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血濡れの魔女は夜と踊る  作者: ウミノリリオ
第二章 荒れ地の母は地に堕ちる

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14/43

5

 処置が早かったおかげか、マルクは一命を取り留めた。

 切断後はしばらく熱が出てマリスは気を揉んだが、医師や、開拓者の皆から気に掛けてもらい、どうにか元の生活に戻ることができた。


 寝台に横になったままの息子を見て、それでもマリスは嬉しかった。

 冷たく横たわった夫に、もう一度目を開けてくれと願った日々。

 それに比べれば目を合わせて話せるだけで、どうしようもなく幸せだった。


 マリスは夜明け前から畑に出て、日が沈んでも鍬を握り続けた。

 掌の皮は裂け、肩は上がらず、膝は笑う。帰るころには足を引きずっていることも珍しくなかった。

 それでも、家に戻れば「おかえり」と声がする。

 それが何よりもマリスの疲労を癒していた。


 畑は相変わらず荒れたまま、作物の実りは良くなる兆しを見せない。

 税の引き下げも行われず、聖女もまだ来ない。

 それでもよかった。マルクがいるから。


 脚の切断のせいなのか、マルクは熱を出すことが増えた。

 少しでも精がつくようにと、マリスは自分の分までマルクの皿に乗せて彼に食べさせた。

「あれ、母さんのご飯は?」「私はもう食べっちゃったから」「そう……なんだ」

 空腹を水で誤魔化して、マルクがその小さな口にパンを含むのをじっと眺めた。


 最初は寝たきりだったマルクは、杖を使えば家の中くらいは歩けるようになった。

 「だから家の仕事は僕がするよ」と、マルクは食事の支度を買って出た。

 しかし扱い慣れない杖を滑らせ、素焼きの皿を割ってしまう。

 「ごめん、ごめん」何度も謝るマルクを、「もう端が欠けてたもの」とマリスは優しく抱きしめた。


 畑から帰り、食事の支度をしていると、突然ふらつき倒れそうになったことがあった。

 「母さん!」そう叫んで支えようとしてくれたマルクごと、床に倒れこむ。

 「……っマルク、大丈夫!?」「う、うん。……ごめん、支えきれなくて」「母さんこそごめんね、不注意で」

 下敷きにしてしまった体を抱き起こしながら謝る。

「ごめんね、重かったでしょう」

「そんなことないよ、全然。……全然」

 マルクは、マリスの痩せこけた腕に捕まりながらそう繰り返した。


 杖を使えば多少は歩けるようになったマルクは、それでもあまり外には出たがらなかった。

 一緒に散歩しようかと誘っても、マルクは力なく首を振る。

 「転んで、収穫物をぶち撒けっちゃったら大変だから」と固辞するマルクに、マリスは眉を下げる。

 おそらく以前の共に外出した際に、水瓶を倒してしまいひどく怒られたのを気にしているのだろう。

 そんなの、たいしたことじゃないのに。マルクに怪我がないのなら。

「母さんは、あなたが家で待っていてくれるだけで十分幸せよ」「……」

 マルクは何も答えなかった。


 マルクは、椅子の背もたれを支えに、天井を見上げて何か考え事をしていることが増えた。

 「どうしたの?」マリスが聞くと、「……お祈りをしてるんだよ」マルクは笑って答えた。「……母さんの疲れが、少しでも減りますようにって。神様に、届くように」

 「まあ、嬉しいわ。私もお祈りしようかしら」母想いの言葉にマリスは喜び、彼の隣に並んで祈りを捧げた。

 どうか明日もこの子が幸せでありますように。この穏やかな日々が、永遠に続きますように——


 日々の仕事は苦しく、貧しさは骨身に沁みた。

 それでもマリスは幸せだった。


 この苦しみには、意味がある。

 たとえ明日の食事がなくとも。体が砕けるように痛んでも。

 マルクが生きている。

 それだけで、マリスは満たされていた。





 よく晴れた日のことだった。


 その日は教会から施しがあり、マリスは二人分の芋を家に持ち帰れることになった。

 腕いっぱいの芋は重労働を終えた体に重く、それがむしろマリスの胸を躍らせた。

 今日はマルクにお腹いっぱい食べさせてあげられる。煮て柔らかくしてやろうか、それとも潰して塩を振るだけでも喜ぶだろうか——

 マルクが驚き笑う顔を想像して、マリスはそわそわとした気分で家路を急いだ。


「ただいま、マルク。これ、司祭様にいただいたんだけど——」


 古びた木製の扉を開け、いつものように帰宅の挨拶をする。

 だけど続く言葉は途中で途切れた。

 普段なら扉を開けば聞こえる、『おかえり』の声がなかった。



 小さな家の真ん中で、マルクが天井から首を吊られていた。



「——————————ぇ?」


 ほとんど息のような声が、喉の奥から抜け出た。

 足元でごとりと音がした。腕に抱えた芋が落ちた音だった。


「…………マル、ク……?」


 次いで落ちた声が、しんと静まった室内に響いた。

 返事はない。

 ただ土気色の肌が、光をなくした瞳が、二人の暮らした家の床をじっと見下ろしていた。


「……え、……マルク?」


 一歩踏み出す。

 その足に落とした芋が当たって、壁まで転がっていった。

 口角が引き攣る。視界が大きく揺れる。腹の底がないまぜになって、胃から喉へと何かが逆流するような感覚がした。

 だらりと垂れ下がった息子の姿が、やっと脳内で像を結んだ。


「——マルク、マルク!? いやぁ、マルク……っ!」


 叫んで、駆け出した。

 家の真ん中、吊るされた体の真ん前で、マリスは混乱し声を荒げた。

 名前を呼ぶ。

 返事はない。

 手足はだらりと落ち、近づくと微かに糞尿の匂いがした。

 開いた戸から風が入り込んでも、体はぴたりと静まり動かない。

 ぎゅうと縄に絞られた首が苦しそうだった。


「ああ、ああ、マルク。待っててね、今下ろしてあげるから……!」


 助けてあげねばと、その小さな体を下ろそうと縄に手を伸ばす。

 届かない。

 側に転がっていた椅子を立ててその上に上り、結び目が硬くて簡単には解けないことにそこで気づいた。


 何か、切る物を。

 ぐちゃぐちゃになったままの頭で、農作業に使った小刀をまだ腰に下げているのを思い出した。

 ピンと張った縄を切る。

 その重さに耐えきれず、マルクの体ごと床に倒れ込んだ。


「きゃあっ!」


 自分の体にどさりとのしかかる愛しい息子の体。

 その体はあまりにも冷たく、あまりにも重かった。

 マリスはずしりと重いその体をなんとか起こし、もう一度名前を呼んだ。


「ねえ、マルク、マルク。嘘でしょう。こんなの、冗談でしょう……!?」


 頬を叩き、口元に手をやり、胸に耳を当てる。

 音はしない。

 頬を叩く力が強くなる。

 反応はない。

 名前を呼ぶ声が大きくなる。

 返事はない。


「ぁ、ああ……」


 ぐわんと視界が回った。

 はくはくと空気を噛んだ。

 握った手は土のように冷たい。

 血色の良かった丸い頬が枯れ草のようだ。

 呼吸の音がしない。

 心臓の音がしない。


「あぁあ、ぁ、……ぁあぁあぁぁ…っ!」


 母さん、と呼ぶ声がした気がして、顔を上げてもその瞳が光を映すことはなかった。

 体を抱き上げる。

 両の手が力なく地へ落ちた。

 その拍子、マルクの服の隙間から、青色の押し花がポロリと落ちた。


「……、」


 それは、マリスにも見覚えがあった。

 あの、古びた灌漑設備の裏の。

 この枯れた荒地に珍しく、色とりどりの花畑の。

 『母さん、見て』、と、いつか差し出された。淡い、青の、



「————————あああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」



 ——気づいたら、叫んでいた。

 雄叫びのようなその声が、どこか他人事のように自分の耳に届く。


「ああああぁあ、ああ、あ……ぁぁああああぁああああ…っ!」


 マルクの頭を胸に掻き抱く。

 きしんだ髪を腕の中でかき混ぜる。

 足元が崩れ落ちるような感覚がした。

 ぐらりと体が傾き、自分の体すら支えていられない。


「ああ、ぁああ、ああああぁぁあ……!」


 マリスは叫び続けた。

 窓の外では日が暮れ、夜の帳が降り始めても、ただ、ただ、叫び続けていた。


 自分の叫び声で喉が裂け、血が吹き出して死んでしまうのではないかと思った。

 それで良かった。

 いっそそうなればいいのにと思った。


 喉なんていくらでも裂くから。

 血なんていくらでも捧げるから。


 この子のためなら。

 この子がもう一度目を開けてくれるなら。


 何だってしようと思った。

 何だって捧げようと思った。

 マルクが生きていてくれるなら、

 どんな苦労だってしようと思ったのに。


 冷たくなった体が、マリスの腕の中で天井を見上げていた。

 あの日、マルクが何を祈ってそこを見上げていたのかを、


 マリスはやっと、理解した。

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