7
子爵の言ったとおり、噂は瞬く間に王都中に伝わり、コルヴィ商会は急激に落ちぶれていった。
客足は目に見えて減り、あれほど賑わっていた店内は嘘のように静まり返った。
広げたばかりの支店はあっけなく閉じられ、雇い入れた従業員も一人、また一人と店を去っていく。
気がつけば、店はかつての——それどころか、始めたばかりの頃よりも寂れていた。
それでもダリオは、なけなしの金を握らせてノラを神殿へ向かわせた。
一度自分に栄華を授けた聖女なら、この状況も覆せると思ったからだ。
ノラもまた、疑うことなくそれに従った。
ダリオの役に立てる方法が、それしか思いつかなかったからだ。
だが、商会は一向に良くならなかった。
学のないノラには何を願えばいいのかわからなかったからだ。
品を増やすことも、人を増やすことも、すでに叶ってしまっている。店を大きくする願いも、かつてはたしかに叶った。
では今、何を願えば、元に戻るのか。
衰弱しぼんやりとした頭では、答えに辿り着けなかった。
それでもノラは、ただ思いつくままに祈った。
店が元に戻りますように、と。
ダリオがまた笑ってくれますように、と。
今日もまた、刃を腕に当てる。血を瓶へと落とし、祈る。
何度繰り返しても状況は変わらない。血と金だけが減っていく。
また、国中で起こった疫病や飢饉の影響で、商会はさらに傾いていった。
極め付けは、聖女が魔女として処刑されたことだった。
誰からも称賛を浴びていたあの聖女は、地方の豪商や貴族たちと癒着し、多額の裏金を受け取っていたのだという。
このことに怒った民衆は、彼女の公開処刑に押しかけ罵詈雑言を投げつけた。
ダリオもまた、やりどころのない怒りを客のいない店内で吐き出した。
「なんや、あの聖女、偽物やったんか! どうりでどれだけ金出しても商売が上手くいかんはずや! 」
ダリオが怒鳴り声を上げる。拳が机に叩きつけられ、棚の上の小物がかたかたと震えた。
ノラは敬愛する聖女が魔女だったなんて信じられなかったが、ダリオに反論することもできず、店の隅で小さく縮こまることしかできなかった。
けれどダリオの怒りは、そんなこととは関係なく燃え上がっていく。
「そもそもや。あの話、誰が最初に言い出した?」
低く、濁った声が落ちる。
ノラの肩が、びくりと震えた。
「お前やろうが!」
顔を上げるより早く腹を殴られ、ノラは思わず声を上げた。
「ぐぅっ!」
「ワシを騙しおって!」
蹴り飛ばされ、床に転がる。
息が詰まり、声が出ない。
さらにもう一度、容赦なく足が振り下ろされた。
「偉そうに『奇跡や』とか言うてなぁ……! 結果がこれや! 店はガタガタ、金は消え、信用も地に落ちた!」
ノラはただ、身を丸めることしかできなかった。
違う。そう言いたかった。自分はただ、役に立ちたかっただけなのだと。
だが、その言葉は喉の奥で絡まり、外には出てこなかった。
それ以来、ただでさえ悪かったノラの扱いはさらに悪くなっていった。
食事を与えられない日が増えた。
少しでもダリオの機嫌を損ねれば、容赦なく殴られ、蹴られた。
もともと痩せ細っていた体、散々血を捧げ頼りなくなった体が、さらに貧しくなっていく。
日に日に悪化していく経営に、ついにダリオは店のものを質に入れ始めた。
「これで繋ぐしかないんや……」
そう呟きながら出ていったかと思えば、さらに機嫌を損ねて帰ってくる。
「足元見やがって、クソが! 昔はへこへこ頭下げてきとったくせに!」
ぶつけられない怒りを晴らすように、ノラの脇腹を蹴る。
「こんなことで終わってたまるか……」
そう言って安酒をあおる夜も増えた。
そして、飲み干した後には決まって、苛立ちの行き場を失った足がノラへと向けられるのだった。
その頃にはノラはもう、まともに思考するのをやめていた。
何度蹴られたのか。何日まともに食べていないのか。
ただただ嵐が収まるのを、祈るような気持ちで待つだけだった。
ついに売るものさえなくなくなり、ダリオは店ごと手放さなければならなくなった。
今までは質に行くたび不機嫌を露わにしていたが、今回ばかりは堪えたとでもいうように、ただただ力無く項垂れた。
「……売るもん全部売って、最後は店かいな……」
がらんとした店の中、弱々しく呟くダリオを見て、ノラの胸はぎゅっと締め付けられた。
ここまでおとなしいダリオは初めてだったのだ。
「あ、あの……」
何か言わなければと、ノラは口を開く。
ダリオは俯いたまま、顔すら上げようとしなかった。
「げ、元気……出して、ください……。お店、なくなっても……昔、みたいに……旅をしながら、商売するのも……いいと、思います……」
言葉を探しながら、必死に続ける。
「私、も、いますから……。だから、その……また、頑張りましょう」
沈黙が落ちた。
息を詰めて待つノラに、ダリオはゆっくりと顔を上げる。
色を失った瞳と目が合って、ドキリと胸が跳ねた。
「……せやな」ぽつりと呟く。
「せや……お前がおるやん」
その言葉に、ノラはぱあっと喜んだ。
ダリオが、自分を見てくれた。自分を、必要としてくれた。
それはノラにとって、天に昇るほど嬉しいことだった。
だが——
「お前のことも、売ったらええんや」
続いた言葉に、ノラは絶望に叩き落とされた。
「——え?」
「ガリガリで見た目もそこまでようないけど、女の子供や、そこそこの値段にはなるやろ」
意味がわからず聞き返す。
それにも構わず、ダリオは据わった目でノラを見つめた。
座り込んでいた椅子から立ち上がり、じりじりと寄ってくる。
売る? 私を? ——どこに?
ダリオの言葉に、色のない目に、遠い記憶が蘇る。
自分を迎えに来た奴隷商から、必死で逃げた夜のこと。
そして行き倒れた先で、他ならぬダリオが助けてくれたこと。
それなのに、今度はそのダリオが、私を売るというの?
あの、恐ろしい男たちの元に。
私はまた、同じ運命を辿るというの——?
「……や、やめて、ください……」
恐怖が蘇り、ノラは必死に首を振った。
彼女が後ずさるだけ、ダリオもまた距離を詰める。
「嫌です……!」
「うるさいわ!」
パンッ!
はっきりと拒絶の言葉を口にした瞬間、強い衝撃が頬を打った。張り手と共に、ノラは床に倒れ込む。
「ぃ゛うっ!?」
「誰が拾ってやった思とんねん! 恩人が困ってんねんぞ、報いんかい!」
「うっ、あ゛うッ!」
さらに足が振り下ろされる。
その痛みで、ノラはようやく理解した。
ダリオは本気なのだと。本気で、自分を売るつもりなのだと。
「……っ!」
「!? おいこら、どこ行くねん!」
ノラはよろめきながら立ち上がると、そのまま店の外へ飛び出した。
不意をつかれたダリオは、そう叫んで追いかける。
外は雨が降っていた。冷たい水が容赦なく全身を打つ。
「待てや! どこ行く気や!」
背後から怒鳴り声が追ってくる。
ノラは振り返ることもなく、ただ必死で、必死で走った。
「逃げる気か、この恩知らず!」
ダリオの声に、雨を掻き分け走るノラに、街行く人々は奇異の目を向けた。
そんな彼らにも構わないのか、いっそ聞かせてやりたいのか、ダリオは雨にもかき消されないほどの大声で叫んだ。
「そうや、お前も魔女やったんやろ! せやから願いが叶わんかったんや!」
魔女。
その言葉に周囲はざわめいた。
遠巻きにしていた者まで、ひそひそとこちらを見て何かを呟いた。
違う、と言いたかった。
でも、振り返る余裕も、声を上げる余裕もない。
ただ走る、走る。
水たまりがバシャリとはね、濡れた石畳で足が滑り転びそうになる。
「きゃっ……!」
そのときだった。
曲がり角から現れた影にぶつかり、ノラは弾かれるように後ろへよろめいた。
「うわっ!? あぶないだろう、何をしているんだ」
そこにいたのは、鎧を着た衛兵だった。
転びそうになったノラを咄嗟に支え、そう問いかけてくる。
「た、助け……」ノラは思わず助けを求めた。
だが、その声を遮るように、ダリオが追いついてきた。
「衛兵! そいつを捕まえてくれ!」
割って入ってきた言葉に、衛兵は思わずノラの腕を掴んだ。
ノラは焦る。
「その娘、そいつは魔女と通じとるんや!」
荒い息のまま、ダリオは叫ぶ。
「魔女?」衛兵が聞き返し、周囲がざわりとざわめく。
「ほんまや! こいつに騙されて、俺はあの魔女に結構な額を支払った!」
「おかげで店ごと潰れてもうた! 全部、魔女の呪いや!」
ダリオの叫びに、雨の中足を止めていた人々の視線が集まる。
それはもう好奇の目ではない。
魔女に対する、それを崇拝する者に対する、紛れもない忌避の瞳だった。
「……とりあえず、話を聞こう」
衛兵は、掴んでいたノラの腕をさらに強く引き寄せた。
「ち、違う……違います……! 私は何も——」
このままでは捕まってしまう。そう思ったノラは、振り解こうと必死で否定する。
その瞬間、
「うるさいっ!」
「きゃあっ!」
強い衝撃が、頭を打った。
ダリオだ。
ダリオが、衛兵に捕まったままの自分を殴り飛ばしたのだ。
身体が傾き、そのまま石畳へと叩きつけられた。
鈍い音が響く。
「ぐうっ!」
倒れた拍子に、排水溝の縁石へと頭を強く打ちつけた。
割れるような痛みが走る。
視界が赤く弾けた。
「ダ、ぁ……!」
視界の端に血飛沫が飛び散る。
熱い。
立ちあがろうとして、手を動かそうとして、体がぴくりとも動かせないことに気づく。
「っ君、血が——!」
衛兵の叫びで、やっと視界に映る赤が自分の流した血なのだと気づいた。
あちこちで悲鳴が上がる。
雨は止まない。
むしろ強く強く降り注ぎ、石畳を染めるノラの血をさらに洗い流していく。
「詰所に運ぼう、誰か手を——!」
頭の上で、人々がざわめく気配がした。
声が出ない。体も動かない。
思考が、靄に溶けていく。
と、ダリオの声がすぐ近くで落ちた。
「ふん……タダ飯食らいの魔女崇拝者が」
暗くなっていく視界の中、その言葉だけがやけに鮮明に聞こえた。
「お前のせいで商売上がったりや。そのままくたばったらええねん」
そう言い残して、ダリオの気配はノラの元から去っていった。
それはまるで、二人が初めて出会った日と、正反対のようで——
——足音が去って、ノラはやっと自覚する。
この雨の中、自分はたった一人、取り残されたのだと。
彼に拾われてから数年間、自分にできることはなんでもやった。
寝る間もなく働き、給金など求めたこともない。
言われるがまま神殿に通い、足りない血を何度も捧げた。
不機嫌に任せ殴られ、蹴られても、一度だって文句も言わなかったのに。
ただ役に立てるだけで良かった。
その一心でこれまで尽くしてきたのに。
彼にとっての私は結局、ここで捨ておける程度のものだった。
最初から、ただの消耗品に過ぎなかったのだ。
冷たい雨が打ち付ける。
雨はノラの血を吸い、赤く赤く石畳を染め上げた。
寒い。重い。
視界に映る何もかもが近づいては遠ざかる。
ぐわん。ぐわん。
まるで聖女の儀式を受けた時のような感覚だった。
だけどあの時のような神聖さは少しも感じられない。
ただ、行き場のない恐怖と、ダリオに対する拭いきれない恨みだけが頭を支配する。
あれだけ、あれだけ尽くしたのに。
己の体を削ってまで、ひたすら彼のために祈り続けたのに。
胸の奥に濁った感情が滲む。
助けてくれた頃の純粋な感謝など、もうとっくに消え失せていた。
雨は止まない。
ノラは最後の力を振り絞り、両の手を胸の前で組み、静かに目を閉じた。
雨は、止まない。




