4
「……——さん。文官さん!」
その声に、ヨハンはハッと目を瞬いた。
ようやく我に返ると視界いっぱいにサロメアの顔が飛び込んできて、ヨハンは思わず大きくのけぞる。
「っ、な、なんだ!?」
「なんだ、じゃないわよ。ぼうっと突っ立ってるから、わざわざ声をかけてやったっていうのに」
そんな彼へ、サロメアはむっと眉を寄せた。
腰に両手を当て、呆れたような態度を作って続ける。
「まあいいわ。それよりあんた、いいの?」
「な、何がだ」
「礼拝。行くんじゃなかったのかい?」
「——え?」
サロメアの言葉に、間の抜けた声が漏れた。
その瞬間、ゴォン、と街中へ昼を告げる鐘の音が響き渡った。ヨハンの表情が固まる。
礼拝は通常、朝に行われるものだ。つまり、この鐘が鳴る頃には、すでに終わってしまっている。
「な……っ!?」
ヨハンは愕然とした。
この自分が、時間を忘れ祈りを疎かにしただと?
信じられず、肩を落とすヨハンに、サロメアは少しだけ気まずそうに頬を掻く。
「あー……悪かったね。引き留めちまって」
「いや……」
いつになく殊勝な態度のサロメアに、ヨハンは力なく首を振る。「留まると判断したのは俺だ」そう答えながらも、彼は内心で動揺していた。
気づけば、先ほどまであれほど賑わっていた人垣はすっかり消えている。裏通りに残っているのは、自分とサロメアだけだった。
どれほど長い時間、自分は呆然と彼女の舞いを見ていたのか。考えるだけで頭が痛かった。どこか気まずい沈黙が落ちる。
沈黙の中、ふと、サロメアの呼吸が少し乱れていることに気づいた。彼女の方へ視線を動かしてみると、肩が微かに上下し、額には汗も浮いている。
こんなに息切れするほど懸命に踊っていたのかと、ヨハンはどこか感心したような気持ちになった。対価を支払われての舞台ではない、ただ楽器の音に惹かれ気まぐれのように踊っていただけだというのに。
(本当に、踊ることが好きなんだな……)
そう思うと、相入れない彼女にも尊敬の念が湧いてくるような心地がした。
「……こちらこそ、すまなかったな。疲れているのに待っていてくれたんだろう。汗もかいている」
「え?」
ヨハンは、そう言うと懐からハンカチを取り出し、サロメアに差し出した。
几帳面に折り畳まれた白地のそれを、サロメアは少し目を丸くして受け取る。
そしてそれを静かに口元へと持っていくと、どこか照れたように視線を逸らした。
「……べ、別に。知り合いがぼーっと突っ立ってるのを放置して帰るのも、変だろう?」
「そうか?」
「というか、なんだい、調子が狂うね。いつもは私の顔を見ると、すぐ逃げたり、顔を逸らしたりする癖に」
汗を拭きながら、サロメアはじろりとヨハンを見た。
たしかに、ヨハンは普段からサロメアと顔を合わせたりわがままを押し付けられても、できるだけその姿を見ないようにしていたり、用事が終わればさっさと自分の執務室へ帰ってしまっていた。こうやってじっと彼女の舞いを見ることも、疲れた彼女に気を遣ってハンカチを差し出すことも初めてだ。
怪訝そうなサロメアにヨハンは、
「ああ、それは、いつもは肌が……」
——そこまで言って、言葉に詰まった。
しまった、と思う。慌てて口を手で押さえ、視線を逸らす。
しかし。
「……肌?」
ぴくり、と反応したのはサロメアだった。
彼女は一瞬だけ目を伏せ、自分の褐色の腕へ視線を落とす。
そして再び顔を上げると、じり、とヨハンへ歩み寄った。
「ふうん? いつもは、肌が——なんだい?」
「わ、こ、こら、必要以上に近づくな……!」
「へえ? なんで近づいてほしくないんだい?」
「そ、それは……!」
その声は、先ほどまでよりわずかに低い。
ヨハンは慌てて後退る。
だが、サロメアは逃がすまいとするようにさらに距離を詰めた。尚更ヨハンを取り乱させるように、冗談めかして肩口へ手をかける。
「はあ、踊ったら暑くなってきたし、この服も脱いじまおうかな」
「な!? そ、それ以上、何を脱ぐものがあるんだ! こら、やめなさい!」
「なんでやめなきゃいけないのさ」
「そんなもの、当たり前だろう!」
「何が当たり前なんだい!」
気づけば、二人の会話は口論になっていた。
過熱していく二人の声が、古い裏通りに響く。
そして、
「そんなに私の黒い肌が穢らわしいかい!?」
「女性がみだりに肌を露出するものじゃない!」
「「……ん?」」
——ぴたり、と。
重なった言葉に、二人同時に動きを止める。
ぽかんとした顔で互いに相手の顔を見つめると、
パチリ。
目を合わせあったまま、互いに小さく瞬きをした。
*
「あっはっはっはっは!」
——ところかわって、大通り、酒場。
昼間から賑わうその店の一角、小さな丸机を挟んだその先で、サロメアは腹を抱えて笑っていた。「こんなところで立ち話なんてつまらないよ」と、半ば強引にヨハンを連れ込んだのである。
「……それで? 女性の肌に見慣れてないから、恥ずかしくてまともに見れなかったって?」
言いながら、サロメアはふふ、くくく、と喉を鳴らした。
周囲では昼酒を楽しむ男たちが騒ぎ、皿のぶつかる音と笑い声が絶えない。その喧騒の中でも、サロメアの笑い声はやけによく響いた。
机に突っ伏しそうになりながら、彼女はさらに笑う。
「はっはっは! 文官さん、あんた、見た目によらず助平だねえ!」
「すっ……!? お、俺はそんなものではない!」
飛んできた言葉に、ヨハンは顔を真っ赤にした。思わず声を荒げる。
「き、君こそ、淑女があんな格好をして、恥ずかしくないのか!?」
「しゅ、淑女!? あははは! そんなこと、生まれて初めて言われたよ!」
「……っ!」
ヨハンが言い返すと、サロメアは目を丸くしたあと、ついに堪えきれなくなったように吹き出した。言い合いにすらならないその様子に、ヨハンは言葉をなくす。
向かい合って座る彼女は、先ほどから本当によく笑った。
何がそんなにおかしいのかわからず、ヨハンは不機嫌に酒を煽る。そんな彼を見てサロメアは更に「いい飲みっぷりだねえ」とケラケラ笑うのだった。
「なるほどねえ。文官さんは、こういう服が好みなわけだ?」
「好みだとか、そういう話をしているのではない。女性としての最低限の節度の話をしているんだ」
「節度! 私には程遠い言葉だよ」
ひとしきり笑ったあと、サロメアは頬杖をつきながら、自分の服の袖を摘んだ。
日に焼けて色褪せた木綿の上衣。何度も洗われたのだろう、少しくたびれた町娘の服だ。
今まで見たことのない彼女のその服装に、ヨハンは訝しんで尋ねた。
「そもそもどうしたんだ、その服は? 元から持っていたのなら、館でもそれを着るべきだろう」
「ん? ああ、あんたんとこのメイドさんが貸してくれたんだよ。私の服だと目立つから、街歩きする時はこっちを着てくれって」
「メイドが?」
「まあたしかにこの国じゃあ、この肌の色を見るだけで嫌な顔するやつもいるかって、おとなしく借りたんだけど……」
そこまで言うと、サロメアは、チラと伺うようにヨハンを視線だけで見上げた。
対するヨハンは葡萄酒を半分口につけながら、きょとんとした顔で答える。
「色? ……ああ、たしかに、そういう者もいるかもしれないな」
そうして、なんでもないようにまた酒を口にする。
平然とした口調。まるで、今までそれに思い至ることすらなかったとでもような態度にサロメアは、
「……ふ、ふふふっ。そうだねえ、そうなんだよ」
そう言って、くすぐったそうに笑った。
先ほどまでの腹を抱えるようなものではない。どこか拍子抜けしたような、それでいて少しだけ嬉しそうな笑い声だった。
そんなサロメアの様子に、ヨハンは首を傾げた。
今日の彼女は本当によく喋り、よく笑っていた。そして驚くほど豪快に酒を飲む。
元より遠慮のない女ではあったが、ヨハンの中での彼女は『気まぐれにわがままを言って自分を振り回す面倒な女』という印象が強かった。
なのに、今日は違う。
いつものように無茶を言って困らせることもなく、ただ楽しそうに笑っているだけだった。
「……何がそんなにおかしいんだ」
ぽつりと問うと、サロメアは酒杯を揺らしながら答える。
「いや? ただ、あんたのことを誤解してたなって思っただけさ」
「誤解?」
「ああ。でも、解けたからもういいんだ」
一人納得したように頷くサロメアに、ヨハンは意味がわからず眉を寄せた。
だが、何か面倒な勘違いをされていたらしいことだけは察し、「……それなら、まあ」と曖昧に頷いた。そんな彼を見て、サロメアはふっと目を細める。
「ふふ……あんた、意外と面白い男だね」
「……は?」
「ねえ、どうだい? このあと街を案内しておくれよ。ずっと館に籠りきりで、飽き飽きしてたんだ」
「案内?」
サロメアからの誘いに、ヨハンは即座に首を振る。
「断る。朝の礼拝に行きそびれたんだ。これから教会へ向かう予定だ」
「真面目だねえ……」
すげないヨハンの様子に、サロメアは呆れたように肩を落とした。
しかし次の瞬間、何か思いついたように顔を上げる。
「——そうだ。それなら私も教会に連れてっとくれよ!」
「……何?」
「せっかくこの国に来たんだ。聖女サマってやつに祈りを捧げてみるのも悪くない」
突然の申し出に、ヨハンは目を丸くした。
サロメアは異国の女性だ。この国で信仰されている聖女になど、興味の欠片もないだろう。そうでなくても、彼女の普段の言動から神への信仰心のようなものは感じられたことはない。
そんな彼女が、自分と共に、教会に?
戸惑うヨハンを置いて、サロメアは勢いよく立ち上がった。
「よし、そうと決まれば早速行こう!」
「は!? 本気なのか?」
「なんだい。不信心者はお呼びじゃないってのかい?」
「そういうわけではないが、しかし、君は——」
「——サロメア、よ」
食い下がるヨハンの言葉を遮流ように、サロメアは静かに言った。
「え?」
一瞬何を言われたのかわからず、ヨハンは聞き返す。
振り返ったサロメアは、先ほどまでの豪快さが嘘のように、どこか照れたような表情をしていた。
「……いつまでも君、君って。私にはちゃんと名前があるんだから、そっちで呼んどくれよ。ねえ——ヨハン」
——そう言って、小さく笑う。
いつもの騒がしさも、揶揄うような態度もない。まるで不意打ちのような穏やかな声音に——
どきりと、心臓が跳ねた。
何かを言おうとして、何も言えない。言葉を失うヨハンを放って、サロメアはくるりと踵を返した。そして、そのまま酒場の外へ駆け出していく。
「あ、おい、待て——————サロメア!」
反射的に追いかけながら、その名を呼ぶ。
駆け出した先、通りの真ん中で、やっと彼女はヨハンを振り返った。
軽やかな彼女の動きに一歩遅れて、黒の髪が風に揺れる。
燦々と降り注ぐ陽光の下——
サロメアは、とんでもなく美しい笑みで笑ったのだった。




