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しかし、マリスの穏やかな日常は再びひっくり返ることとなる。
聖女が亡くなったのだ。
詳しい事情は、この辺境領の、そのまた田舎の開拓地には届いて来なかった。教会の司祭も、ローデリックも詳しくは語ろうとしなかったからだ。
ただ「神の御許へ召された」とだけ告げられ、教会の鐘が長く鳴った。人々は戸惑いながらも膝を折り、祈りを捧げた。
その日を境に、開拓地の空気はガラリと変わった。
毎年豊作だった畑の芽吹きが遅くなり、葉の色は薄く、穂の膨らみは弱くなっていった。
土は次第に硬くなり、水路を流れていた水は濁っていく。しっかりと栄養を含んでいた畑が、今では痩せ細りひび割れを見せる。
聖女の加護がなくなったのだと、マリスはやっと気づいた。この地から聖女の加護がなくなるということが、どういう意味を持つのかということを。
作物の実らない呪われた土地——かつてこの一帯がそう呼ばれていたことを、マリスは今更思い出した。
収穫が半分にも満たない年が続いた。
それでも納めるべき税は変わらない。
豊作の折には軽く思えたその税が、重石のようにのしかかる。他所ではもっと持っていかれると聞いていたはずなのに、今はその良心的だったはずの取り分さえ、容赦なく感じられた。
納屋の俵を数えるたび、マリスの胸は冷えた。
税を差し出せば、残るのはわずかだ。冬を越える分は足りるのか、それすら不安だった。
痩せた土を何度も耕し、祈るように種を蒔く。
指先は割れ、背は悲鳴を上げる。食卓に並ぶパンは日に日に薄くなっていった。
腹が空いて眠れない日が増えた。
腹が鳴るのをマルクが必死に隠そうとする日が増えた。
不作が二年続いた頃、ついにマリスたち開拓者は、ローデリックに減税を願い出ることにした。
そうでなければ、もう自分たちが食べる分すら確保できないと思ったからだ。
それに、ローデリックは自分たちに居場所を与えてくれた聖人のような御方だ。真剣に伝えれば、きっとわかってくれるだろうと誰もが思った。
開拓者たちを屋敷に迎え入れたローデリックは、とても真摯に彼らの懇願を聞いた。
だが、返ってきた応えは、彼らの期待するものとは違っていた。
「皆には本当にすまないと思っている。しかし……すまないが、今の段階で税を下げることは難しい」
低く、誠実な声だった。ローデリックは目を伏せ、沈痛そうな面持ちでそう言った。
「ど、どうしてですか!?」一番若い男が、狼狽して尋ねた。
ローデリックは眉を下げたままマリスたちに視線を寄越すと、
「聖女様に、何度もお越しいただいたことは君たちも知っているだろう? その折、神殿に相応の寄進を約していてな。私一人の裁量で減らせるものではないのだ」
「そんな……!」
申し訳なさそうに言うローデリックに、マリスたちは言葉を失った。
確かに、この土地では何度も聖女を呼び、祈りを捧げてもらっていた。何年にも渡って続いた豊穣は、彼女の加護によるものだ。教会も医師も、神殿との繋がりがあったからこそ与えられた。
そしてその恩恵を受けてきたのは、紛れもない自分たちだ。誰も反論できなかった。
「もちろん、ここ数年の不作については私も問題視している。新しく立った聖女様にここにお越しいただけるよう、神殿に打診中なんだ。ご多忙のようで、なかなか返事は貰えていないが……」
ローデリックの言葉は、言葉の上では希望のように見えた。
だけどその渋い表情から、神殿の反応は芳しくないのだろうということは容易に読み取れた。
「私も、聖女様にお越しいただけるよう全力を尽くす。だからそれまで、皆も辛抱してほしい」
「……」
ローデリックはそう言うと、灰色の頭もこれでもかというくらい深く深く下げた。
そこまでされてしまったら、マリスたちも何も言えなくなる。
落胆と、無念さと、聖女というほんの少しの希望を持って。マリスたちはローデリックの屋敷を後にした。
ローデリックの元を訪ねてから、マリスたちはわずかな希望を胸に、毎日の農作業に精を出した。
畑へを耕す。種を蒔く。その繰り返し。
雨は降らない。
芽は出ても伸びきらず、実りはまばらで穂は軽い。
それでも耕す。種を蒔く。
雨は降らない。
また繰り返す。
荒れた大地を何度も掘り返したからか、気づけば作業道具もボロボロになっていた。
「こんなの使い続けたら怪我するぜ」若い男が柄のひび割れた鋤を持ち上げて言う。
「ローデリックさんに修理屋を手配してもらいましょう」痩せた女が歪んだ鎌を指差した。
「言ったんだけどな。修理を頼む金もねえって、平謝りされちまってよ……」年嵩の男が苦笑いで首を振った。その手には、車輪の軋んだ荷車がある。
「……」
そんな仲間たちの会話を聞きながら、マリスもまた擦り切れた網を持つ。
道具が壊れようとも、畑を耕さなければならぬ。
腹が鳴っても、疲れが抜けず眠りも浅くても。
そんなつらい日々の中、マルクの笑顔だけがマリスの支えだった。
元からよく母の手伝いをしてくれるよき息子ではあったが、年のほどが十を超えたあたりから、さらにマリスを心身ともに支えてくれた。
泥だらけの手で鍬を握り、転び、立ち上がり、母を振り返る。痩せた畑の中で、マルクだけはよく笑った。「母さん、見て!」痩せた小麦の穂も、彼がそう言って差し出すのなら、マリスには宝のように見えた。
「母さん、見て!」
その日マルクがそう言って差し出したのは、淡い青の野花であった。
マルクの小さな手のひらに収まるそれはとても小さいが、だけどとても美しい色をしている。
「あら、綺麗なお花ね。どこで見つけたの?」
「あっちの奥に花畑を見つけたんだ。まだまだ、たくさん咲いてたよ」
マルクはそう言って、畑の向こうにある灌漑設備を指差した。
促されるようにその裏側へと回ると、なるほどたしかに色とりどりの花の咲いている場所があった。
鮮やかな赤、淡い青、汚れのない白。痩せた大地の色とは対照的な、美しい花々。
この枯れた土地にもまだこんな花が咲くのかと、マリスは思わず笑みをこぼした。
「このあたり、古びて危ないからってあんまり近寄らなかったんだけど、さっき近くを通った時に見つけてさ」
確かにこの場所は、聖女の加護がなくなってからまともな修理もできず、老朽化したまま放置されている。今も二人の背後で、石組みは崩れかけ、水門は軋んで半ば傾いていた。
ここは危ないからとマルクに言い含めていたのも自分だ——けど。
「これ、母さんにあげるね」
マルクが、そう言って青い野花をマリスに差し出した。
土で汚れた顔いっぱいに、木漏れ日のような笑顔が広がる。
その笑顔に、目一杯上げられた小さな花に、胸の奥がジワリと熱くなる。
細い肩。まだ幼い背中。それでも懸命に畑を手伝おうとする姿。
どうしようもない愛おしさでマリスの心はいっぱいになった。
腹は減る。体は重い。明日の実りの保証もない。
——それでも、この子が生きて笑ってくれるなら。
「……ありがとう」
マリスは、ボロボロになった手でその花を受け取った。
声が掠れたのを、マルクは気づいただろうか。
——この子のためなら、私はどれだけだって頑張れる。
飢えも、疲れも、痛みも。今ならすべて引き受けられる気がした。
「……帰ったら、このお花で押し花でも作ろうか」
「押し花? どうやって作るの?」
「それはね――」
二人、手を繋いで帰路につく。
笑顔に包まれたその姿は、ただお互いへの想いだけが溢れていた。
その背を見送るように、水路が軋み、かすかな水音を立てていた。




