7
——なつかしいにおいに、めがさめた。
もう、つめたくも、いたくもない。
そのかんかくがふしぎで、わたしはゆっくりと目をあける。
まっくろな“へや”に、わたしはいた。
まるで、よるの“うみ”みたい。
まっくろで、まっくらなそのなかで。
ふわふわ、ゆらゆら、うかんでいる。
「——それであなたはここに閉じ込められたのね。
冷たい檻の中で、力尽きるまで」
やさしいこえが、ふってきた。
かおを上げる。
よるのまんなか。
そこに、おんなの人が立っている。
あかい、あかい目で、わたしを見おろす。
それは、それは——
「……——、」
「……ええ、わかっているわ。ずっと、ずっと見ていたもの。
誰かを守ろうとしたその想いも。守りきれなかった、その悔しさも」
「……」
“まじょ”は、そう言って、わたしと目と目をあわせた。
やさしい手があたまをなでる。
きゅううん、と、のどがなった。
「……私のかわいい『踊り手』よ。
喰われても喰われても、尽きない想いがあるのなら力をあげる。
——あなたがその血を、捧げるのならば」
まっかな、目が、わたしを見つめる。
まっかな、かんじょうが、わたしのなかでばくはつする。
セシルのえがお。
セシルのこえ。
“ぐれごーる”の、わらいごえ。
——ああ。
わたしのこころのまんなかにいるのは、もう、『ママ』じゃない。
「さあ、幕を上げましょう——」
さしだされたしろい手に、かんがえるまもなく手をのせる。
夜の“まく”がひらいた。
***
「——この凛々しい牙、力強い目。実に、実に素晴らしい」
薄暗い地下の一角。鉄格子に囲われた檻の前で、グレゴールは恍惚として呟いた。
見上げるほど大きいその檻の中にいるのは、異形の魔物。
三つ首の黒い獣がグルグルと獰猛に喉を鳴らし、彼を睨みつけていた。
グレゴールは高らかに嗤う。
「ああ、最高だ。お前は、最高の“役者”だよ!」
グレゴール・フォン・クラウスは、このサンクティア王国の貴族である。
表向きは格式ある家柄の当主として振る舞いながら、その裏ではこの地下闘技場のオーナーとして君臨する男であった。
もともと彼は、珍しい魔物の蒐集家であった。各地から買い集め、捕らえ、時には違法な手段さえ厭わず、その手中に収めてきた。
始まりは、蒐集した魔物を親しい知人たちに披露したことだった。
信頼できる数人だけを呼んだ宴の余興として、檻の中で暴れる魔物に“餌”を投げ込み、その末路を見せたのだ。
結果は、予想以上の熱狂であった。
歓声。笑い声。興奮に歪んだ顔。
それらすべてが、グレゴールの胸を満たした。
(これだけでは足りぬ。もっとだ、もっと——多くの者を、愉しませねば)
——そうして彼は、この地下に密やかな劇場を築いた。
選ばれし者のみが招かれる“ショー”。
貴族や大商人、時には神殿の者まで。
国の中枢に関わる者たちが、ここでしか味わえぬ刺激に酔いしれ、彼の名は裏の社交界で静かに広がっていった。
「……それにしても。この前の“ショー”は、“魔女の犬“に台無しにされたな」
ふと、グレゴールは眉をひそめて言った。
「あれはあれで面白くはあったが……断罪劇としては上出来だった。しかし、次はあれを超えねばならん」
忌々しげに吐き捨てるが、その口元にはどこか歪んだ笑みが浮かんでいた。
観客は常に新たな刺激を求める。より残酷で、より鮮烈な光景を。
腕を組み、しばし思案する。
檻の中では、魔物がなおも激しく暴れている。その音が、思考の底に重く響いた。
そして、ふと。
「……そうだ、こんなのはどうだろう。今日の“ショー”は、ここにいる全員を戦わせようではないか」
思いついた考えに、彼は頬を歪めた。
愉悦の滲んだ声。
まるで名案とでも言うように、グレゴールは一人で頷く。
「一匹の屈強な魔物に喰らいつく多数の弱者——これならば、観客もさらに楽しめるだろう。そうだ、いつも一方的な蹂躙ばかりではつまらない」
高らかに笑い、グレゴールは“出演者”たちを捕らえている部屋へと移動した。
そして、従者に命じることもなく、自ら檻の錠へと手をかける。
「そうだ、間違いない……今日も大盛況だ」
言いながら、一つ、また一つと、鍵を外していく。
重く軋む音とともに、鉄の扉が開く。
暗がりの中から、気配が溢れ出した。
ぞろぞろと、檻の奥に潜んでいた姿が現れる。
「——さあ、今日の“主役”はお前たち全員だ!」
まるで舞台の上で語りかけるように、グレゴールは両手を広げる。
この“ショー”によって、彼は多くの貴族に顔を売った。名は知られ、誘いは増え、金もまた流れ込む。すべてが順調だった。
いっそ恍惚とした表情で、彼は笑った。
今宵もまた、舞台の幕が開かれる。
「——レディースアンドジェントルメン! 今宵もお集まりいただき、ありがとうございます!」
今宵も“ショー”の幕が開く。
喝采。
客席に居並ぶ貴族たちを眺め、グレゴールは背筋をぞくりと震わせた。
背中には獰猛な魔物の呼吸音。
興奮した観客の紅潮した頬。
数えきれぬほどの視線の中心で、グレゴールは朗々と声を響かせた。
「では、今夜の主役をご紹介致しましょう。今宵、踊り明かすのは——」
わずかに声を落とし、間を作る。
勢いよく振り返り、檻の方へと手を差し向けた。
「——こいつだ!」
指先が示す先。
特別に設えた大きな檻の舞台には、怯えた“役者”たちが居並ぶ——
はずだった。
「……え?」
思わず、間抜けな声が漏れる。
舞台の上、檻の中。
そこには、彼の言う“役者”の影ひとつなかったのだから。
(——いや、違う)
中に、誰もいないのではない。
自分が、中にいるのだ。
気づけばグレゴールは——檻の内側に立っていた。
「な、なんだ……!?」
グレゴールは、驚き狼狽えた。
ぐるり、視線を回しても、自分を囲うのは燭台の眩い灯りではない。
一面の、鉄の棒、棒、棒。
いつもは自分が他者を捕らえていたその檻に、今は自分が閉じ込められている。
「お、おい! これはどういうことだ!」
広げていた両手を引っ込め、叫ぶ。
表情を取り繕うことすらできず、両手で檻を掴んだ。
そんなグレゴールを見て、観客はわああっと歓声を上げた。
(何を笑っているんだ、こいつらは。トラブルが起きているんだぞ!?)
そう思い、また声を上げようとした、
その時。
——ずしん。
音がして、振り返る。
眼前。
すぐそこに、三つ首の黒い魔物が立っていた。
喉を鳴らし、ゆっくりと唸り声をあげている。
その眼が、確かにこちらを捉えていた。
「は……?」
声が引き攣る。
理解が追いつかない。
状況が、現実として受け止められない。
その一瞬の隙を、魔物は見逃さなかった。
「グルワアアアアア!!」
咆哮とともに、巨大な影が跳びかかる。
「ぎゃああああ!」
悲鳴を上げ、必死に身を翻す。
しかし鋭い爪が腕を掠め、皮膚を裂いた。熱を帯びた痛みが一瞬遅れて襲いかかる。
よろめき、足をもつれさせて転倒する。
次の瞬間には、重い体がのしかかっていた。
「やめろ、やめ……ぐわあああっ!」
肩に牙が食い込む。
骨を砕くような圧力とともに、肉が引き裂かれ、血が噴き出した。
転げるようにして逃れ、床を這いずる。
息は乱れ、視界は赤く滲んでいた。
「おい、助けてくれ! 誰か、誰か……!」
檻に縋って、助けを求める。
額にはダラダラと汗をかき、狼狽した顔は一気に老けたかのようにしわくちゃだった。
グレゴールのその姿に、歓声はさらに深まる。
「いいぞー!」
「こんなもんじゃないだろう!」
「もっと悲鳴を聞かせて頂戴!」
笑い声。拍手。興奮に満ちた叫び。
会場はいつものように、いや、いつも以上の熱気に包まれる。
(な……なんだこいつら。頭がおかしいんじゃないのか!?)
(人が——俺が、殺されかけているのだぞ!?)
グレゴールは憤慨する。
だが、誰も応えない。
観客は笑い、手を叩き、口笛を吹いた。
喝采が彼を包む。
「——おい、警備兵! 誰かいないのか! 早くここから出せ! こいつを引っ込めろ!」
痺れを切らして、叫ぶ。
だが、兵はそんな叫びも聞こえないかのように、大きな扉の前にスンと立つ。
「おい、そこの! ◯◯男爵、貴様には先の件で便宜を図ってやっただろう!?」
縁の深い男爵も伯爵も、神官も商人も——
誰一人彼のために動こうとしない。
あるのはただ、愉悦に歪んだ顔、顔、顔。
その表情を見て、恐怖が、遅れて全身を侵食する。
「グルワァアアッ!!」
「うわああああッ!」
振り下ろされる腕。
衝撃に弾き飛ばされ、背中から檻に叩きつけられる。鉄が軋む音が響いた。
肺から空気が吐き出され、掠れた呼吸が漏れる。
「……ち、ちがう……違う……!」
這いずりながら、必死に首を振る。
「これは、こんなのは、間違いだ……! 私は……私は、“餌”じゃない……!」
声は震え、もはや形を保っていなかった。
魔物は止まらない。
ゆっくりと、確実に距離を詰める。
逃げ場など、どこにもないと知っているかのように。
「ぐわああああっ!」
再び牙が振るわれる。
そのたびに、歓声が大きくなる。
拍手が、鳴り止まない。
——見ている。
——見られている。
その視線が、ふと歪む。
悦楽に歪む顔が、どこかで見たものへと変わっていく。
恐怖に引きつった顔。
涙に濡れた瞳。
そうそれは——かつて自分が、この大きな檻に閉じ込め、
その中で逃げ惑い、喰われていった“役者”たち。
「……ぁ、」
理解が、追いつく。
追いついてしまう。
自分が、何をしてきたのかを。
自分が、今、どこにいるのかを。
眼前の魔物が、三つの口を大きく開いた。
六つの目が、同時にこちらを見据える。
逃げる力は、もう残っていない。
ただ、目を見開いたまま。
グレゴールは、その命を終えた。




