エピローグ
サンクティア王国、王都の地下深く。
知る人ぞ知るその闘技場は今宵も満員で、客席には“ショー”が始まるのを今か今かと待ち望む人たちの声で溢れていた。
だが——その熱気とは対照的に、舞台裏では別種の騒がしさが渦巻いていた。
「——グレゴール卿が、死んだ!?」
「ああ、檻の部屋の真ん中で、何かに喰われたみたいな姿で……うっ」
「馬鹿な。あんな場所で、どうやって……」
客席裏、裏方たちがそう声を上げる。
その表情は誰も、混乱、焦り、不安が滲んでいた。
先刻、この劇場のオーナーであるグレゴールが死体で発見された。
彼曰く“役者”たちを収めていた檻の部屋、厳重に管理されたその中央で息絶えていたという。まるで獣にでも貪られたかのように、その半身を失って。
そして、誰の仕業か、部屋の中の檻は一つ残らず鍵が開けられ、中には塵ひとつ残っていなかったと——
「まさか、魔物に喰われたんじゃないのか!? 檻の鍵はどうなっている!?」
「いや、さっき確認したが、そんな様子はなかった」
「それじゃあ尚更、どうして……」
「と、とにかく。衛兵に連絡を」
「馬鹿を言うな! ここが知られるぞ!?」
「そんなことより、今夜の“ショー”はどうするんだ? “見世物”たちも全員、逃げ出しちまってるんだろう?」
「……」
喧騒。怒号。慌ただしい足音。
焦る使用人たちに、客席からの声が届いた。
「おい、まだか!?」「今夜も楽しみにしてるわ!」
彼らの気持ちなど知らぬとでもいうように、浮かれた声が耳を打つ。
その姿を、足元からそっと見つめる視線がひとつ。
「……もういい。俺はここから出ていく」
ぽつりと、誰かが言った。
「な、何を言ってるんだ!?」
「動物たちが逃げ出して、表はもう騒ぎになっている。衛兵が来るのも時間の問題だ。このままここにいたら、俺たちも巻き込まれるぞ!」
「——っ」
その言葉が引き金だった。
一人、また一人と、出口へ向かって駆け出そうとする。
今夜の“ショー”も、今後の食い扶持も、彼らにはもう頭になかった。
その時。
——バンッ!
けたたましい音を立てて、扉が内側へと弾け飛んだ。
「衛兵だ! 全員、その場を動くな!」
鋭い声が、空気を切り裂いた。
逃げかけていた使用人たちは、その場で凍りついたように動きを止めた。
顔色はみるみるうちに青ざめていく。
もはや、逃げ場はなかった。
地下の闇に覆われていたはずの場所へ、現実の光が差し込み始めていた。
*
「衛兵だ! 全員、その場を動くな!」
その声を引き金に、地下は一時騒然となる。
「な、何事だ!」
「違う、私はただ招かれて——」
「くそっ! これはどういうことだ、グレゴール卿!」
客席にいた貴族たちもまた、狼狽を隠せず立ち上がる。
怒号と困惑が入り混じり、先ほどまでの優雅な空気は跡形もなく崩れ去っていた。
その様子を、舞台裏の片隅——積み上げられた木箱の影から、ひとつの小さな影が静かに見つめていた。
(……これで、おわり)
黒く、小さな塊だった。
床すれすれの位置から、騒ぎ立てる人間たちの足元を、ただじっと見上げている。
駆け回る足音が、絶え間なく耳に届く。
怒鳴り声。命令。悲鳴。
そのすべてを見届け、黒い塊はゆっくりと踵を返す。
(これで、ぜんぶ、ぜんぶ——)
そう思いながら、視線を上げる。
そこには、かつてセシルたちが囚われていた檻があった。
今はもう、空っぽのまま、口を開けている。
その内側を見上げた——その瞬間だった。
閃光。
前触れもなく、鋭い光が世界を切り裂いた。
次の瞬間には、身体が貫かれていた。
音もなく、ただ真っ直ぐに突き通された光の刃が、小さな体を地へと縫い留める。
(……この、ひかりは——)
遅れて、状況を飲み込む。
痛みはない。
ただ、視界が大きく揺れ、自分の体が光に溶けていくのだけが感じられた。
振り返る。
彼女の背後に立っていたのは——勇者ディーン。
ディーン・マリウス・ヴァレンティス。
神々しい神殿の紋章。揺るがぬ眼差しを携えて。
聖剣を構えた勇者が、そこにいた。
「……騒ぎを聞いて駆けつけてみれば、やはり死霊の仕業か」
低く、感情の抜け落ちた声が溢れる。
その言葉を聞きながら、小さな塊は、かすかに口元を緩めた。
消えゆく輪郭。
もうほとんど音にならない声で、彼女は言った。
『——そういえば、つたえてなかったね』
かすれるように、言葉を紡ぐ。
『あのとき、たすけてくれて、ありがとう』
言い終わると同時、黒い影は光にほどけていった。
言葉が届いたかどうかはわからない。
ただ、ほんの一瞬、勇者の目がわずかに見開かれたように見えた。
小さな子犬は満足そうに笑い——暗く閉ざされた世界から、静かに消えていった。
*
「——また勇者に邪魔されちゃったか。それほど神殿も本気ということかしらね」
夜の冷気を帯びた風が、ゆるやかに吹き抜ける。
地下闘技場——その建物の屋根の上から、ひとりの女が下界を見下ろしていた。
騒然とした灯りが漏れ出る入口では、衛兵たちが慌ただしく出入りを繰り返し、取り乱した貴族たちが次々と外へと導かれている。
ルナは、その光景をただ静かに眺めていた。
まるで、上演から終幕までを見届けた観客のように。
「まあ、いいわ。あの子も——ちゃんと終われたみたいだし」
ぽつりと呟き、息をつく。
その傍らには、一匹の黒猫。
月明かりを受けて光る毛並みを撫でようと、ルナは、いつものようにその背へと手を伸ばした。
だが。
猫はするりと身を引き、その手を避ける。
「あら」
わずかに目を細め、ルナは小さく首を傾げた。
「どうしたの? 今日はやけに素っ気ないじゃない」
もう一度手を伸ばそうとするが、猫は尾を揺らし、不機嫌そうに距離を取る。
その様子を見て、ルナはくすりと笑った。
「嫉妬かしら。ふふ……感情だって、人間の専売特許ではないものね」
そう言って、彼女は手を引いた。
無理に触れようとはしない。代わりに、ゆっくりと顔を上げる。
澄み切った夜空には、淡く光る月が浮かんでいた。
彼女はそれに向かって祈るように、静かに目を閉じ、胸の前で両手を組んだ。
「母性も、畏れも、憤りも——全て、全て」
静かな声で、言葉を紡ぐ。
彼女の閉じられた瞼の裏には、小さな影が舞台の上で踊る様が映っていた。
大切な誰かのために、怒り、声を荒げる様が。
目を開ける。
「大きくなったわね——リオ」
呟く声は、あまりにも穏やかで、優しかった。
まるで、それに応えるように、
わんっ。
——と、どこからか鳴き声が聞こえた気がした。




