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それからというもの、二人の距離は、驚くほどあっさりと縮まっていった。
相変わらずサロメアは、ことあるごとにヨハンを呼びつけた。休みを見つけては美味しい飯屋に連れて行けと袖を引き、街を見たいから案内してくれと当然のようについて回る。
それに応じるヨハンの態度も、以前のものよりずっと柔らかいものになっていた。「観光案内など得意ではない」と眉を顰めながらも、結局は彼女に言われるがまま共に街を歩いた。
幼い頃から見慣れた石畳の通りや、よく足を運ぶ古書店、焼き菓子の美味い露店——何も珍しいことなどない、どこにでもある光景に、それでもサロメアは目を輝かせた。いつか彼女の舞いを囲んで手を叩いていた街人とすれ違い、また舞いをねだられることもあった。
また仕事が滞る。今日もまた礼拝に行けなかった。それなのにヨハンは、それを煩わしいと思うことはなかった。
色々な話をした。
お互いの生い立ち、仕事のこと。好きな食べ物や、苦手なもの。
普段は仕事のためこの領主館から出ることもなく、休日があればほとんど教会で祈って過ごすとヨハンが言ったとき、サロメアは目を丸くして驚いたあと、大きく声を上げて「あんた、本当に筋金入りだねえ!」と笑った。笑われたヨハンは不満げに眉根を寄せたが、不思議と腹は立たなかった。
サロメアもサロメアで、旅芸人なんて仕事をしているものだから、踊り以外にまともな趣味はないのだと言った。強いていうなら、旅の途中で訪れた街を歩き回ることだろうかと、サロメアは今まで行った国や街の話をヨハンに語ってくれた。
自分と同じ褐色の肌を持つ人々が暮らす、灼けつくように暑い南の国。
一年の大半を雪に閉ざされた、白銀の王国。
王が花嫁を選ぶために女ばかりを集めた街。
神を持たず、王すら存在しない土地。
この世界にある、ありとあらゆる国の話。ヨハンの知らない世界の話を、サロメアは彼に語って聞かせた。
「——旅に出て、自分がどれだけ狭い世界で生きてたか思い知ったよ」
月光の差し込む庭園の片隅で、サロメアはそう言った。
「もっと開けたところで踊りたい」などとわがままを言われ案内した場所だった。本来なら冬の花が咲くその場所は、この時期にはほとんど人も寄りつかない。だけども昼は穏やかな陽光が、夜は静かな月光が差し込むその場所をサロメアはいたく気に入り、ことあるごとにそこにヨハンを連れてはそこへ行き、こうやって二人の時間を過ごしているのだった。
「場所が変われば、常識も変わる。信じる神も、生き方も、全部ね。でもさ、不思議なことに、どこへ行っても変わらないものもあったんだ。——そのひとつが、この舞いだよ」
どんな国でも、人は歌うし、踊る。その形が違うことはあっても。だから自分たちのような旅芸人も、意外とどこへ行っても食いっぱぐれずに済むのだと、サロメアはそう語った。
「……想像もつかないな。俺は、この街から出たこともないから」
ヨハンはぽつりと漏らした。
彼は、生まれ育ったこの街から出たことなどない。いや、この街に生きるほとんどの人間がそうだろう。異国は遠く、馬車代だって安くはない。旅路には危険も伴う。街どころか、領主館と教会、それが自分の世界の大半を占めるヨハンにとっては、他の国の事情など夢のまた夢だった。
それを窮屈だと思ったことはない。
与えられた役目を果たし、誠実に生きることこそが正しい道だと、ヨハンはずっと信じてきた。今も、ずっと信じている。
どうして旅芸人などをしているのか、尋ねたこともあった。
するとサロメアは珍しく目を伏せて黙り込んでしまうものだから、ヨハンは大いに焦った。
異国の女が一人、旅芸人の一座に入る。そんなもの、人には言えぬ事情があってもおかしくはない。ヨハンは慌てて謝った。「すまない、無理に聞き出すつもりは——」狼狽えるヨハンに、だけども顔を上げたサロメアは、あっけらかんと答えた。
「実は、家出したところを座長に拾ってもらったのさ。どうにも両親とそりが合わなくてねえ」
「……家出?」思わず聞き返すヨハンに、「怒ったかい? こんなくだらない理由だなんて」とからりと笑うものだから、ヨハンは「君ってやつは……!」と憤った。
どうやらサロメアは、ほとんどヨハンと同じような家に生まれたらしい。厳格な父と母。職務に励み、真摯に神に祈ることを是とされて生きてきた。決して悪い人間たちではなかった。むしろ、真面目ないい人たちなのだろうと今では思う。
だけど幼いサロメアには、それがどうしても息苦しかった。
楽しそうなことに挑戦することも、好きな時に好きに踊るのも諌められた。それが彼女にはつらく、苦しく……ついに家を飛び出してしまったのだと彼女は言う。
「堅苦しい仕事に埋もれて日々を過ごすのも、見たことも会ったこともない神に祈り続けるのも、私には理解できなかった。……こんなこと、真面目なあんたの前で言うのもなんだけどね。そんな人生、真っ平御免だと思ったんだよ。私の人生は、私のもんだ。両親にも、神様なんかにも、決められたくなかったんだよ」
それを聞いた瞬間、ヨハンは返す言葉を失った。
彼にとって、神への祈りは生きる指針だ。だが目の前の女は、それを否定しながらも、誰より生き生きとして見えた。
同じような生まれで、どうしてこうも違うのか。考えるたび、ヨハンの胸の奥には言い様のない想いが広がった。
「——と言っても、神や信仰の全てを否定するわけじゃないけどね。『汝、人を愛せよ』だっけ。あれは、いい教えだよねえ」
「ああ、初代聖女さまのお言葉とされているものだ。俺にとっても、規範としている言葉だよ」
「ふうん……じゃあ、ヨハンは、私のことも愛してくれるのかい?」
「……っ!? ごほ、ごほっ、ちが、その言葉はそういう意味じゃ——」
「あはは、冗談だよ!」
サロメアはそう言って笑うと、月夜の庭へ跳ねるように駆けて行った。
月光にかざすように右腕を掲げ、そのままくるりと身を翻す。
「——それを聞いてね、思ったんだ。私の祈りはきっと、この舞いなんだろうって。肌の色が違っても、言葉が通じなくても、真摯に舞いを捧げれば誰もが拍手を送ってくれた。あれは、私の祈りが届いたんだって、ここに来てやっと気づいたよ」
そしてそのまま、軽やかに踊り出した。
月光に照らされたその下で、軽やかに跳び、しなやかに両手を伸ばす。
神になど祈らないと、彼女はそう言った。
だけどもどんな場所でも優雅に舞ってみせる彼女の姿は——聖女にも似た神聖さを帯びていると、ヨハンは思った。
サロメアの言うわがままも増えた。
「今の練習場所は狭いんだ、別の場所を用意しとくれよ。そうだね、ヨハン、あんたの執務室の近くがいいわ」
「お茶が飲みたいねえ。あんた、仕事で街へ行くんだろう? ついでに私も連れてっとくれよ」
「踊りの練習をするから見てておくれよ。え? 舞いの良し悪しなんてわからない? 馬鹿だねえ、あんたと一緒にいたいって言ってるんだけど、通じないかい?」
——だがそのわがままは、嫌がらせのようだった昔のものとは色を変えていることに、ヨハンもとっくに気づいていた。
領主館の裏手、仕事の合間を縫って集まった下働きの男たちに捕まり、揶揄われることも増えた。
「おお、ヨハンじゃねえか!」
「よう色男。お前、あの踊り子の嬢ちゃんとうまくやってるんだって?」
「ただの堅物だと思ってたが、なかなか隅に置けないねえ」
残った仕事を片付けようと、足早に廊下を歩くヨハンを捕まえては、彼らはそう小突いた。
「いやあ、あのヨハンに春が来るとはなあ」
「しかも、異国の別嬪さんだぜ」
「恋愛ってもんはわからんもんだなあ」
「こら、揶揄うな! 仕事中だぞ」
うんうんと訳知り顔で頷く下男たちにヨハンは声を荒げた。そして、トーンの落ちた声で否定する。
「それに……サロメアとは、そういう関係ではない」
目を伏せてそう言うヨハンに、男たちは首を傾げた。
「あんな毎日二人で会って。今更何言ってんだ」
「身請けでもしてやったらどうだ? あの娘も、それを待ってるだろう」
「……」
軽々とそう言ってのける下男たちに、ヨハンは無言で返す。
ヨハンの脳裏によぎるのは、月光の下、自分の旅してきた国々を楽しげに語るサロメアの横顔だった。太陽の下、鳥のように自由に舞う彼女の美しさだった。館という籠から出ることができない自分が、彼女を閉じ込めてしまうことなどできない。
黙り込んでしまったヨハンに、下男の一人が頭を掻いたあと、拳でポンと軽くヨハンの肩を叩いた。
「……まあ、いいけどよ。もうすぐ宴だ。後悔のない選択をしろよ」
その言葉に、ヨハンは返事もせずにまた廊下を歩き出した。
宴を間近に控えた領主館は、誰も彼も慌ただしく仕事に追われている。余興の出し物の練習もそろそろ大詰めだと、与えられた練習室に篭りがちな芸人の一座もその一部だ。
宴が終われば、また日常が戻る。ヨハンにとっても、サロメアも。
ヨハンは執務室に戻ると、静かに仕事を再開した。彼が戻ったことに気づいたサロメアがまた声をかけてくる。
「おかえり、ヨハン!」
——その笑い顔。決して交わるはずのなかった彼女のその表情に、胸の奥が妙に騒ぐ。
自分の中にすでに芽生えてしまったその感情。その名前を、ヨハンはもう、とっくに理解していた。
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「——皆、整列しろ! 領主様のお成りだ!」
「第七王子殿下のご到着にございます!」
——領主館、正門前。
晴れ渡る青空の下、衛兵の張り上げた声が鋭く響き渡った。その号令に合わせるように、門前へ並んでいた使用人たちが一斉に背筋を伸ばす。
正門から玄関口まで続く白い石畳の両脇には、侍女、下働き、料理人——庭師に至るまで、館の者たちがずらりと並んでいる。そしてその誰もが、緊張した面持ちで主の帰還を待っていた。
やがて、重々しい車輪の音と共に、一台の豪奢な馬車が門前へ滑り込む。
深紅と金で彩られた車体。王家の紋章が刻まれたその馬車の周囲を、白銀の鎧を纏った護衛騎士たちが取り囲んでいた。
馬車が止まり、従者が恭しく扉を開いた。そして、中から一人の男がゆっくりと姿を現す。その姿を認めた瞬間、居並ぶ使用人たちは一様に深く頭を下げた。
「……お待ちしておりました、殿下。領主館一同、謹んでお迎え申し上げます」
そんな中、列の先頭に立っていた男——領主代行フリッツ・ノイマンが、一歩前へ進み出る。深く頭を下げると、静かに挨拶の言葉を述べた。
「お部屋の支度も宴の準備も滞りなく——」
「——ふん、出迎えはこれだけか? この俺様が来てやったのだ、領民すべてを門前へ跪かせても足りぬくらいだろうに」
だが、フリッツの言葉を遮るように、男は不遜に鼻を鳴らした。
空気がぴたりと張り詰める。「も、申し訳ございません!」反射的に謝罪するフリッツを一瞥すると、心底つまらなそうに口を歪める。そのままマントを翻し、彼は悠然と館へ向かって歩き出す。
高貴な血筋を表す紫の髪と瞳。贅沢な刺繍をこれでもかと施した上衣。陽光を受けて揺れるマント。整った顔立ちに尊大な笑みを浮かべるその男は——
「まあいい、明日は宴だ。——俺を退屈させるなよ、下々」
——第七王子ヴァレリー・ルイ・フィリップ・サンクティア。
この領地の領主であるその男が、石畳を鳴らしながら、そう高らかに宣った。




