7
「——なんだ、マリスじゃないか。こんな夜更けにどうしたというんだ」
突然屋敷を訪ねたマリスに、ローデリックは驚いた口調でそう言った。
松明に照らされた石造りの屋敷、上質な長衣を羽織る彼は、泥まみれのマリスとは別世界の人間のようだ。
いつもと同じ穏やかな声色。なのに燭台が照らす彼の表情にどこか違和感を覚える。
胸に引っ掛かりを感じつつも、頼る宛など他にないマリスは、縋るように彼に助けを求めた。
「たすけ、助けてください……! 村のみんなに、追われてるんです……!」
「追われている? 一体どうして——」
マリスの剣呑な様子に、ローデリックは眉を顰めた。
こんな夜半に追われるなど、あまりに物騒な話だ。
訝しんで彼女の腕の中に視線を落とすと、
「——ひっ!?」
悲鳴をあげて、上半身を大きくのけぞらせた。
当たり前だ、彼女が腕に抱えていたのは、死後数日は経っているであろう子供の死体だったのだから。
「な、な、な……!? なんだねそれは!」
「マルクが、マルクが死んでしまって……! 村の皆が、この子を埋めろと言うんです!」
「は、はあ!?」
ローデリックは、表情を取り繕うこともできず、狼狽した声をあげた。
「な、何を言っているんだ。もう息はないのだろう? それなら、早く弔ってやらねば……」
口調は柔らかなまま、だけどあからさまに取り乱した表情で、ローデリックは言った。
「墓なら用意してやる。だから、その子をこちらへ寄越しなさい!」
目が泳ぎ、口元は引き攣っている。
差し出そうとした腕も、ためらうように震えていた。
その言葉に、態度に、マリスはショックを受けた。
ローデリックならなんとかしてくれると思ったのに。親身になって、マルクと自分を助けてくれると思っていたのに。
彼もまた、開拓者の皆と同じように、マルクを自分から引き離そうとする。この愛しい子供を、まるで忌避すべきもののような目で見る。
「そんな……」
唯一の頼みの綱すら幻だったと気づき、マリスはその場で力尽き、座り込んだ。
豪奢な絨毯に膝をつき動かない彼女に、ローデリックは頭を抱える。
「マリス、とにかく今日は帰りなさい。明日朝一番で弔いをしてやろう」
「……」
「そんな格好で、そんなところに座り込むものじゃない」
「……」
「村の者たちには無理強いはやめろと言っておくから」
「……」
ローデリックが何度呼びかけても、彼女は動かない。
マリスを呼ぶ声が、だんだん温度を増していく。
それでも何も反応しないマリスに、やがて彼は小さく舌打ちし、聞こえるか聞こえぬかの声でこぼした。
「まったく……聖女がいなくなった今、疫病にでもなったらどうするんだ」
それは本当に、小さな小さな声だった。
だけどその言葉はわずかな希望となって、しっかりとマリスの耳に届いた。
「——聖女?」
マリスがそう呟くと、ローデリックはハッとして自分の口元を押さえた。その表情には明らかに失言のニ文字が浮かんでいる。
そんな彼にも気づかず、マリスは顔を上げ、ローデリックに言い募った。
「そうだ、聖女様よ……! 新しい聖女様が立ったのでしょう? あの方の奇跡ならきっと、きっとこの子を助けてくれる。お願いです、会わせてください。聖女様と、会わせてください!」
腕の中の亡骸を抱き直し、縋るように一歩踏み出す。
ローデリックは一瞬たじろぎながらも、「そんなの無理だ!」と拒絶した。
「無理? どうして? もうすぐ聖女様が来てくれるって、あなたが言ったんじゃないですか!」
迫る勢いのまま、マリスは両腕を差し出す。ぐったりとした小さな体が、ローデリックの眼前に突きつけられた。
「うわっ!」ローデリックが後退りする。
「ねえ、どうして!」できた距離を詰めるように、マリスも彼に躙り寄る。
「やめろ、無理だと言ったら無理なんだ」
「だから、それがなぜかと聞いているのです!」
そんな攻防を繰り返すうち、ついに痺れを切らしたように、ローデリックが叫んだ。
「——そんなの、神殿との関係がもう切れているからに決まっているだろう!」
吐き出すような声が、石造の屋敷に響いた。
「……どういう、ことですか?」
震える声で、マリスは問い返す。
「税を下げられないのは、神殿への献金があるからだって……だからいつか、聖女さまも来てくれるって……」
「〜〜〜〜ああ、もう!」
素朴な疑問を漏らすマリスに、ローデリックは苦々しい顔で自身の髪をかき混ぜた。
そして、荒い息のまま吐き捨てる。
「神殿への寄進など、先代聖女が死んだ時にとっくにやめている! 今の神殿に金など渡して、私に一体なんの得があるというのだ!」
投げつけられた言葉が、マリスには理解できなかった。
そんな彼女をさらに追い詰めるように、ローデリックは拳を握りしめ声を荒げる。
「あれはこの土地に加護をもらうためにやっていたことだ。こんな呪われた土地、聖女の祈りがなければ作物など育つわけがないからな。だが今の聖女に、そんな力はない。そんな小娘に積む金など、一銭も持ち合わせとらん!」
怒鳴るような声に、語られるその内容に、マリスは衝撃を受けた。
聖女の加護がなければ、作物は育たない?
今の聖女は力を持たないから神殿に献金はしていない?
それなら、それなら——
「……それなら、私たちはなんのために、あんな大きな税を背負わされているんですか。道具を、設備を修繕できないのだって、税はすべて神殿に寄付してるからだって——」
そこでマリスは、ハッと気づいた。
ローデリックの屋敷は、昔からこんなに綺麗だっただろうか。
高そうな絨毯。磨き上げられた床。火の絶えない暖炉。数年前から私兵も雇っていると聞いた。
そのお金は、どこから出ているんだ?
税から? ——私たちの作った、小麦から?
マルクが脚を失ったのは、老朽化した設備の崩落に巻き込まれたからだ。
夫が死んだのは、坑道の崩落事故が原因だった。
あの鉱山のオーナーは、ローデリックだ。修理費すらないと古びた設備を放置していたのも。
全部、全部、ローデリックだ。目の前で、あたたかそうなガウンに身を包むこの男。
まさか、まさか、まさか——
「——まさか、本当は、税を下げる余裕もあったのですか? 作業道具も、畑の設備も。直すお金は、あったのですか…?」
声が震える。
目の前のローデリックはいつもの紳士然とした態度を殴り捨て、どこか決まりが悪いような、開き直ったような表情をしている。
「そうだとしたら、あなたのせいで。あなたのせいで、マルクは——!」
「——黙れ!」
苛立ちに任せ、ローデリックはマリスを突き飛ばした。
「あうっ!」
細い体は容易くよろめき、腕の中の亡骸が滑り落ちる。重い音を立てて豪奢な絨毯に転がった。
「マルク!」叫ぶマリスを見下ろし、ローデリックは吐き捨てる。「っ私の絨毯に穢れがついたではないか!」
ローデリックは腹立たしげにそう言うと、屋敷の奥に向かって叫んだ。
「くそっ、この家にまで穢れを持ち込むなど——誰か! 誰か来い、この穢れを始末しろ!」
その声に応えるように、彼の私兵が集まってくる。「マルク——!」その足音から庇うように、マリスは彼の体の上に覆い被さった。
「どけ、この屋敷に穢れを転がすな! 警備兵、この女を捕えろ!」
「いやあ、お願い、この子は……! この子だけは……!」
瞬く間に集まった兵たちは、ローデリックを庇い、床にうずくまったままのマリスを囲む。
マルクを奪おうとする兵たちに、マリスは必死に抵抗した。
腐乱した死体に縋り付き、痩せこけた腕からは考えられないような強い力で、彼らを突き放す。
誰にも息子を奪わせやしないと、目に怒りを宿らせ、必死に息子を抱きしめる。
兵たちは思わずたじろぐ。
子供の死体から離れようとしない母の姿はあまりにも異様で、あまりにも恐ろしく見えたからだ。
兵すらも近づけないその姿にローデリックは大きく舌打ちをし、業を煮やしたように叫んだ。
「まだ穢れを庇うというのか——この魔女め! 皆のもの、この女は魔女だ! この屋敷に、村に、穢れを広めようとする魔女だ! 穢れごと、この女を、埋めてしまえ——!」
*
「——落とせ、落とせ。魔女は落とせ」
「——埋めろ、埋めろ。穢れは埋めろ」
寒々しい夜の荒地に、物々しい声がこだまする。
ローデリックの私兵たちは、松明を片手に森の奥へ、奥へと列をなして入って行った。
「やめて、離して……! お願い、マルクだけでも……!」
両腕を押さえつけられたマリスは、必死に身を捩る。
声は夜風に攫われ、兵たちは顔色一つ変えずに歩みを止めない。
やがて森がひらけ、ぽっかりと口を開けた黒い穴の前で列は止まった。
それはかつて、疫病のために掘られた大きな墓穴だった。土は新しく、底は闇に沈んで見えない。
松明の火が一斉に揺れる。
ローデリックが静かに顎を引いた。
それが合図だった。
「きゃあああああああっ!」
次の瞬間、支えを失ったマリスの体が傾き、闇への中へと落ちていった。
いや、落とされたのだ。もう使われていない空の墓穴に。
次いで何かがべしゃりと頭上に落ちてくる。「——マルク!」自分とは別に捕えられていたマルクだと気づき、抱きしめる。
そんな穴の底の二人のやり取りが見えているのか、いないのか。ローデリックは冷たく言い放った。
「——埋めろ」
その声と同時に、重い塊が穴に落ちてきた。
土だ。
湿った土が肩を打ち、マリスの細い腕を、抱き締めた小さな体を覆っていく。
「な、何を——うむ゛っ!」
驚いて上げた顔に、呼吸のために開いた口に、容赦なくそれは降り注いだ。
ザクっ、どさり、どさ、どさっ、
泥を含んだそれは重く、みるみるうちにマリスの体を埋めていく。
マリスは必死に足場を探し、崩れる壁に爪を立てる。だが掴んだ土は脆く崩れ、体はずるりと沈む。
穴の底にへたり込むマリスに、それでも土砂は降り止まない。
むしろ追い討ちをかけるように、どさりどさりと重い塊が落とされていく。
「や、やめて……! どうして……っ!」
絶え間なく落ちてくる土砂の隙間から、どうにか顔を出してマリスは叫ぶ。
「どうしてあなたのような優しい人が、こんなことをするのですか……!? 行く宛のない私たちを救ってくださったのは、他でもないあなただったのに……!」
夜の森に、悲痛な叫びがこだまする。
松明に照らされたローデリックの顔は、それでもなお表情ひとつ変えなかった。
しばしの沈黙ののち、冷え切った声が降りてくる。
「——居場所を失った者は、与えられた場所に縋るしかないだろう?」
そう言ってローデリックは、マリスから視線を外し、そのまま屋敷へと戻って行った。
その一言に、マリスは今度こそ打ちのめされる。
ローデリックは、全てわかっていたのだ。
呪われたこの土地に作物は実らないことも。
それでも帰る宛のない自分たちは、この荒地に縋るしかないことも。
ああ、それじゃあ。
それじゃああの時、この人の手を取ってしまった時点で——
「——落とせ、落とせ。魔女は落とせ」
「——埋めろ、埋めろ。穢れは埋めろ」
雨のように降り注ぐ土が、声が、マリスの胸を重く打つ。
腕に抱いたマルクはもうすっかり埋もれてしまっていた。
息を吸うたび土の匂いが喉に絡む。
天に向かって伸ばした手が砂を掴んだ。
冷たい塊が頬を打ち、落ち葉が髪に絡みつく。
せめて抱えた小さな体だけは離すまいと、腕に、肩に、力を込める。
顎まで埋める土がむしろ、二人の距離をぎゅうと縮めた。
土を掻く。滑る。埋まる。それでも踠く。崩れる。どんどん埋まる。
砂埃が目に沁みて、滲んだ視界ごと闇に埋もれていく。
——私はいったい何を間違ったのだろう。
——どこからやり直せば幸せになれるのだろう。
舌に泥の苦味を感じながら、ぐるぐると詮無い思考を巡らせる。
——私はただ、マルクと穏やかに暮らしたかっただけなのに。
贅沢などいらない。静かな暮らしでいい。
それだけを思って、この地へやってきたのに。
「——落とせ、落とせ。魔女は落とせ」
「——埋めろ、埋めろ。穢れは埋めろ」
いかめしい声はもはやくぐもって聞こえない。
伸ばした指の先まで冷たい重みで固定された。
呼吸はとうに浅く、光はすでにない。
もはや思考すらも遠く霞んだ。
「————」
「————」
もう見えない土の上で、それでも繰り返される声を聞いた。
——ああ、私が本当に魔女だというのなら。
誰にも見えない土の下、マリスは確かに、そう願った。




