エピローグ
——ふふ、クスクス。
くすぐるような笑い声が転がった。
夢と現の狭間、夜の世界で、ローデリックの末路を見守りながら魔女はおかしそうに言う。
「いやね、あの男、最期まで金貨を手放さなかったわ。なんて貪欲なのかしら」
それは嘲笑ではない。慈愛に満ちた声だった。
まるで揺籠の赤子をあやす母のように、魔女は優しく、優しく、彼の死を見届けた。
「欲に忠実なその様も、主を亡くして慌てふためくその様も、全て、全て愛おしい。私の愛する人の業。
——ねえ、あなたにも見せてあげましょうか? 村はとっても大騒ぎよ」
魔女は振り返り、そう問うた。
その紅い目に、子を抱く母の姿が映る。
マリスはそんな彼女に何も返さず、ただ虚空を見つめている。
すべてが終わったというのに、その瞳には安堵も、達成もなかった。
「……どうして」
やがて、マリスはぽつりと呟いた。
抱いた子の頬に、そっと指を滑らせる。
「どうして、私、『奇跡』をあんな男のために使ったのかしら。私の願いは、この子が生きることだったはずなのに……」
マリスはそう言うと、乾いた瞳からぽろりと一粒の涙を流した。
雫は子の額に落ち、夜の世界で淡く光って消える。
憎しみはたしかにあった。怒りも、絶望も。
けれど死んだマルクを抱きしめた時——最初に願ったのはそれだった。それだったはずなのに。
「どうして……」
もう一度呟くと、マリスの姿は静かにそこから消えていった。
夢から醒めた母の魂は、遠く広がる荒地、誰も耕さぬその土地をこれからも彷徨い続けるだろう。腕だけは強く、愛する息子を抱きしめたまま。
「……」
すうっとほどけていくマリスの輪郭を、魔女はしばらく見つめていた。
やがて、そっと両手を胸の前で組み、祈るように目を伏せる。
「憎しみも後悔も、すべて人であればこそ抱く感情。……大丈夫、私はそれも全部、全部、愛しているわ」
まるで聖女が神に祈るように、魔女は囁いた。
愛してる。愛してる。愛してる。
慈しむような声色で、静かに、口元に笑みを湛えながら。
「でもね、マリス。たとえ聖女の奇跡でもきっと——失った命は、取り戻せなかったわ」
その言葉は、風もない空間に静かに落ちて、溶けていった。
***
——サンクティア王国、王都。
白亜の石壁が陽光を鋭く弾く大神殿。
その最奥、聖職者のみが立ち入ることを許された円卓の間には、重苦しい沈黙が満ちていた。
卓を囲むのは、枢機卿、大司教、司祭長、そして貴族に連なる高位神官たち。いずれも老獪な目を持つ者ばかりだ。
だが今、その視線は誰も落ち着きを失っている。
「——本日はお集まりいただき、感謝いたします」
やがて、神官のひとりが静かに口を開いた。
「今回お集まりいただいたのは、近頃王国内で相次いでいる怪異死についてです」
空気がわずかに張り詰める。
神官は手元の羊皮紙に目を落とした。
「現在確認されている怪死事件は七つ。下手人は未だわかっておらず、被害者は貴族、大商人、大地主……いずれも有力者ばかりです」
ざわり、小さな動揺が走った。
「死因は原因不明の窒息、圧死、衰弱死……と多岐に渡り、外傷は少なく、争った形跡もほとんどありません」
「事故ではないのか?」
「事故や病にしては、不可解な点が多すぎるのです。さらに、村がひとつ消えたとの報せもあります」
別の神官が続ける。
「また、場所も問題です。王都近郊、北部辺境、東の貿易都市……王国の至るところで起きております。移動距離を考えれば、同一人物の犯行とは思えません」
「模倣犯の可能性は」
「それも考えにくい。共通点が……あまりにも多いのです」
「共通点?」
問いに、報告役は一瞬だけ言葉を区切った。
「……すべての事件において、被害者は直前に『魔女として断罪された女』の処刑に関わっております。さらに、処刑後に検分された遺体からは、血が根こそぎ失われていたと——」
その言葉に、室内の空気が一段下がる。
魔女。血。
それらは彼らにとって、まるで呪いのような言葉だったからだ。
「以上のことから、民衆の間では『魔女の呪いではないか』と噂が広がっております」
そう報告をまとめた神官に対し、神殿のお歴々たちは口々に話し出した。
「……馬鹿らしい、呪いなど」
「偶然だろう」
「しかし、こうも続けば……」
「信じられるものか。魔女など、すでに——」
一人が言いかけて、言葉が止まる。
沈黙。
誰かが小さく息を呑んだ。
やがて、ひとりの神官が重々しく口を開いた。
「……いかがされますか、オーギュスト閣下」
場の視線が、卓の最奥へと向けられた。
純白の祭服を隙なく纏い、金の髪を端正に撫でつけた若き枢機卿——オーギュスト・ドミニク・ブラッドフォード。
詮議を黙って見守っていた彼は、水を向けられ、静かに円卓を見回した。
逡巡ののち、彼はゆっくりと口を開く。
「民の不安を、我ら神の信徒が放置することはできません。——勇者を、王都へ呼び戻しましょう」
その一言で、空気が張り詰めた。
「勇者様を……!?」
「しかし、彼の方は南方遠征の最中では」
「構いません、神殿の名の元に召喚しなさい。噂であれ、魔女が関わるというのならそれを討つ象徴が必要です」
どよめく神官らを、オーギュストは一蹴する。
藍色の瞳が、冷たく光った。
「勇者は、そのためにいる」
——かくして、会議は決した。
神殿の鐘が王都に鳴り響く。
それは祈りの鐘ではない。
戦の始まりを告げる、静かな号令だった。




