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血濡れの魔女は夜と踊る  作者: ウミノリリオ
第三章 代行少女は血を捧ぐ

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 子爵の言ったとおり、噂は瞬く間に王都中に伝わり、コルヴィ商会は急激に落ちぶれていった。

 客足は目に見えて減り、あれほど賑わっていた店内は嘘のように静まり返った。

 広げたばかりの支店はあっけなく閉じられ、雇い入れた従業員も一人、また一人と店を去っていく。

 気がつけば、店はかつての——それどころか、始めたばかりの頃よりも寂れていた。


 それでもダリオは、なけなしの金を握らせてノラを神殿へ向かわせた。

 一度自分に栄華を授けた聖女なら、この状況も覆せると思ったからだ。

 ノラもまた、疑うことなくそれに従った。

 ダリオの役に立てる方法が、それしか思いつかなかったからだ。


 だが、商会は一向に良くならなかった。

 学のないノラには何を願えばいいのかわからなかったからだ。

 品を増やすことも、人を増やすことも、すでに叶ってしまっている。店を大きくする願いも、かつてはたしかに叶った。

 では今、何を願えば、元に戻るのか。

 衰弱しぼんやりとした頭では、答えに辿り着けなかった。


 それでもノラは、ただ思いつくままに祈った。

 店が元に戻りますように、と。

 ダリオがまた笑ってくれますように、と。


 今日もまた、刃を腕に当てる。血を瓶へと落とし、祈る。

 何度繰り返しても状況は変わらない。血と金だけが減っていく。

 また、国中で起こった疫病や飢饉の影響で、商会はさらに傾いていった。


 極め付けは、聖女が魔女として処刑されたことだった。


 誰からも称賛を浴びていたあの聖女は、地方の豪商や貴族たちと癒着し、多額の裏金を受け取っていたのだという。

 このことに怒った民衆は、彼女の公開処刑に押しかけ罵詈雑言を投げつけた。

 ダリオもまた、やりどころのない怒りを客のいない店内で吐き出した。


「なんや、あの聖女、偽物やったんか! どうりでどれだけ金出しても商売が上手くいかんはずや! 」


 ダリオが怒鳴り声を上げる。拳が机に叩きつけられ、棚の上の小物がかたかたと震えた。

 ノラは敬愛する聖女が魔女だったなんて信じられなかったが、ダリオに反論することもできず、店の隅で小さく縮こまることしかできなかった。

 けれどダリオの怒りは、そんなこととは関係なく燃え上がっていく。


「そもそもや。あの話、誰が最初に言い出した?」


 低く、濁った声が落ちる。

 ノラの肩が、びくりと震えた。


「お前やろうが!」


 顔を上げるより早く腹を殴られ、ノラは思わず声を上げた。


「ぐぅっ!」

「ワシを騙しおって!」


 蹴り飛ばされ、床に転がる。

 息が詰まり、声が出ない。

 さらにもう一度、容赦なく足が振り下ろされた。


「偉そうに『奇跡や』とか言うてなぁ……! 結果がこれや! 店はガタガタ、金は消え、信用も地に落ちた!」


 ノラはただ、身を丸めることしかできなかった。

 違う。そう言いたかった。自分はただ、役に立ちたかっただけなのだと。

 だが、その言葉は喉の奥で絡まり、外には出てこなかった。


 それ以来、ただでさえ悪かったノラの扱いはさらに悪くなっていった。


 食事を与えられない日が増えた。

 少しでもダリオの機嫌を損ねれば、容赦なく殴られ、蹴られた。

 もともと痩せ細っていた体、散々血を捧げ頼りなくなった体が、さらに貧しくなっていく。


 日に日に悪化していく経営に、ついにダリオは店のものを質に入れ始めた。

「これで繋ぐしかないんや……」

 そう呟きながら出ていったかと思えば、さらに機嫌を損ねて帰ってくる。

「足元見やがって、クソが! 昔はへこへこ頭下げてきとったくせに!」

 ぶつけられない怒りを晴らすように、ノラの脇腹を蹴る。


「こんなことで終わってたまるか……」

 そう言って安酒をあおる夜も増えた。

 そして、飲み干した後には決まって、苛立ちの行き場を失った足がノラへと向けられるのだった。


 その頃にはノラはもう、まともに思考するのをやめていた。

 何度蹴られたのか。何日まともに食べていないのか。

 ただただ嵐が収まるのを、祈るような気持ちで待つだけだった。



 ついに売るものさえなくなくなり、ダリオは店ごと手放さなければならなくなった。

 今までは質に行くたび不機嫌を露わにしていたが、今回ばかりは堪えたとでもいうように、ただただ力無く項垂れた。


「……売るもん全部売って、最後は店かいな……」


 がらんとした店の中、弱々しく呟くダリオを見て、ノラの胸はぎゅっと締め付けられた。

 ここまでおとなしいダリオは初めてだったのだ。


「あ、あの……」


 何か言わなければと、ノラは口を開く。

 ダリオは俯いたまま、顔すら上げようとしなかった。


「げ、元気……出して、ください……。お店、なくなっても……昔、みたいに……旅をしながら、商売するのも……いいと、思います……」


 言葉を探しながら、必死に続ける。


「私、も、いますから……。だから、その……また、頑張りましょう」


 沈黙が落ちた。

 息を詰めて待つノラに、ダリオはゆっくりと顔を上げる。

 色を失った瞳と目が合って、ドキリと胸が跳ねた。

 「……せやな」ぽつりと呟く。


「せや……お前がおるやん」


 その言葉に、ノラはぱあっと喜んだ。

 ダリオが、自分を見てくれた。自分を、必要としてくれた。

 それはノラにとって、天に昇るほど嬉しいことだった。

 だが——


「お前のことも、売ったらええんや」


 続いた言葉に、ノラは絶望に叩き落とされた。


「——え?」

「ガリガリで見た目もそこまでようないけど、女の子供や、そこそこの値段にはなるやろ」


 意味がわからず聞き返す。

 それにも構わず、ダリオは据わった目でノラを見つめた。

 座り込んでいた椅子から立ち上がり、じりじりと寄ってくる。


 売る? 私を? ——どこに?


 ダリオの言葉に、色のない目に、遠い記憶が蘇る。

 自分を迎えに来た奴隷商から、必死で逃げた夜のこと。

 そして行き倒れた先で、他ならぬダリオが助けてくれたこと。


 それなのに、今度はそのダリオが、私を売るというの?

 あの、恐ろしい男たちの元に。

 私はまた、同じ運命を辿るというの——?


「……や、やめて、ください……」


 恐怖が蘇り、ノラは必死に首を振った。

 彼女が後ずさるだけ、ダリオもまた距離を詰める。


「嫌です……!」

「うるさいわ!」


 パンッ!

 はっきりと拒絶の言葉を口にした瞬間、強い衝撃が頬を打った。張り手と共に、ノラは床に倒れ込む。


「ぃ゛うっ!?」

「誰が拾ってやった思とんねん! 恩人が困ってんねんぞ、報いんかい!」

「うっ、あ゛うッ!」


 さらに足が振り下ろされる。

 その痛みで、ノラはようやく理解した。

 ダリオは本気なのだと。本気で、自分を売るつもりなのだと。


「……っ!」

「!? おいこら、どこ行くねん!」


 ノラはよろめきながら立ち上がると、そのまま店の外へ飛び出した。

 不意をつかれたダリオは、そう叫んで追いかける。

 外は雨が降っていた。冷たい水が容赦なく全身を打つ。


「待てや! どこ行く気や!」


 背後から怒鳴り声が追ってくる。

 ノラは振り返ることもなく、ただ必死で、必死で走った。


「逃げる気か、この恩知らず!」


 ダリオの声に、雨を掻き分け走るノラに、街行く人々は奇異の目を向けた。

 そんな彼らにも構わないのか、いっそ聞かせてやりたいのか、ダリオは雨にもかき消されないほどの大声で叫んだ。


「そうや、お前も魔女やったんやろ! せやから願いが叶わんかったんや!」


 魔女。

 その言葉に周囲はざわめいた。

 遠巻きにしていた者まで、ひそひそとこちらを見て何かを呟いた。


 違う、と言いたかった。

 でも、振り返る余裕も、声を上げる余裕もない。

 ただ走る、走る。

 水たまりがバシャリとはね、濡れた石畳で足が滑り転びそうになる。


「きゃっ……!」


 そのときだった。

 曲がり角から現れた影にぶつかり、ノラは弾かれるように後ろへよろめいた。


「うわっ!? あぶないだろう、何をしているんだ」


 そこにいたのは、鎧を着た衛兵だった。

 転びそうになったノラを咄嗟に支え、そう問いかけてくる。


 「た、助け……」ノラは思わず助けを求めた。

 だが、その声を遮るように、ダリオが追いついてきた。


「衛兵! そいつを捕まえてくれ!」


 割って入ってきた言葉に、衛兵は思わずノラの腕を掴んだ。

 ノラは焦る。


「その娘、そいつは魔女と通じとるんや!」


 荒い息のまま、ダリオは叫ぶ。

 「魔女?」衛兵が聞き返し、周囲がざわりとざわめく。


「ほんまや! こいつに騙されて、俺はあの魔女に結構な額を支払った!」

「おかげで店ごと潰れてもうた! 全部、魔女の呪いや!」


 ダリオの叫びに、雨の中足を止めていた人々の視線が集まる。

 それはもう好奇の目ではない。

 魔女に対する、それを崇拝する者に対する、紛れもない忌避の瞳だった。


「……とりあえず、話を聞こう」


 衛兵は、掴んでいたノラの腕をさらに強く引き寄せた。

「ち、違う……違います……! 私は何も——」

 このままでは捕まってしまう。そう思ったノラは、振り解こうと必死で否定する。

 その瞬間、


「うるさいっ!」

「きゃあっ!」


 強い衝撃が、頭を打った。

 ダリオだ。

 ダリオが、衛兵に捕まったままの自分を殴り飛ばしたのだ。

 身体が傾き、そのまま石畳へと叩きつけられた。

 鈍い音が響く。


「ぐうっ!」


 倒れた拍子に、排水溝の縁石へと頭を強く打ちつけた。

 割れるような痛みが走る。

 視界が赤く弾けた。


「ダ、ぁ……!」


 視界の端に血飛沫が飛び散る。

 熱い。

 立ちあがろうとして、手を動かそうとして、体がぴくりとも動かせないことに気づく。


「っ君、血が——!」


 衛兵の叫びで、やっと視界に映る赤が自分の流した血なのだと気づいた。

 あちこちで悲鳴が上がる。

 雨は止まない。

 むしろ強く強く降り注ぎ、石畳を染めるノラの血をさらに洗い流していく。


「詰所に運ぼう、誰か手を——!」


 頭の上で、人々がざわめく気配がした。

 声が出ない。体も動かない。

 思考が、靄に溶けていく。


 と、ダリオの声がすぐ近くで落ちた。


「ふん……タダ飯食らいの魔女崇拝者が」


 暗くなっていく視界の中、その言葉だけがやけに鮮明に聞こえた。


「お前のせいで商売上がったりや。そのままくたばったらええねん」


 そう言い残して、ダリオの気配はノラの元から去っていった。

 それはまるで、二人が初めて出会った日と、正反対のようで——


 ——足音が去って、ノラはやっと自覚する。

 この雨の中、自分はたった一人、取り残されたのだと。


 彼に拾われてから数年間、自分にできることはなんでもやった。

 寝る間もなく働き、給金など求めたこともない。

 言われるがまま神殿に通い、足りない血を何度も捧げた。

 不機嫌に任せ殴られ、蹴られても、一度だって文句も言わなかったのに。


 ただ役に立てるだけで良かった。

 その一心でこれまで尽くしてきたのに。

 彼にとっての私は結局、ここで捨ておける程度のものだった。

 最初から、ただの消耗品に過ぎなかったのだ。


 冷たい雨が打ち付ける。

 雨はノラの血を吸い、赤く赤く石畳を染め上げた。


 寒い。重い。

 視界に映る何もかもが近づいては遠ざかる。

 ぐわん。ぐわん。

 まるで聖女の儀式を受けた時のような感覚だった。

 だけどあの時のような神聖さは少しも感じられない。

 ただ、行き場のない恐怖と、ダリオに対する拭いきれない恨みだけが頭を支配する。


 あれだけ、あれだけ尽くしたのに。

 己の体を削ってまで、ひたすら彼のために祈り続けたのに。


 胸の奥に濁った感情が滲む。

 助けてくれた頃の純粋な感謝など、もうとっくに消え失せていた。

 雨は止まない。

 ノラは最後の力を振り絞り、両の手を胸の前で組み、静かに目を閉じた。


 雨は、止まない。

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