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ほどなくしてダリオは、本当に神殿と渡りをつけてみせた。
「血の儀式を受けられるようになった」と告げられ、ノラは目を丸くする。
どんな魔法を使ったのかと首をかしげているうちに、儀式の日がやってきた。
その日、ノラは両手で小さな袋を握りしめながら、神殿へと向かっていた。
袋の中には、ダリオから渡された金貨が入っている。これを、自分を案内してくれる神官に渡せと言付かっていた。大事に胸に抱え込む。
王都の中央にそびえる神殿は、遠くからでもよく見えるほど巨大だった。
白い石で築かれた大聖堂は朝の光を受けて輝き、空へ向かって伸びる尖塔の先には神殿の紋章が掲げられている。
孤児院にいた頃、祭事の手伝いで何度か足を運んだことはあるが、こうして祈りの儀式に関わるのは初めてだった。
まして、自分のために——正確に言うとダリオのためだが——聖女さまが祈ってくれるだなんて。
そう思うと自然と背が伸び、足取りが軽くなる。
そのまま正門に向かおうとしたノラを、脇から現れた神官が静かに呼び止めた。
「……コルヴィ商会の者か」
低い声だった。
振り向くと、白衣の神官が一人立っている。
「え、あの……」
「こちらへ」
戸惑うノラに神官はそれ以上何も説明せず、ただ静かに歩き出した。ノラは慌ててその後を追う。
案内されたのは、正門ではなかった。
神殿の側面にある、ほとんど人目につかない小さな扉だった。
(……裏口?)
少し不思議に思ったが、神殿の人が案内するのだから間違いないのだろう。ノラは深く考えず、言われるまま中へ入った。
石造りの廊下は、外よりもずっと静かだった。裏門の扉を閉め、神官がノラを振り返る。
「持ってきたものを」
ノラは慌てて袋を差し出す。神官はそれを受け取ると、中を確かめるように軽く重さを測り、無言で懐にしまった。
ノラはそれを見て、小さく首を傾げる。
だけどもすぐに、「……ついてきなさい」と歩き出すものだから、疑問はすぐにかき消され、ノラは黙って彼を追った。
二人揃って、長い長い廊下を歩く。足音がやけに大きく響いた。
そうして案内された先は、神殿の最奥、大聖堂だった。
(……わあっ!)
ノラは思わず息を呑んだ。
高い天井、並ぶ石柱、色ガラスの窓から差し込む光が床に淡い色を落としている。
見たこともない美しい景色が、そこに広がっていた。
何人もの神官が、巫女が、白衣を纏い並ぶ。
ノラは案内されるがままにその間を歩き、中央までやってきた。
ふと視線を上げると、その奥——祭壇の前に、一人の影が立っていた。
ひときわ豪奢な白い布を纏った、細い人影。
影はただ静かに佇んでいるだけなのに、不思議と目を逸らせなかった。
胸が震えた。
——聖女さまだ。
距離があるせいか、顔までは見えない。それなのにはっきりとノラにはわかった。
あれは、聖女だ。
言葉では説明できない何かが、そうだとノラに告げていた。
窓明りに照らされ、長衣に施された金の刺繍が光る。整えられた長い髪がゆらりと揺れた。
ただそこにいるだけなのに、圧倒的な存在感に気圧される。
これが、神の加護を一身に受けた存在か。
呆然と見つめていると、案内役の神官が小さな瓶とナイフをノラに差し出した。神殿の紋章が刻まれているそれを、ノラはハッとして受け取った。
「ここに」短く言われ、理解する。このナイフで腕を切り、血を流せということか。
もう儀式は始まっているのだ——そう考え、焦ったノラは急いで瓶を台座に固定する。
そしてその上で、受け取ったナイフを細い腕に当てた。
刃は、思ったよりも冷たかった。
指先が震える。
——怖い。
素直にそう思った。
それでもノラは、歯を食いしばる。
(……ダリオさんの、役に立ちたい)
ノラの心に一番に浮かぶのは、それだけだった。
あの冷たい雨の中、唯一声をかけてくれた人。学も力もない自分に、パンと寝床を与えてくれた人。
ノラはぎゅっと唇を噛み、ナイフを持つ手を固定した。
意を決して、刃を腕に当てる。
「——ッ!」
ざくり。鋭い痛みが走る。
ぼとぼとぼとっ。次いで赤い血が、瓶の中に吸い込まれるように落ちていった。
静かな大聖堂に、血の落ちる音だけがやけに響く。
恐ろしい緊張感の中、その音すら何かの儀式のように思えた。
「もうよい」
やがて神官が瓶を受け取り、祭壇へと向かう。
聖女が瓶を受け取るのを合図に、祈祷が始まった。
祭壇の前に立つひとりの神官が、大杖を掲げながら聖句を詠み上げる。
それに続くように、他の神官たちも復唱し始めた。
低く厳かなその声は、石の壁に反響し大聖堂いっぱいに広がっていく。
(——え? なにこれ、私、どうしたらいいんだろう)
聖句が鳴り響く中、ノラは大いに戸惑った。
ここに連れて来られ、血を捧げたはいいが、それ以上何をしろとも告げられていない。
聖なる儀式など、一体何をすればいいのか。慌てて膝をつき、ノラは両の手をぎゅっと握り合わせた。
(お客さんが来るようにって、祈ればいいんだよね……?)
困惑しながらも、ノラはそっと目を閉じた。
腕の傷口はじんと痛み、まだうっすらと血を流し続けている。
それでも、両手を鼻先に寄せ、ノラは静かに願った。
どうか、あの店にお客さんが来ますように。
たくさん、たくさん来ますように。
そして、ダリオさんが喜んでくれますように——
必死に願いながら、ちらりと目線だけを聖女に向けた。
祭壇の前で、聖女の影もまた跪いていた。両手を合わせ、祈るように。
そして、ノラが差し出した瓶を手に取る。
聖女の影は瓶を持ち上げると——口元に運び、一気にそれを飲み干した。
その瞬間だった。
ぐわんっ!
世界が大きく揺れた。
天地がひっくり返ったような感覚がするのに、ノラの体はピクリとも動かなかった。
聖女の姿が光に溶けては現れる。祈祷の声が耳元で響いたかと思えば、次の瞬間には遠くに離れていく。
耳鳴りのような感覚。
視界が揺れる。足元がふらつく。
ぐるん、ぐるん、ぐるんっ。
頭の奥で光の粒が渦を巻き、その奔流に押し流されてしまいそうだった。
(な、に、これ……!?)
何が起きているのか、わからない。
ただ、何か大きなものに触れてしまったような感覚だけがあった。
言葉にならない何かに呑み込まれる。
頭に響くのは何度も聞いた祈りの言葉。
明滅を繰り返す視界の中、祭壇で祈る聖女の姿が、強く焼きついた。
——どれだけの時間が経っただろう。
気づけば、大聖堂はしんと静まり返っていた。
祈祷の声も、足音もない。祭壇に聖女の影もなくなっていた。
ノラはぼんやりと顔を上げる。案内役の神官が、いつの間にか目の前に立っていた。
「……儀式は終わりました」
静かな声だった。
ノラは、しばらく何も言えなかった。立ち上がることすら、できなかった。
ただ、祈っていただけなのに。
聖女に捧げた血液ごと、体の力をどこかへごっそり持って行かれたような感覚がしていた。
*
儀式が終わり、神殿を出てもなお、ノラの足取りはまだどこかふらふらしていた。
頭の奥がぼんやりと重い。
まるで長い夢から覚めきらないような感覚のまま、ノラは帰路に着いた。
(……終わった、んだよね)
儀式の光景が、時折ふっと頭に浮かぶ。
揺れる視界。響く祈祷。聖女の姿。
けれどそれが本当に起きたことなのか、まだどこか現実味がなかった。
(あれで、大丈夫だったんだろうか)
儀式において、自分の行いが正しかったのか、ノラは未だにわかっていない。
ただ血を捧げ、必死に願っただけだった。そして、光の濁流に呑み込まれそうになっただけ。
あんなことで、本当に願いは叶うのだろうか。
店が繁盛するようにという、ダリオの願いが。
ノラは不安に思いながらも、石畳の街をゆっくりと歩いた。
やがて、見慣れた通りに差しかかる。
ダリオの店がある路地へ曲がった、その時だった。
ざわざわと、人が話す声が聞こえた。
思わず足を止める。
声は、間違いなく店の方から聞こえていた。
恐る恐る扉を開けると、
「おっ、ノラ! 帰ってきよったか!」
奥からダリオの声が飛んできた。
「ちょい、来てみぃ!」
腕を引かれるまま、ノラは店の中へ引き込まれる。
そして——目を丸くした。
店の中には、見たこともないほど人がいた。
棚に並んだ異国の道具を手に取りながら話し込む客。
珍しげに品物を眺める客。
店の奥では誰かがダリオに値段を尋ねている。
「いやあ、ずっと気にはなってたんですよ、この店」
「見たことないものばっかりで、ちょっと入りづらくてなあ…」
「でも、今日はなんだか、思い切って入ってみようって気持ちになって」
客たちが口々にそう言う。
呆然と立ち尽くすノラの肩を、ダリオがばしんと叩いた。
振り向くと、ダリオが満面の笑みを浮かべていた。
「偶然か奇跡か知らんけど——お前、すごいやないか!」
その笑顔は、いつもの皮肉っぽいものではなかった。
心の底から嬉しそうな、まっすぐな笑顔だった。
それを見た瞬間、さっきまで体を覆っていた重たい疲れが、ふっと消えた気がした。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
——よかった。
ノラは思わず、小さく笑った。
——私、ちゃんと役に立てたんだ。
その事実が、ノラの小さな胸を満たしていた。




