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——愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる
愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して愛して
愛し愛し愛し愛し愛し愛し愛し
愛愛愛愛愛愛愛愛愛……
——ぐわんっ。
溢れんばかりの感情を直接脳髄に叩きつけられ、ノラは目を覚ました。
(な、に、これ……!?)
胸の前で両手を握りしめたまま、ノラは瞠目する。
目の前に広がるのは雨の降り注ぐ灰色の街並みではなく、四方を夜に囲まれた空間だった。
耳を打つ雨音は消え、寒さも痛さも、息苦しさももう感じない。
月の光が溶けては現れ、愛の言葉が耳元で響いたかと思えば次の瞬間には遠くに離れていく。
耳鳴りのような感覚。
頭に響くのは愛、愛、愛、愛愛愛愛愛愛愛。
明滅を繰り返す世界の中、頭に響くのと同じ声が、唐突に場を支配した。
「——それであなたは捧げられたのね。
血の一滴まで、この街に流して」
夜空に浮かぶ月のような静謐な声。
ハッと目を見開くと、ノラは夜の空間で静かに立ち竦んでいた。
眼前で優しくそう言うのは、長い黒髪の女。
夢と現の狭間、その中心で、足元に黒猫を連れた一人の女が、闇に浮かぶようにして座っていた。
「——あなたは、誰?」
言いながら、ノラは言いようのない既視感に襲われた。
ぐわん、ぐわん。何度も頭が傾く。
この影を、気配を、自分はたしかに知っている。
「私は魔女よ。あなたの願いを、叶えに来たの」
戸惑うノラを尻目に、魔女は静かに笑って言う。
その言葉にノラは尚更戸惑った。
「願い……?」
それはノラにとって、いつだってダリオのためにあったものだ。
ダリオの願いが叶うようにと、祈り、己を捧げてきた。
その願いを、この魔女は叶えるという。
それでは、自分の願いとは、一体——
「あら。自分のための願いすら思いつかないのかしら?
私の愛しい『踊り手』よ。
あなたがここに辿り着いたのなら、きっと心のどこかにそれはあるはずだわ」
魔女はそう言うと、ふわりとノラの目の前に降り立ち、紅い瞳を静かに細めた。
「捧げることでしか愛を知らなかったのでしょう。
だけど愛するだけが愛じゃない。
美しいだけが人ではないのと同じように」
血を塗り固めたような瞳が、深く笑みを作る。
ぐわん。
ノラはまるであの儀式の場にいるような感覚に陥った。
「捧げても捧げても、報われなかったその想い。ならば今度は、あなたのために使いましょう。
——それでもその血を、捧げるのならば」
だけどその胸を満たす感情は、もうあの時のようなものではなかった。
誰かを想う純粋な光ではない。どろどろと蠢く醜い感情が、血のように彼女の心を巡り行く。
ノラの腕の傷から、赤い血が滴り始める。
夜を染めるその赤は、もう誰にも消費されたりしない。
「あなたの心のままに踊るため。
さあ、幕を上げましょう——」
何が起きているのか、わからない。
ただ、何か大きなものに触れてしまったような感覚だけがあった。
言葉にならない何かに呑み込まれる。
それすらノラの激情の一部だった。
夢は、そこで流れ落ちた。
***
ダリオ・コルヴィは、はるか西方の国の商人の子供として生まれた。
貧乏商人の四男だった彼は店を継ぐことはできず、かといってどこかに働きに出るのも好まず、若いうちから家を飛び出し旅商人として各国を巡っていた。
そのうち辿り着いたサンクティア王国で、縁を得て小さな店を持つことになる。
ようやく掴んだ自分だけの城。
ここから自分の人生が始まるのだと思ったある日、ダリオはひとりの子供を拾った。
ノラである。
開店初日、店の前で倒れていた子供。それを拾ったのは、決して善意からなどではなかった。
ただ単に、商売の邪魔だと思ったから。次に、これから商売を始める自分にとってちょうどいい小間使いになると思ったから。
そう考え、ダリオはノラを店へと引き入れた。
「働かざるもの食うべからずや」
そう言って、食事と寝床だけを与え働かせた。
給金はない。
こっちは命を救ってやったのだ、あっちも命尽きるまで自分のために働いて当然だと、そう思っていた。
そのうち聖女の力を耳にし、ノラを神殿にやるようになった。
少なくない金を包んだが、本当に奇跡の力などがあるのなら安いものだ。
そのおかげか、それとも自分の商才か。一時、店の売上は目に見えて伸びた。
だがそれも長くは続かず、すぐに経営は立ち行かなくなった。
客足は鈍り、噂は悪く広がり、積み上げたものはあっけなく崩れていく。
そのたびに、ダリオの怒りはすべてノラに向かった。
あの娘が余計なことを言ったから。
あの娘が変な願いをしたから。
ダリオはそう信じて疑わず、何度もその拳を落とした。
やがて店まで差し押さえられ、ノラを売ることまで考えた。
だが、逃げられた。
——あの娘、拾ってやった恩も忘れて逃げるのか。
その一心で必死に追いかけ、衛兵に突き出そうとまでした。
ただダリオの胸を支配するのは、彼女への強い恨みだ。
理屈もなく膨れ上がったその感情のまま、拳を振り上げた。
石畳を染める血を見て、ダリオは思った。
清々する、と。
厄介なものがようやく消えたのだと、心の底からそう思った。
その後も、衛兵に事情を問い詰められ面倒な思いもしたが、ノラが魔女と通じていたということにされ放免となった。
おそらく、何度も通っていた血の儀式のことだろう。
(なんでワシが面倒に巻き込まれなあかんねん。くたばっても迷惑なやっちゃ)
それでもなお苛立ちは燻り続ける。
商品すら無くなってしまった空っぽの店内が、尚更彼の心を刺激した。
この店に自分がいられるのももう後少しだ。
これからどうすればいいのか。どこに行けばいいのか。
考えようとしても、頭は重く、思考はうまくまとまらない。
(……明日こそ、どうにかせなあかん)
そう思いながら、ダリオは薄暗い部屋の中で横になり、そのまま意識を手放した。
——翌朝、ダリオは騒がしい声に叩き起こされた。
「おい、まだか!」
「早く開けてくれ!」
ドンドンッと扉を強く叩かれる音に、重たい瞼をこじ開ける。
「……なんや、うるさいなあ」
苛立ち混じりに体を起こし、寝ぼけた頭のまま店の扉を開け——ダリオは目を丸くした。
店の前に、長い行列ができていたのだ。
人、人、人。通りの端まで続くほどの人だかりが、空っぽになったこの店の開店を待って並んでいる。
「やっと開いたか!」
「早くしろ!」
「順番だぞ!」
開いた扉に、人々は口々に叫んだ。
胸の奥がどくんと高鳴る。
その光景は、いつかこの店は繁盛していたころと同じ——いや、それ以上のものだった。
(あ、でも、売る品があらへん)
そう気づいたダリオは、わずかに焦り店内を見回した。
するとどうしたことだろうか。
昨日まで空だったはずの棚が、所狭しと商品で埋め尽くされていた。
異国の布。細工の施された器。それはたしかに、ダリオ自身が選び、仕入れ、この店に並べたものだ。
口元が震えた。
「……なんや。全部、悪い夢やったんや」
ぽつりと呟き、ダリオは扉を大きく開け放った。
「ええで! 順番に入れ!」
言葉と共に、客たちがどっと店内へなだれ込む。
押し合いへし合いながら、次々とダリオの前に並んだ。
「何が欲しいんや? 珍しいもん、いくらでもあるで」
喜びが隠しきれずそう言うダリオに、客たちはニコニコと笑みを湛えながら、言った。
「血を」
「血を、捧げてくれ」
「——は?」
何を言われたか分からず声を漏らすダリオに、今度は空の器が差し出される。
木製、陶器、金属。
形も大きさもばらばらだが、どれも中身は空っぽだ。
ざわり。空気が揺れる。
「欲しいのは、血だ」
「血をくれ」
「捧げてくれ」
「血を、血を、血を——」
口々に、同じ言葉が繰り返される。
次々に器が差し出される。
ダリオは思わず後ずさり、ひくりと口角を震わせた。
「な、何言うとんねん。冗談やろ……?」
笑い飛ばそうとするが、喉がうまく動かない。
客たちは誰も笑わなかった。
ただ器を差し出したまま、ジリジリとダリオを追い詰める。
「や、やめろや……寄るな——!」
どこか焦点が合わない瞳に見つめられ、ダリオは発狂して叫んだ。
それでも客たちは止まらず、波のように押し寄せてくる。
ダリオは逃げるように店奥へと駆け出した。
足がもつれる。気づけば背中は棚にぶつかっていた。距離が詰まる。
「来るな言うとるやろ! ッ!?」
押し返そうと腕を振り回すと、今度はその手を掴まれた。
何人もの手が一斉に伸び、ダリオの体を押さえつける。
「離せ! 離さんかい!」
もがくがびくともしない。
そのまま、無理やり床へと押し倒された。
「ぐあッ!」
明滅する視界に、キラリと光る何かが映った。
神殿の紋が入った、煌びやかなナイフだった。
「——あ゛ああっ!?」
次の瞬間、鋭い痛みが走った。
暴れるが、押さえつけられる。
腕に、何かが食い込んでいる。
刃だ。
誰かがナイフを自分の腕に突き刺したのだ。
「や、やめ、ああ゛あ゛あっ!」
振り払う隙もなく、今度は脚に痛みが走る。
そして次は腰、手のひら、肩——
次々に刃を突き立てられては抜かれ、また別の場所に刃を落とされた。
「あああああ! やめ、やめろやああああっ!!」
皮膚が裂ける。肉が開く。遅れて熱が溢れ出す。
ダリオは耐えきれず叫んだ。
だが、誰一人として手を止めない。
流れ出た血を、差し出された器が受け止める。
こぼれた分を、別の誰かがすくう。
「もっと」
「足りない」
「まだだ」
「血を」
囁きが耳元で渦巻く。
突き立てられる刃は止まない。
今、どこを切られているのか。それさえももうわからなかった。
「やめ……ろ……」
声がかすれる。
もはや拒絶する力すら残っていない。
店内がダリオの血で染まっていく。
朦朧とした意識の中、ダリオはかろうじて顔を上げた。
「血を、血を、血を——」狂ったように囁きながら自分を取り囲む人影の中に、見覚えのある姿を見つけた。
「……ノ、ラ……?」
「……」
痩せぎすの体。青白い肌の少女が、客たちの後ろにぽつんと佇んでいた。
ノラだ。
間違いない。
思わずこぼれ出た名前に、ノラは小さく瞬きをした。
瞬間、怒りが込み上げた。
「なんや……お前が、こいつらけしかけたんか!?」
痛みも忘れて、ダリオは叫んだ。
店内には溢れんばかりの客で埋め尽くされているのに、この世界にノラと二人きりのような感覚がした。
ノラは静かにこちらを見下ろし、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……私も、あなたのために、たくさん血を捧げたのだから——今度は、あなたが私に捧げて」
「は……?」
その言葉が落ちた瞬間、ダリオを囲んでいた客たちは更に熱気を増し、「もっと! もっと!」と叫び出した。
「血を! 血を!」声と共に再びナイフが振り下ろされる。
「あああ゛ッ!」痛みに、絶望に叫ぶダリオに、無数の手はそれでも止まない。
「や゛め……ろ……」
声はもう、形にならない。
全身から流れていく血が、空の器を一つ埋めてはまた別の器を埋めていく。
「血を捧げろ」
「お前も」
「願いのために」
「私たちの、願いのために」
客の言葉を、ダリオはもう聞き取れない。
ゆっくり遠ざかっていくノラの姿を、霞む視界の端で追うことしかできなかった。
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——気づけば、店内から人の気配は消えていた。
棚には、初めからそうだったように商品の一つもなく、床は汚れ壁の漆喰はところどころ剥がれ落ちている。
誰もいない、何もないその店の中で、
ダリオはひとり血を流し、静かに事切れていた。




