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「しゃあないな。おまえ、うちで働くか?」
石畳は硬く、打ち付ける雨は冷たかった。
だからその言葉は私にとって、奇跡よりも特別に響いたんだ。
***
ノラは、サンクティア王国に住む孤児の少女だ。
両親の顔は覚えていない。赤ん坊の頃神殿付きの孤児院の前に捨てられ、以来ずっとそこで暮らしているからだ。
そこでは身寄りのない子どもたちが神の慈悲のもとに集められ、共に暮らしていた。
孤児院での生活は決して楽ではなかったが、それでも子供ひとり外で生きていくよりはマシだった。誰にも助けられず死んでいく子供も多い中、早々に孤児院に拾われたノラはむしろ運がいい方だったのだろう。
朝は神官と共に祈祷をし、祭事の際は神殿の手伝いごともした。
ゆくゆくはどこかに奉公に出されるのか、このまま神殿に残り召使として働くか——歳の近い子供たちが次々院を出ていき、自分も将来を考え始めた頃のことだった。
一人の紳士が彼女を引き取りたいと申し出た。
裕福な家だと聞かされた。働き手としてではなく、養女として迎えたいと。
学も力もない自分が選ばれたことにはじめは驚いたが、金持ちの慈善家の考えなど彼女にはわからない。
孤児院の子どもたちは皆羨ましがり、ノラ自身も幸せな生活を想像して喜んだ。
仲間たちに見送られ、少しの荷物を持って孤児院を出る。
迎えに来た感じのいい紳士に、今後訪れる未来を思い胸が踊った。
——だが、連れられて行った先は、天国などではなかった。
彼女を引き取った男は裕福な商人でも善良な紳士でもない。奴隷商だったのだ。
孤児を引き取るふりをして外国へ売る。
孤児院は厄介払いできるし、自分たちは儲けられる。利害一致ってやつだ——
男たちが酒を飲みながらそう話すのを偶然聞いてしまったノラは、監視の隙をついて逃げ出した。
住み慣れた街からはもう遠く離れ、ここがどこかもわからない。
それでもノラは暗い路地をただ必死に走った。振り返ることもできず、ただ遠くへ、遠くへと。
そうしてノラはやがて、スラムへと流れ着いた。
そこは孤児院とはまるで違う世界だった。
石壁は崩れ、路地は泥だらけで、腐った臭いが漂っている。響くのは祈祷の声ではなく、喧騒、怒鳴り声、泣き喚く声。
世界からはみ出たその場所は、世界からはみ出た者たちを誰でも受け入れた。
昼も夜もなく必死に生きる人々の中、ノラもまた必死に生にしがみついた。
物乞いのようなこともした。時には盗みを働くこともあった。
だが、幼い少女の行うそれは簡単に足蹴にされ、何度も石を投げられた。何日もまともに食べられない日が続き、殴られた体が痛んで立って歩けない日もあった。一人で生きていくには、この街はあまりにも厳しかった。
ある雨の日のことだった。
冷たい雨が石畳を叩き、街が薄暗い灰色に沈んでいたある日のこと。ついに力尽きたノラは、街の商人地区で行き倒れた。
身体は泥だらけで、手足にはほとんど力が入らない。骨と皮だけになった体に、雨が容赦なく打ちつけた。
まともにパンを食べたのはいつが最後だっただろうか。綺麗な水を飲めたのは、あたたかい毛布に包まれて眠れたのは。
空腹と寒さの中、そんなことを考える。
ノラが失ってしまったもの。二度と手に入らないもの。それに焦がれる感情すら、だんだん遠のいていく。
このまま、ここで死ぬのだろうか。
薄らいでいく意識の中、そう思い至った時だった。
足音が近づき、頭上から声が降ってきた。
「……なんやこいつ。そこはワシの店の前や、どき」
低く濁った声だった。
言葉はひどく訛り、ノラは一瞬何を言われたかわからなかった。
顔を上げることすらできないノラに、男は苛立ったように舌打ちをした。
「まさか死んどるんか? ……息はあるな」
しゃがみ込んだ気配がする。雨が冷たい。
「はあ、堪忍してや。今日から開店だっていうんに、こんなところで死なれたら商売上がったりやわ」
男はぶつぶつと文句を続けた。
ノラは意識を繋ぎ止めようと、必死で目線だけ声の主を追った。
「衛兵でも呼ぶか? まだ開店準備も終わっとらんのに……」
口に髭を蓄えた、小太りの男だった。
訛りのある口調、見慣れない刺繍の施された外套。
一目で異国人だとわかった。それでも構わなかった。藁をも掴む気持ちで、ノラは声を出す。
「…………パ、ン……」
男は目線を落とした。
「パン、を……、くだ、さ……い…………」
雨音にかき消されそうなほど、小さな小さな声だった。
喉は焼けつくように乾き、声はほとんど出ない。
このままでは、本当に死んでしまう。その一心で最後の力を振り絞る。
その声が届いたのだろう、男はしばらく黙り込み、やがて大きくため息をついた。
そして面倒くさそうに頭を掻く。
「はあ……このまま店の前で死なれても、外聞悪いわな」
少し考えたような沈黙のあと、男は言った。
「しゃあないな」
ノラの顔を覗き込み、にやりと笑う。
「おまえ、うちで働くか?」
それがノラと、今日からこの王都に店を構えることになった商人、ダリオ・コルヴィとの出会い。
そして——ノラの人生の転機であった。




