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よく晴れた日のことだった。
昨夜は久方ぶりの雨が降り、マリスたち開拓者は幾分嬉しそうな顔で畑へと出た。
量こそ少なかったが、少し水を含んだ畑はひび割れたそれよりもよっぽど耕しがいがある。
彼らはいつもより懸命に畑に向かい合った。
「マリス、ちょっといいか? 穀物の管理のことで話があるんだが——」
マリスがそう声をかけられたのは、太陽がてっぺんにさしかかるころだっただろうか。
日に焼けた肌に汗を浮かべる彼は、この村では一番年配で、開拓者たちのリーダーのような役割を担っている男だった。
そんな彼に声をかけられ、マリスはマルクに「少し休憩してなさい」と言い残して、彼と共に納屋へ向かった。
それは、ほんのわずかな時間だった。
話を終え、納屋から出たマリスの耳に、けたたましい破壊音が響いた。
マリスは驚いて、音の鳴るほうへ目を向けた。
畑の隅、水路の先。灌漑設備のある方向だった。
畑作業をしていた他の者たちも、その手を止め視線を上げる。
「————マルク!」
声を上げた。
マリスの視線の先には、瓦礫の下に埋もれて動けなくなっている息子の姿があったからだ。
駆け出す。
「マルク、マルク! いやぁ、マルク!」
名前を叫ぶように呼べば、瓦礫の下の小さな塊が返事をするように動いた気がした。
他の開拓者たちもまた、遅れて音のほうへ足を向ける。
ぬかるんだ土に足を取られて転びそうになる。
構わない。駆ける。
「——マルク、大丈夫!?」
やっと瓦礫の元へ辿り着く。地に倒れたマルクの上に、古びた木片が折り重なっていた。
そばに膝をついてやっと、それが灌漑設備の一部だと気づいた。朽ちかけていた木枠と石組みが外れ、水門を支えていた梁が折れている。
「おい、大丈夫か!?」マリスの後ろから集まった男たちが、用心深く木片をどけた。
「誰か、医者を呼んでこい!」誰かが叫ぶのが聞こえる。
やっと顔を出したマルクは、砕けた柱で引っ掻いたのだろうか、頬には大きな傷ができ、体には打撲の跡が残っていた。
「……母、さ…っ」
「…っマルク、動いちゃダメ! 大丈夫よ、今お医者様が来てくれるから……!」
マリスの必死の呼びかけに、マルクは薄らと目を開け、浅い呼吸で母の名を呼んだ。
その目は虚ろで、この状況をどこまで把握しているのかすらわからない。
せめて意識だけは失わせてはならないと、マリスは懸命に声をかける。
「母さ…っ、痛い、痛いよ……!」
「大丈夫、大丈夫よマルク。ほら、母さんの手を握って…!」
声だけは明るく、マルクを励ます。
だけどそんなマリスにはきちんと見えていた。
血に濡れた脛。裂けた皮膚の奥から、折れた骨が外に突き出ているのを。
「……ダメだ、骨が見えてる」
「壊死しちまったら、足ごと切っちまわねえと死んじまうぞ」
マリスの背後で、仲間たちがぼそぼそとそう話し合う声が聞こえた。
『死』。
その言葉に、マリスは体の芯から冷えていく感覚がした。
強く握られた手のひらが、途端冷たく感じられる。
遠く耳鳴りがする心地がした。
「おい、医者の先生が来てくれたぞ!」
どこかに飛びかけていた思考が、その言葉で返ってくる。
集まっていた人々は道を開け、医師はマリスの隣に膝をついた。
全身の打撲跡、蒼白な表情、それから血に濡れた足を診て、医師は眉を深く寄せる。
誰もが固唾を飲んで見守る。
だけど下された診断は、やはり容赦のないものだった。
「このままでは感染が広がり、命に関わる。壊死する前に足を切断するしかない」
周囲にどよめきが走る。
マリスは胸を引き裂かれたかのような痛みに襲われた。
命に関わる。
死ぬ。
誰が?
——マルクが?
その言葉にマリスは、夫が死んだ時のことを思い出した。
遺体で戻った夫の、冷えきった手。
愛する者を失った、孤独の夜。
幼子を抱いて、働き口を探しても拒否されるだけの毎日。
頼るものもない現実に、いきなり突き落とされた恐怖。
あの日々がマリスにとって、どれだけ恐ろしいものだったことか。
——また、あれを味わえというのか。
幼いマルクの寝息だけが、かろうじて自分をこの世に縫い止めていた日々。
そうだ、それでも今日までやってこれたのは、マルクがいたからだ。
それを今度は、マルクまで失うかもしれないなんて——
マリスの胸の奥で、何かが決壊した。
「……切ってください。この子の脚を」
考えるより先に、口が動いた。
医師は眉を寄せたまま、マリスの言葉を待った。
「っか、母さん…!?」
「お願いします、この子を助けてください。教会への寄進は、必ず、必ずいたしますから……!」
声が裏返る。医師は目を瞠った。
畑も、飢えも、税も、どうだっていい。
この子まで失ったら、自分はもう立てない。
この子が助かるのなら、私はなんだっていい。
「……だめ、だよ…」
と、覚悟を決めるマリスの耳に、掠れた声が届いた。
マルクが痛みを耐えるような表情で、マリスを懸命に見上げている。
「ダメだよ、母さん……足、なくなったら…僕、手伝い、できなくなる……!」
蒼白な顔で必死に首を振り、途切れ途切れの声で悲痛にそう訴える。
「母さん、ひとりで、畑をやるの……? そんなの、無理だよ……。今だって、あちこち体、つらいんでしょ……?」
「無理なもんですか! あなたがもっと小さいときは、私一人であの畑を耕してたのよ!」
「……治療費だって、バカにならない」
「そんなもの、もっと働けばいいだけよ。あなたのためなら、母さん、ご飯だっていらないわ」
「……っ」
マルクはそこで、唇をグッと噛み締めた。丸い目は細められ、目尻から涙が滲む。
やがてマルクは、言うまいとしていた言葉を喉から絞り出すようにして、こう言った。
「働けなくなっても……僕の食う量は、変わらない……。母さんの、負担になるだけなんだよ……!」
その言葉は刃だった。
こんな幼い子が、自分の食い扶持が母の首を締めると考えている。
「違う!」
マリスは思わず叫んだ。
「そんなこと、どうでもいいのよ! 働けなくなっても、生活がもっと苦しくなっても……!」
言葉にしたら次から次へと涙が溢れた。
叫び声が嗚咽に変わる。
「母さんを一人にしないで……!」
夫を失ったあの日の孤独が、濁流のように押し寄せる。
あれをもう一度味わうくらいなら、足を一本失うほうがどれほどましか。一人で息子の分まで働くことの、何が苦痛か。
マルクは一度目を瞠り、何度か口を開閉したあと、黙って一つ頷いた。
マリスは顔を上げ、医師を見た。涙で滲んだ視界のまま、はっきりと言う。
「……処置を、お願いします」
マリスの覚悟が伝わったのか、医師は一つ頷き、開拓者たちに手伝うよう指示を出した。
バタバタと走り出す音。
忙しなく動き回る仲間たちの足音を聞きながら、マリスはマルクの手を握り続けた。
「誰か、担架を持ってこい!」
「湯を沸かせ! 布も持ってこい、清潔なものだ!」
「押さえる者が要る。三人は来い、力のある者だ」
「痛み止め、持ってきました——!」
「台を空けろ! 邪魔なものはどけろ!」
「母さん……」
不安そうに、マルクが呟いた。
「大丈夫、大丈夫よ……」
何が大丈夫なのか、自分でもわからないまま繰り返す。
「急げ! 少しの遅れが命に関わるぞ!」
医師の声が、最後に強く響いた。
——そして、刃がマルクの脚に振り下ろされた。




