?」
「は、はい……」
「今宵の舞い、実に見事であった。余興程度と思っていたが、なかなかどうして、悪くなかったぞ」
「……それは、身に余るお言葉にございます」
サロメアはわずかに身を強張らせながら答えた。
戸惑いを隠しきれないその様子に、ヴァレリーは面白そうに目を細めると、そんな彼女の姿を上から下までじろじろと眺め回す。そして自身の顎を撫でながら「ふむ……」と呟くと、口元を愉悦に歪め、言った。
「喜べ、女。貴様に、我が城専属の踊り子となる栄誉をやろう」
傲然とした宣言に、誰もが目を丸くした。
王宮への登用? しがない旅芸人の女を?
使用人たちも、一座の者たちも、そう思って互いに顔を見合わせる。
だが、周囲の動揺など意にも介さず、ヴァレリーは続けた。
「王都へ来い。貴様のための舞台を用意してやる。そして——まずは今夜、俺の寝所で舞え。王子の寵を受ける栄誉、存分に味わうがいい」
空気が凍りついた。
当然のように言い放たれたその言葉、それはつまり、夜伽の命に他ならなかったからだ。
サロメアは目を見開き、言葉を失う。ヨハンもまた、背筋を冷たい汗が伝うのを感じていた。
誰もが固唾を飲んで見守った。それしかできなかった。ここにいるのは、下働きの使用人と、流れの旅芸人たちだけだ。王族の言葉に軽々しく口を挟むなど、それだけで不敬に値する。
「……恐悦至極にございます」
重苦しい沈黙の中、口を開いたのはサロメアだった。
彼女は一度伏せた目を静かに上げると、かすかに微笑み、
「……ありがたいお話ではございますが、私どもは根無しの旅芸人にございます。王宮のような高貴な場所は、私にはあまりに不相応かと」
——と、恭しく礼をとった。
「それに、私は一人で舞っているわけではありません。一座あってこその踊り子ですので」
丁寧に、礼を尽くして答えるサロメア。柔らかな声音だが、その中にははっきりとした辞意が滲んでいた。
その返答に、一座の者たちが目に見えて安堵した。ヨハンもまた、知らず詰めていた息をそっと吐き出す。
本来なら、たとえ愛人という形であろうと、王族に囲われるなど平民にとっては身に余る栄誉だろう。だが、サロメアの舞いがこの一座から失われるなど、それだけはどうしても想像できなかった。
「——ほう?」
サロメアの返答に、ヴァレリーはぴくりと片眉を上げた。
「一介の旅芸人風情が、何故断る。この俺が望んでいると言っているのだぞ?」
その声色は、怒りというより純粋な疑問に近かった。彼女の行動が、心底理解できないというように。
顎を撫で首を傾げるヴァレリーに、サロメアは首を垂れ謝罪する。
「申し訳ございません」
「貴様、己が何を辞しているのかわかっているのか? 王族の寵愛だぞ」
「はい。ですが——」
「舞台がいらぬというのなら、金か? 地位か? 望むものを申してみろ。貴様程度の女に与えられぬものなど、この世にそうない」
遮るように、ヴァレリーは言う。声には少しずつ苛立ちが滲み始めていた。空気がじわじわと冷えていく一方で、ヴァレリーの不機嫌は見る間に膨れ上がっていた。
妾腹とはいえ、父王に溺愛されて育った王子である。富も権力も、生まれながらに手の中にある。
そんな自分の誘いを断る? そんな経験、ヴァレリーには初めてのことだった。
……いや、違う。一度だけあった。記憶の底に黒髪の女を思い出して、ヴァレリーは「ちっ」と強く舌打ちをした。強いその音に、周囲がびくりと肩を震わせる。
「なんだ。その薄汚い旅一座に、よほど未練でもあるのか? 異国をふらふら流れ歩くより、王宮で舞う方が余程幸福だろうに」
吐き捨てるように言って、ヴァレリーはサロメアの背後に控える一座の者たちを見下ろした。冷え切った目だった。その視線に、サロメアはぴくりと眉を顰める。
それは明らかな侮蔑だった。
いや、ヴァレリーにとってはそうではないだろう。彼は純然たる事実しか述べていない。
旅芸人より王宮。流浪より王族の庇護。
それが絶対的な幸福だと、本気で信じている。だが、だからこそ、その言葉はサロメアにとって耐え難い愚弄だった。
衣装の裾を摘んだままの指先に、ぎゅうと力がこもる。
「宴に席も設けてやる。貴様だけが主役の舞台だ。衣装も装飾も、お前が最も美しく映えるよう整えさせてやろう」
「……」
「なんだ、これでも頷かぬというのか」
黙り込んだままのサロメアに、ヴァレリーは苛立たしげに腕を組んだ。声音が次第に荒くなっていく。
「拾ってやると言っているのだ。感謝こそすれ、断る理由がどこにある」
「貴様のような異国の娘、俺以外に誰が必要とする?」
苛立ちを隠そうともせず吐き捨てるヴァレリーに、それでもサロメアは何も返さなかった。ただ静かに目を伏せ、唇を引き結んでいる。
——と。不意に、サロメアの視線がわずかに動いた。
ちらり、目線だけでヨハンを伺う。
その小さな視線に、気づいたのはおそらく向けられたヨハンだけだ。胸がどくりと跳ねる。
だが、ヨハンが何をするより早く、ついに痺れを切らしたヴァレリーが、乱暴に髪を掻き上げ言った。
「ちっ——物珍しい異国の女だからとこちらが寛大に扱っていれば、つけ上がりおって」
「……ッ」
「来い、娘。その肌も、その身も、この俺が最も美しく飾ってやると言っているのだ」
「サロメア……っ!」
ヴァレリーは一歩踏み込み、サロメアの顎を掴んで無理やり顔を上げさせた。そのまま彼女の腕を引き連れ去ろうとする。
ヨハンは思わず声を上げた。周囲の使用人たちや一座の者たちもどよめき、空気がにわかにざわついた。
瞬間、
パンッ——
乾いた音が響き、一瞬で空気が凍りつく。サロメアが、ヴァレリーの手を振り払ったのだ。
誰もが息を止めた。王族の手を、平民の女が払いのける。それがどれほど危うい行為か、この場にいる全員が理解していた。
ヨハンもまた、サロメアへ手を伸ばしかけた姿勢のまま硬直する。
そんな彼へサロメアは一瞬だけ柔らかく笑みを向け——それからゆっくりとヴァレリーへ向き直り、はっきりと言葉を紡いだ。
「お言葉ですが殿下——私は、誰かの所有物になるために舞っているわけではありません」
揺るぎない声だった。
瞳はまっすぐにヴァレリーを見据え、そこには媚びも、恐れもない。
ヴァレリーは目を見開いた。
その言葉に、表情に、ふいに黒髪の女の姿がよぎる。
払いのけられた手がじんと熱を持った。
その熱にはっとして表情を歪め、ぎり、と奥歯を噛み締めた。
「……貴様、自分が誰に向かって口を利いているのかわかっているのか?」
ヴァレリーの声には、もはや隠しようのない怒気が滲んでいた。
王族の怒り。その気配に、周囲の者たちは思わず息を呑む。
だが、サロメアは眉ひとつ動かさない。真っ直ぐヴァレリーを見返したまま、静かに答えた。
「ええ。だからこそ、お断りしているんです。私は、神様にも王様にも、自分の人生を決められたくない」
そこまで言うとサロメアは、一度だけ目を伏せ息を吐いた。
そしてまた顔を上げ、はっきりと言い放つ。
「王宮に閉じ込められて、誰かの機嫌を取るためだけに踊るくらいなら——私は、野垂れ死んだ方がましだ!」
——強い声音だった。
この広い館ごと揺らすような、芯の通った声だった。
一同は呆然とする。
領主に対して、いや、この国の王族に対して向けるには、あまりにも不敬極まりない言葉。
だというのに、その場の誰もが彼女から目を逸らせなかった。
まるで舞台の中央に立つ踊り子を見るように。その一挙手一投足に魅入られるように。
誰もが、啖呵を切るサロメアの姿に圧倒されていた。
「……貴様」
異様な静寂の中、ヴァレリーだけが肩を震わせ呟いた。
「貴様貴様貴様貴様……! 誰に、誰に、誰に向かってものを言っている。誰が、口答えなど許した!」
わなわなと、低く唸るような声だった。
怒りで顔を歪めながらも、ヴァレリーは信じられないものを見るようにサロメアを睨みつける。
こんな、一介の旅芸人風情に。わざわざ、この自分が、声をかけてやったというのに。
これ以上ないほど譲歩し、望むものを与えると言ってやったのに。
それなのに、断るだと?
この高貴な手を振り払うだと?
それも、自分の領民たちの前で。この俺に、恥をかかせるだと——?
怒りに染まった目でサロメアを睨み据えたまま、ヴァレリーは強く吐き捨てた。
「下賤の身が、礼儀を教える必要があるらしいな。覚えておけ、踊り子。この俺様に恥をかかせたこと——必ず、後悔させてやる」
それだけ言い残すと、ヴァレリーは乱暴にマントを翻した。
苛立ちを隠そうともせず、硬い靴音を響かせながら廊下を去っていく。
青ざめた顔のフリッツだけが、慌ててその背を追いかけていった。
「あ、お、お待ちください、殿下……!」
取り残されたその場には、一瞬、水を打ったような静寂が落ちた。
だが次の瞬間には、堰を切ったようにざわめきが広がる。
「お、おい、サロメア! 大丈夫か?」「よくあんなこと言えたな、相手は王族だぞ」「なんで断っちまったんだよ。せっかく贅沢暮らしができる話だったのに」
一座の者たちは口々にサロメアを囲み、安堵したように肩を叩いたり、不安げに顔を見合わせたりしながら彼女へ言葉を投げかけ、
「ねえ……大丈夫なの?」「私たちにまでとばっちりが来なきゃいいけど……」
一方で、館の下働きたちは少し離れた場所から、おそるおそる様子を窺っていた。
それらを耳にしながら、ヨハンもまたサロメアへ歩み寄る。
「……サロメア。その、大丈夫か? 掴まれた腕は、痛まないか?」
自分でも情けないほど弱々しい声だった。
そんなヨハンにサロメアはくすりと笑い、「大丈夫さ。そんなヤワな体じゃないよ」とひらりと腕を持ち上げて見せた。
それでもなおヨハンの表情が晴れないのを見て、サロメアは少し困ったように肩を竦める。
「……あの王子様に何かされるんじゃないかって、心配してるのかい?」
図星を突かれ、ヨハンは言葉に詰まる。
そんな彼を見て、サロメアはあっけらかんと笑い飛ばした。
「大丈夫だよ。どうせ私たちは、明日にはこの街を発つんだからさ。この館や街から追い出されたところで、別に困りゃしないよ!」
本当になんでもないことかのようにそう言うと、そのままサロメアは自分を心配している一座の仲間たちの方へ跳ねて行った。
次々とかけられる声に笑って応え、いつもの調子で場を和ませていくその姿に、ヨハンは小さく目を伏せる。
胸の内にあるのは、言いようのない後悔と自己嫌悪だ。
何もできなかった。
サロメアがヴァレリーに絡まれ、彼女の大切にしているものを侮辱されているのにも。乱暴に顎を掴まれ、腕を引かれているのにも。
止めに入ることも、庇うこともできなかった。ただ、その場に立ち尽くしていただけだ。
それが悔しい。悔しいのに——
だけどそれは仕方がないことだと、どこかで思ってしまっている自分が、何より苦しかった。
「……ヨハンさん」
不意に背後から声をかけられ、ヨハンは顔を上げる。
そこに立っていたのは、一座の座長だった。
「すまないね。うちのが面倒を起こしちまって」
「いや……」
否定しかけた言葉は、最後まで形にならない。
座長は困ったように頭を掻き、それから小さく息を吐いた。
「サロメアはああ言ってるが、正直、俺は心配してる。……明日、出発の時刻を早めようと思うんだ」
その言葉に、ヨハンの胸が微かに軋んだ。
「別れの挨拶もろくにできないかもしれない。悪いな」
「ああ……いや、構わない。……出立の準備は、こちらでも急がせよう」
ヨハンは静かに頷いた。
座長はそれに右手を上げて応じると、彼もまたサロメアの元へ向かった。
明るい笑顔。和気藹々とした雰囲気を後ろから眺め——ヨハンの胸の奥には、拭いきれない不安が残り続けていた。
*
——領内、ヴァレリー私邸、私室。
重厚な扉の向こうからは、絶え間なく怒号と破壊音が響き渡っていた。
「あのクソ女、あのクソ女、あのクソ女……ッ!」
呪詛じみた声を撒き散らしながら、ヴァレリーは手当たり次第に室内の物を投げつけていた。
机を投げては蹴り、椅子を蹴飛ばしては踏みつける。
豪奢な絨毯の上には割れた花瓶の破片が散乱し、高級なクッションから飛び出した白い羽根が、まるで雪のように室内を舞っている。
「この俺に、この俺に、この俺様に恥をかかせるとは……! 下賤の民風情が、この俺に口答えなど……!」
ヴァレリーは荒々しく息を吐きながら、足元に転がっていた椅子をさらに蹴り飛ばした。
壁にぶつかり、ガアンと音を立てる。激しい衝突音に、部屋の隅で控えていた従者の肩がびくりと震えた。
『私は、誰かの所有物になるために舞っているわけではありません』
憤るヴァレリーの脳裏に、何度もあの踊り子の表情がよぎった。真っ直ぐに自分を見据え、恐れもなく言い返してきた褐色の娘。
その姿に、言葉に、別の女の面影が重なる。腹の奥がカッと熱を持った気がした。
「あの女も、あの女も……! 身の程知らずにも、この俺の慈悲を跳ね除けるなど。あってはならん。あってはならんことだ……!」
怒りに歪んだ顔のまま、ヴァレリーは爪が食い込むほど強く拳を握り締めた。
ぜいぜいと肩で息をしながら、低く唸るように吐き捨てる。
「おのれ、ただではすまさん……。野垂れ死んだ方がましだと言ったな……?」
その口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「ならば、本当にそう思うような目に遭わせてやる」
ぞっとするほど冷えた声音だった。
そしてヴァレリーは、部屋の隅で震えていた従者をぎろりと睨みつける。
「——おい」
従者がびくりと顔を上げた。逆らうことなど許さぬ口調で、ヴァレリーは命じる。
「神殿へ、使いを出せ」
夜はすでに、動き出していた。




