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「お、お待ちください殿下! まずはお部屋へご案内いたします。お荷物の整理もございますので——」
「はあ? そんなもの、荷運びにやらせればよかろう。俺の館を自由に歩いて何が悪い」
ヴァレリーは、居並ぶ使用人たちに一瞥もくれずに館に入ると、ずかずかと中を進んで行った。王都から同行していた護衛騎士にも、荷を抱える従者にも、振り返りもせず足を進める。遠慮のないその態度に、使用人たちは慌てて道を開けた。
だが彼のその態度に、騎士も、従者ももう慣れたものだった。彼は、不遜な道楽王子として有名だったからだ。
ヴァレリー・ルイ・フィリップ・サンクティアは、国王と、その愛妾の間に生まれたこの国の第七王子である。
老境に差しかかってから授かった子であったからか、父王は彼を殊のほか甘やかした。加えて、母の身分は高くなく、王位継承権も末席に近い。それゆえ他の王族たちから政敵として警戒されることも薄く、彼は幼い頃から周りにただただ持て囃されて育った。
欲しいと言ったものが手に入らないことはなく、いらぬと言ったものが目の前から排除されないこともない。彼にとって世界とは、自分の機嫌を損ねぬために整えられるものであった。
この領地もまた、そのひとつであった。大の宴好きである彼が、好きに遊べる館が欲しいと父王へねだったところ、王家直轄地であった領地の一部を彼に管理領として与えたのだ。
王都近郊に位置する、貴族たちの保養地。以来、社交シーズンともなれば、彼はこの地でたびたび宴を開いた。貴族や富豪を招き、酒やご馳走を振る舞った。楽団や芸人を呼び寄せ、気に入った女を侍らせた。
一方で、行政や日々の実務などには一切興味を示さず、そうした面倒ごとはすべて領主代行フリッツや館付きの文官たちへ押しつけていたのだが。
「それより、広間へ案内しろ。余興に呼んだ芸人どもはどこだ? 女はいるんだろうな?」
ヴァレリーは、足を鳴らしながら歩くと、フリッツを振り返ることなくそう尋ねた。どうやら宴の行われる大広間に興味があるらしい。その言葉に、フリッツはぎくりと肩を震わせた。
「か、会場はまだ準備の最中にございます。芸人たちも、最終調整のため練習部屋へ——」
「何?」
フリッツの言葉に、ぴたりとヴァレリーの足が止まった。振り返ったその顔には、露骨な不機嫌が浮かんでいる。
「俺が来るとわかっていて、まだ支度も終わっていないのか?」
「も、申し訳ございません……! もちろん宴までには間に合いますので——」
「言い訳はいらん。万が一にも不備があれば、それはこの俺様の顔に泥を塗る行為だと心得ろよ、フリッツ」
「は、はいっ……!」
高圧的なヴァレリーに、フリッツは深々と頭を下げた。その額には、うっすらと汗が浮かんでいる。
ヴァレリーはそんな様子を見ても気分を害した様子すらなく、むしろ当然の反応だと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「ふん……まあいい。おい、部屋へ案内しろ。侍女もつけろよ」
「はっ……!」
弱々しく従うフリッツを一瞥し、ヴァレリーはようやく自身の居室へと向かっていった。
与えられた部屋へ入るなり、彼は大窓を開き放つ。
風に吹かれながら外を見下ろし、独りごちた。
「着いたはいいが……宴まで暇だな。庭園でも散策するか、街に繰り出すか——」
眼下には、美しく整えられた庭園が広がっていた。
剪定された木々、色鮮やかな花壇、磨き上げられた白石の小道……自分の来訪に合わせ、庭師たちが総出で手入れしたのであろうことは一目でわかった。
自身のために民が働く。その事実が、ヴァレリーには心地よく、満足げに庭園を眺めた。
そのときだった。
庭園の片隅で、何かが動く影が見えた。
「……?」
なんとなく引っかかるものを感じて、ふと視線を向ける。
そこには、一人の女がいた。陽光の下、この国には珍しい褐色の肌の女が、庭の隅で誰かと笑い合っている。
「——おい、あれはなんだ」
ヴァレリーは、女を見下ろしながら、背後に控えていた侍女へ顎をしゃくった。
「え、ええと……あれは、か、下級文官のヨハンでございます」
「そっちではない、女の方だ」
「お、女……?」
苛立たしげに言葉を遮る。その声に侍女は慌てて窓際へ寄った。侍女の目線からは、窓に隠れて見えていなかったのだろう、庭園を覗き込んだあと、彼女は怯えたような声で続けた。
「あ、あれは……サロメア、と申します。余興のため招かれた、旅芸人にございます」
「旅芸人……」
ヴァレリーは侍女の言葉を繰り返すと、しばし黙って窓の外を見つめた。
何度か瞬いたあと、「ふうん」とゆっくり口元を歪める。
「——なるほど。明日が待ち遠しくなる理由が、ひとつ増えたな」
そして、低く、喉を鳴らす。
宴の日は、すぐそこまで迫っていた。
*
そしてついに、宴の日が訪れた。
ヴァレリーが催す私的な宴……とはいえ、彼が宴に呼ぶような“親しい友人”など、ほとんどが貴族か、それに連なる富豪や権力者ばかりである。王都から続々と馬車が到着するたび、館の前では使用人たちが慌ただしく駆け回り、広間では料理人たちが最後の仕上げに追われていた。
怒号と指示が飛び交う中、ヨハンもまた、休む暇もなく館中を走り回る。
フリッツの補佐として来客対応に追われ、使用人たちへ指示を飛ばす。ようやく一息つけると思えば、今度は旅芸人たちから「あれが足りない」「これを用意してくれ」と呼び止められ、また廊下を駆ける羽目になった。
夜が近づいてくる。
やがて、招かれた客人たちのほとんどが会場入りを終えた頃——ヨハンは演目の最終確認のため、旅芸人たちの控室へと足を運んだ。
控室の中では、一座の面々が慌ただしく支度を進めている。
その中でも一際忙しなく動く座長を見つけ、ヨハンは声をかけた。舞台袖までの導線、使用禁止の扉の説明、舞台のための最終確認を手早く済ませる。
その時だった。真面目な顔を突き合わせる彼らの元に、明るい声が飛び込んでくる。
「おや、ヨハンじゃないか! まだ仕事してるのかい?」
顔を見ずとも誰かわかった。サロメアである。
ヨハンは一度動きを止めると、呆れたようにため息をついた。そして声の方へ振り返りつつ、「こら、今大事な話をしているんだから——」と諌めようとして、
「宴の真っ最中だって言うのにしかめ面して。相変わらず真面目だねえ」
——息を呑んだ。
視線の先、笑顔で軽口を叩くサロメアは——見たこともない艶やかな舞台衣装に包まれていた。
金糸の刺繍が施された薄布を幾重にも揺れる。褐色の肌には淡く化粧が施され、耳飾りが灯りを受けてきらりと輝いた。
露出の多い衣装であることに変わりはない。だが、普段の奔放な服装とも、町娘の地味な装いとも違うそれは、まるで異国の神話から抜け出してきた踊り子のようだった。
「……」
声が出ない。言葉を失ったヨハンは、ただただ無言で彼女を見つめることしかできなかった。
そんなヨハンの様子に気づいて、サロメアはにやりと唇を吊り上げる。
「おや? なんだい。あまりの美しさに見惚れちまったかい?」
「なっ、そ、そんなことは……!」
慌てて否定するヨハンだったが、赤く染まった頬と、しどろもどろの態度では説得力などない。そんな彼を揶揄うようにまたサロメアは一歩一歩とヨハンに近づく。
その様子を見た座長は、愉快そうに肩を揺らした。
「はは、お前たちは最後まで相変わらずだな」
「ちょ、笑ってないで、止めてくれ……! もうすぐ出番だろう!」
「うーん……いや、まだ少し時間はある。二人で話してくるといい。サロメアをよろしくな、ヨハンさん」
「えっ、お、おい……!」
面白がるように笑いながら、気を利かせて奥へ引っ込んでいく。
肩をポンと軽く叩かれて言われ、ヨハンは少したじろいだ。
揶揄うような声色に、残された二人はどこか照れたように互いから視線を逸らす。
「……準備は、その……もういいのか?」
先に口を開いたのはヨハンだった。
遠慮がちに聞かれ、サロメアは肩をすくめて答える。
「私は衣装さえ着れば、あとは身ひとつで踊るだけだからねえ。楽器や小道具を使う連中の方が大変さ。最後まで調律だの調整だの、ずっとやってるよ」
いつもの調子で答えるサロメアに、ヨハンは「そんなものか」と相槌を打つ。
それにしても、本番前だというのに、少しも緊張した様子がない。これが舞台慣れというものなのだろうか。自分などは、貴族相手に話すだけでもいまだに胃が痛くなるというのに。
感心したようにそう言うと、サロメアはぷはっと吹き出して、「そんな鉄仮面で、あんたも緊張なんかしてたのかい?」と声をあげて笑った。
「慣れじゃないかい? まあ、王族相手なんて滅多にないけどさ。貴族の宴に呼ばれたこと自体は初めてじゃないし」
「そういうものなのか……」
「庶民の踊りなんて、むしろ珍しがってくれて、案外いいお客さんだったりするんだよねえ」
「へえ」
そんなふうに、しばらく二人で談笑していると、ふと会話が途切れた。
気まずい沈黙が落ちる。ほんの少しの静けさの後、サロメアが神妙に口を開いた。
「……なあ、ヨハン。あんたも、見てくのかい? 私たちの舞台」
「ああ、宴の間は会場周辺に詰めているだろうし、見る機会くらいはあると思う」
「本当かい? よかった!」
その返事を聞いた瞬間、サロメアの顔がぱっと明るくなった。
よかった? 何がだ? そうと首を傾げるヨハンに、サロメアは少しだけ目を細める。
「だってこの宴が終わったら、もうお別れだろう? 私たち」
「——っ」
サロメアの言葉に、胸が大きく跳ねた。
ずっと前からわかっていた、だけど見ないふりをしていた事実。
「それならさ。最後に、あんたに見て欲しかったんだよ。私の舞いを。それが私の——生き様だから」
視線を動かせないままでいるヨハンに、サロメアは続けた。
柔らかな声だった。だけどどこか、意志のある強い口調だった。
真っ直ぐな瞳に見つめられ、ヨハンは何も言えない。その瞳から目を逸らせない。喉の奥が詰まり、胸の奥だけが熱を持った。
これから舞台に向かう彼女に、何を言うべきなのだろう。自分などに、何が言えるのだろう。
ヨハンは迷った。「……サロメア、」どうにかその名を呼んだ、その時だった。
「サロメア、時間だ!」
奥から座長の声が飛ぶ。そろそろ舞台袖に向かう時刻なのだろう、サロメアはそちらを振り向くと、「はーい!」と高く返事をした。
「それじゃあ、行ってくるね」
「待っ——!」
くるりと踵を返す彼女に、ヨハンは思わず手を伸ばす。
だが、その指先は空を掴んだ。
伸ばした声も、前に進む彼女には届かなかった。
一座の仲間たちと合流し、サロメアは楽しげに笑いながら控室を出た。
その背中を見つめながら、ヨハンはぎゅっと、拳を握り締めた。
——そうして始まった宴は、終始華やかな熱気に包まれていた。
磨き上げられた大広間には無数の燭台が灯され、金糸の刺繍を施した礼装の貴族たちが、葡萄酒の入った杯を片手に談笑する。楽団の奏でる優雅な音色が高い天井へ溶け、香辛料の効いた料理の匂いが広間を満たしていた。
そんな中披露された異国の旅芸人たちの舞台は、想像以上の喝采をもって迎えられた。
初めこそ、「旅芸人風情が」とでも言いたげに眉を顰めていた貴族たちも、曲が進むにつれ次第に身を乗り出し、最後には惜しみない拍手を送っていた。曲芸師の妙技に歓声が上がり、異国の楽器の旋律に感嘆が漏れる。そして何より人々の視線を攫っていたのは——サロメアの舞いだった。
舞台の中央、鮮やかな灯りを一身に浴びながら、彼女は自由に踊っていた。
薄布の衣装が翻り、褐色の肌が煌めく。伸ばされた指先ひとつ、振り返る仕草ひとつまでもが音楽と溶け合い、まるで彼女自身が旋律そのものになったかのようだった。
舞台袖に控えたヨハンは、その姿から目を離せなかった。
彼女がくるりと回るたび、長い黒髪が光を纏うたび、観客の空気までも色を変えていく。あれほど多くの人間の視線を浴びながら、それでもサロメアは少しも怯まず、ただ誇らしげに舞っていた。
最後の演目が終わると、広間は割れんばかりの拍手に包まれた。
サロメアは胸に手を当て、深く一礼する。そして顔を上げた彼女は、舞台の灯りの中で、心の底から満足そうに笑っていた。
その横顔を、ヨハンは最後まで見届けた。
*
「——お疲れ様」
舞台を終え、控室へ戻ってきたサロメアへ、ヨハンは静かに声をかけた。
頬には汗が滲み、呼吸もわずかに乱れている。それでも彼女は晴れやかな顔をしていた。
「ああ、ヨハン」
呼びかけに振り返った彼女へ、ヨハンは懐から白いハンカチを取り出して差し出した。
几帳面に折り畳まれたそれを見て、サロメアはふっと目を細める。
「また貸してくれるのかい?」
「ああ。汗を拭け」
「はは、ありが——」
が、受け取ろうとした彼女の手が、途中でぴたりと止まる。
不思議に思い顔を上げると、サロメアは「ダメだ、受け取れないよ」と呟いた。
「私たち、明日にはここを発つんだ。洗って返せない」
俯いたまま言う彼女に、ヨハンは小さく目を瞠る。
そして、ひとつ唾を飲み、「いい」と小さく返した。
「いい。返さなくていい。持って行ってくれ」
「え?」
サロメアが目を瞬く。
「でも、こんな高そうなもの」
「構わない。君に——サロメアに、持っていてほしいんだ」
「……」
その言葉に、サロメアはゆっくりとハンカチへ視線を落とす。そこで初めて、白布の端に小さな鳥の刺繍が施されていることに彼女は気づいた。
以前貸された無地のものとは違う。これは、最初から彼女へ渡すために用意されたものだった。
サロメアはハッとしてヨハンを見上げる。
ヨハンは、ただ静かに、まっすぐ彼女を見つめ返している。
その視線に耐えきれなくなったように、サロメアは少し震える手でハンカチを受け取った。
「……ありがとう。大切にするよ」
掠れた声だった。金の瞳がどこか潤んで見えた。
その言葉に、表情に——ヨハンは胸が締め付けられるような思いがした。
明日になれば、二人の縁も切れる。そんなことは、最初からわかっていた。
館勤めの文官と、自由に世界を羽ばたく踊り子。本来なら、交わることすらなかった相手だ。
だから、別れを惜しむなどおかしい話だ。
出会ったばかりの頃など、一刻も早く去ってくれとすら思っていた。
だから、胸が痛むなどおかしな話なのだ。
控室には、舞台の成功を祝う一座の歓声が響いていた。
「見たか今の拍手!」「俺への歓声が一番大きかったな!」「貴族ども、目ぇ丸くしてやがったぞ」「酒だ酒! 今日は飲むぞ!」
興奮冷めやらぬ彼らの様子に、だけどもヨハンはまだどこか夢の中に立っているような心地がしていた。
明日になれば、彼らもまた、この地を去る。
その惜別すら感じさせず、彼らは笑う。
騒々しい空気の控室に、フリッツが不意に顔を出した。
「皆さん、本当に素晴らしい舞台でした。殿下も大変満足されておりましたよ。酒も用意させていますから、どうか今夜はゆっくりお休みください」
人の良い笑みを浮かべるフリッツに、一座の者たちは嬉しそうに礼を返す。
ヨハンとサロメアも顔を見合わせ、小さく頷き合った。
そうして一座の者たちと談笑しながら、控室を後にした——そのときだった。
「——こんなところにいたのか。異国の踊り子よ」
低く、愉悦を帯びた声が廊下に響いた。
瞬間、楽しげだった空気が一変、誰もが凍りついたように静まり返った。
息を呑み、恐る恐る声のした方を振り返る。そこに立っていたのは——
「喜べ、女。貴様に、我が城専属の踊り子となる栄誉をやろう」
——わずかに癖のついた紫の髪。豪奢な衣装を纏い、不遜な笑みを浮かべるその男。
ヴァレリー・ルイ・フィリップ・サンクティア。
その男が、廊下の奥でこちらを見下ろしていた。




