5
処置が早かったおかげか、マルクは一命を取り留めた。
切断後はしばらく熱が出てマリスは気を揉んだが、医師や、開拓者の皆から気に掛けてもらい、どうにか元の生活に戻ることができた。
寝台に横になったままの息子を見て、それでもマリスは嬉しかった。
冷たく横たわった夫に、もう一度目を開けてくれと願った日々。
それに比べれば目を合わせて話せるだけで、どうしようもなく幸せだった。
マリスは夜明け前から畑に出て、日が沈んでも鍬を握り続けた。
掌の皮は裂け、肩は上がらず、膝は笑う。帰るころには足を引きずっていることも珍しくなかった。
それでも、家に戻れば「おかえり」と声がする。
それが何よりもマリスの疲労を癒していた。
畑は相変わらず荒れたまま、作物の実りは良くなる兆しを見せない。
税の引き下げも行われず、聖女もまだ来ない。
それでもよかった。マルクがいるから。
脚の切断のせいなのか、マルクは熱を出すことが増えた。
少しでも精がつくようにと、マリスは自分の分までマルクの皿に乗せて彼に食べさせた。
「あれ、母さんのご飯は?」「私はもう食べっちゃったから」「そう……なんだ」
空腹を水で誤魔化して、マルクがその小さな口にパンを含むのをじっと眺めた。
最初は寝たきりだったマルクは、杖を使えば家の中くらいは歩けるようになった。
「だから家の仕事は僕がするよ」と、マルクは食事の支度を買って出た。
しかし扱い慣れない杖を滑らせ、素焼きの皿を割ってしまう。
「ごめん、ごめん」何度も謝るマルクを、「もう端が欠けてたもの」とマリスは優しく抱きしめた。
畑から帰り、食事の支度をしていると、突然ふらつき倒れそうになったことがあった。
「母さん!」そう叫んで支えようとしてくれたマルクごと、床に倒れこむ。
「……っマルク、大丈夫!?」「う、うん。……ごめん、支えきれなくて」「母さんこそごめんね、不注意で」
下敷きにしてしまった体を抱き起こしながら謝る。
「ごめんね、重かったでしょう」
「そんなことないよ、全然。……全然」
マルクは、マリスの痩せこけた腕に捕まりながらそう繰り返した。
杖を使えば多少は歩けるようになったマルクは、それでもあまり外には出たがらなかった。
一緒に散歩しようかと誘っても、マルクは力なく首を振る。
「転んで、収穫物をぶち撒けっちゃったら大変だから」と固辞するマルクに、マリスは眉を下げる。
おそらく以前の共に外出した際に、水瓶を倒してしまいひどく怒られたのを気にしているのだろう。
そんなの、たいしたことじゃないのに。マルクに怪我がないのなら。
「母さんは、あなたが家で待っていてくれるだけで十分幸せよ」「……」
マルクは何も答えなかった。
マルクは、椅子の背もたれを支えに、天井を見上げて何か考え事をしていることが増えた。
「どうしたの?」マリスが聞くと、「……お祈りをしてるんだよ」マルクは笑って答えた。「……母さんの疲れが、少しでも減りますようにって。神様に、届くように」
「まあ、嬉しいわ。私もお祈りしようかしら」母想いの言葉にマリスは喜び、彼の隣に並んで祈りを捧げた。
どうか明日もこの子が幸せでありますように。この穏やかな日々が、永遠に続きますように——
日々の仕事は苦しく、貧しさは骨身に沁みた。
それでもマリスは幸せだった。
この苦しみには、意味がある。
たとえ明日の食事がなくとも。体が砕けるように痛んでも。
マルクが生きている。
それだけで、マリスは満たされていた。
*
よく晴れた日のことだった。
その日は教会から施しがあり、マリスは二人分の芋を家に持ち帰れることになった。
腕いっぱいの芋は重労働を終えた体に重く、それがむしろマリスの胸を躍らせた。
今日はマルクにお腹いっぱい食べさせてあげられる。煮て柔らかくしてやろうか、それとも潰して塩を振るだけでも喜ぶだろうか——
マルクが驚き笑う顔を想像して、マリスはそわそわとした気分で家路を急いだ。
「ただいま、マルク。これ、司祭様にいただいたんだけど——」
古びた木製の扉を開け、いつものように帰宅の挨拶をする。
だけど続く言葉は途中で途切れた。
普段なら扉を開けば聞こえる、『おかえり』の声がなかった。
小さな家の真ん中で、マルクが天井から首を吊られていた。
「——————————ぇ?」
ほとんど息のような声が、喉の奥から抜け出た。
足元でごとりと音がした。腕に抱えた芋が落ちた音だった。
「…………マル、ク……?」
次いで落ちた声が、しんと静まった室内に響いた。
返事はない。
ただ土気色の肌が、光をなくした瞳が、二人の暮らした家の床をじっと見下ろしていた。
「……え、……マルク?」
一歩踏み出す。
その足に落とした芋が当たって、壁まで転がっていった。
口角が引き攣る。視界が大きく揺れる。腹の底がないまぜになって、胃から喉へと何かが逆流するような感覚がした。
だらりと垂れ下がった息子の姿が、やっと脳内で像を結んだ。
「——マルク、マルク!? いやぁ、マルク……っ!」
叫んで、駆け出した。
家の真ん中、吊るされた体の真ん前で、マリスは混乱し声を荒げた。
名前を呼ぶ。
返事はない。
手足はだらりと落ち、近づくと微かに糞尿の匂いがした。
開いた戸から風が入り込んでも、体はぴたりと静まり動かない。
ぎゅうと縄に絞られた首が苦しそうだった。
「ああ、ああ、マルク。待っててね、今下ろしてあげるから……!」
助けてあげねばと、その小さな体を下ろそうと縄に手を伸ばす。
届かない。
側に転がっていた椅子を立ててその上に上り、結び目が硬くて簡単には解けないことにそこで気づいた。
何か、切る物を。
ぐちゃぐちゃになったままの頭で、農作業に使った小刀をまだ腰に下げているのを思い出した。
ピンと張った縄を切る。
その重さに耐えきれず、マルクの体ごと床に倒れ込んだ。
「きゃあっ!」
自分の体にどさりとのしかかる愛しい息子の体。
その体はあまりにも冷たく、あまりにも重かった。
マリスはずしりと重いその体をなんとか起こし、もう一度名前を呼んだ。
「ねえ、マルク、マルク。嘘でしょう。こんなの、冗談でしょう……!?」
頬を叩き、口元に手をやり、胸に耳を当てる。
音はしない。
頬を叩く力が強くなる。
反応はない。
名前を呼ぶ声が大きくなる。
返事はない。
「ぁ、ああ……」
ぐわんと視界が回った。
はくはくと空気を噛んだ。
握った手は土のように冷たい。
血色の良かった丸い頬が枯れ草のようだ。
呼吸の音がしない。
心臓の音がしない。
「あぁあ、ぁ、……ぁあぁあぁぁ…っ!」
母さん、と呼ぶ声がした気がして、顔を上げてもその瞳が光を映すことはなかった。
体を抱き上げる。
両の手が力なく地へ落ちた。
その拍子、マルクの服の隙間から、青色の押し花がポロリと落ちた。
「……、」
それは、マリスにも見覚えがあった。
あの、古びた灌漑設備の裏の。
この枯れた荒地に珍しく、色とりどりの花畑の。
『母さん、見て』、と、いつか差し出された。淡い、青の、
「————————あああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
——気づいたら、叫んでいた。
雄叫びのようなその声が、どこか他人事のように自分の耳に届く。
「ああああぁあ、ああ、あ……ぁぁああああぁああああ…っ!」
マルクの頭を胸に掻き抱く。
きしんだ髪を腕の中でかき混ぜる。
足元が崩れ落ちるような感覚がした。
ぐらりと体が傾き、自分の体すら支えていられない。
「ああ、ぁああ、ああああぁぁあ……!」
マリスは叫び続けた。
窓の外では日が暮れ、夜の帳が降り始めても、ただ、ただ、叫び続けていた。
自分の叫び声で喉が裂け、血が吹き出して死んでしまうのではないかと思った。
それで良かった。
いっそそうなればいいのにと思った。
喉なんていくらでも裂くから。
血なんていくらでも捧げるから。
この子のためなら。
この子がもう一度目を開けてくれるなら。
何だってしようと思った。
何だって捧げようと思った。
マルクが生きていてくれるなら、
どんな苦労だってしようと思ったのに。
冷たくなった体が、マリスの腕の中で天井を見上げていた。
あの日、マルクが何を祈ってそこを見上げていたのかを、
マリスはやっと、理解した。




