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マリスは、サンクティア王国の西の領、鉱山の麓に広がる街で生まれた。
鉱山資源によって栄えたその街は、王都から距離はあるものの、王国でも有数の栄えた都市であった。その街のパン屋の娘であった彼女は、貧しさとは無縁とは言えぬまでも、飢えを知らずに済む暮らしであった。
一介の町娘として、平凡ではあるが幸せな暮らしをしていた彼女は、焼き上げたパンを届けに行った先でひとりの鉱夫と出会い、結婚に至った。
鉱山の街で鉱夫と結婚など、ありふれたよくある話だ。だけど男は実直で腕もよく、危険な仕事ではあったが収入は安定していた。質素ながらも整った家を与えられ、毎日の食事に困ることはなく、冬には暖炉の火を惜しみなく焚くこともできた。やがて一人息子をもうけ、マルクと名付けた。
慎ましくも満ち足りた日々。それはどこから見ても、幸せな家庭そのものだった。
だが、順風満帆に見えたマリスの人生は、ある日突然終わりを告げる。
夫が坑道の崩落事故に巻き込まれ、亡くなったのだ。
それは鉱山の街ではありふれた事故であった。
だけどどこか自分には無関係だと思っていたマリスは、突然の不幸に打ちのめされた。
その頃には両親もすでに世を去っていた。頼れる実家もなく、息子マルクはまだ幼い。残された蓄えもすぐに底をついてしまうだろう。働こうにも、幼子を連れた女を雇ってくれる場所もない。マリスは途方にくれた。
ほどなくして、家の明け渡しを求められた。鉱山から与えられていた住まいだったからだ。
小さな息子を抱え、女一人でどこへ行けばいいと言うのか。マリスは、世界が自分一人を突き放し、孤独の底へ落とそうとしているように感じられた。
その折だった。
「——君が、マリスくんかい? ご主人からよく話を聞いていたよ」
重々しい靴音を鳴らしマリスの家を訪ねたのは、ローデリック・ハルツ——夫の勤めていた鉱山のオーナーだった。
豊かな体つきを柔らかな外套に包み、灰色の髪はしっかりと整えられている。
一目見ただけで、自分とは身分の違う人物だとわかった。
マリスは、突然の上役の訪問に、ついに強制的に追い出されてしまうのかとマルクを自分の背に隠した。
しかし、マリスの耳に届いたのは、それとは真逆の言葉だった。
「ご主人のことは、本当にすまなかった。此度の事故は、私の監督不行き届きだ」
「……え?」
深く下げられた頭に、マリスは混乱して拍子の抜けた声を上げた。
沈痛な声。申し訳なさげに下がった眉。その横顔には悼む色すら浮かんでいるように見えた。
——こんな雲の上のような御方が、夫の死を悼んでくれている?
驚くマリスを気にした風もなく、ローデリックは懐から革袋を取り出し、卓上に置いた。
「少ないが、当座の足しにするといい」
「……っ!?」
袋の中には、銀貨が入っていた。マリスは思わず言葉を失う。職務中の事故とはいえ、そこまでの補償を受けられると思っていなかったからだ。
ローデリックは静かに続けた。
「本来ならこの家も引き続き使ってくれと言いたいところだが——流石にそれは規則だ。そこまでは庇ってやれなくて、すまない」
「そ、そんな。そこまで烏滸がましいお願いはできません。私の方こそ、すぐに出ていくことができなくて……」
続け様に自分に都合のいいことばかり言われるものだから、マリスは現実が信じられなくて、狼狽してマルクの顔を何度も覗き込んだ。
幼い息子は何を言われているのかもよくわからないというように、首を傾げるばかりだった。
「とはいえ、私も鬼ではない。実は今日は、君に働き口を紹介するために来たんだ」
「働き口、ですか?」
「ああ。もしも行く宛がないのなら、私の治める農地で働かないか?」
それはマリスにとって、神から差し伸べられた救いの手のようだった。
「西に、広大な森があるのを知っているかい? 実は今、そこを農地として開拓しているんだ」
「知ってます……けど、あのあたりは呪われた土地で、農耕なんてできたもんじゃないって——」
「それが、可能になったんだ。聖女様の、加護のおかげでな」
聖女の加護——その言葉に、マリスは得心がいったように頷いた。
最近新たに立った聖女様は、歴代聖女に比べて、とてつもなく大きな聖力を持っているのだという。
その『奇跡の力』は素晴らしく、一人で国全てを守れる結界を張れるだとか、死んだ人間すら生き返らせることができるだとか——どこまで本当かわからない噂話は、王都から遠く離れたこの土地にも伝わってきていた。
「聖女さまの祈りによって、呪われた土地は浄化され、肥沃な土地へと生まれ変わった。ただ——なにぶん呪われた土地だと、働き手が集まらなくてね。若い労働力を、私も探していたのだよ」
ローデリックはそう言うと、ちゃめっ気を込めたように片目をつぶって笑みを浮かべた。
その表情に、マリスもやっと緊張が解け、クスリと笑う。
「小作ではあるが、真面目に耕せば、十分に暮らしていけるだろう。もちろん、無理にとは言わない。だが——私も、ご主人の忠義に応えたいのだよ」
ローデリックは静かにそう言って、真っ直ぐにマリスと——マルクの目を見つめた。
その姿は、マリスの目には大きく、揺るぎなく映った。
すべてを失ったはずの自分。そんな自分でも、この人の元でならやり直せるかもしれない。幼い息子も、この人の元でなら育てきれるかもしれない——
そう思ったマリスは、その瞳を見つめ返し、強く、強く返事をした。
「——はい。よろしく、お願いします……!」
*
辿り着いた開拓地は、『開拓地』とは思えないほど豊かな場所だった。
切り拓いたばかりの荒野にはすでに青々とした畑が広がり、整えられた水路には澄んだ水が潤沢に流れている。
畑の向こうには小さな教会が建っており、司祭と医師が派遣されている。年に何度かは聖女様もおいでになって、豊穣の祈りを捧げてくれるらしい。聖女の加護があると聞いてはいたが、誇張ではなかったようだ。
「怪我をしても診てもらえる。こんな開拓地、他にゃあない」
開拓者仲間のひとりが、誇らしげにそう言った。彼もまたマリス同様、路頭に迷っていたところをローデリックに拾われたらしい。
彼だけではない、この地に集う者たちは皆、どこか事情を抱えた者ばかりだった。
家を失った者、身寄りをなくした者、働き口を追われた者——。
ローデリックは、そんな世界のはぐれ者たちに、住まいと職を与えていた。
「ここじゃあ、真面目に働けば食いっぱぐれはない」
「聖人みたいな人だ」
「そりゃ神殿も聖女様もお力を貸すわけだ」
口々にそう語る。
ローデリックが神殿に多額の寄進をしているのを、街では癒着だと貶す声もあった。
だけどそれは違うと、マリスはここに来て思い知った。
ローデリックは、マリスたちのような者も救われるよう、ただ祈っているだけなのだ。
神に祈り、自分の利益を躊躇いなく寄付し、得た加護すら他人のために使う——聖人のようだと囁かれるのも無理はない。
マリスは、ローデリックの元で第二の人生が歩める幸せを静かに噛み締めていた。
マリスに与えられた区画は想像以上に豊かな土壌で、秋には驚くほどの小麦がとれた。
これほど実れば、定められた税も山のような収穫のうちの一部に過ぎない。
「他所じゃあ、半分は持っていかれるのよ」
古参の開拓者は、マリスにそうこそりと教えてくれた。それに比べれば、ここはあまりに良心的だった。
息子のマルクも、よく働いた。
まだ幼いというのに、細い腕で麦束を抱え、転びながらも笑って立ち上がる。泥にまみれた頬で「母さん、見て」と誇らしげに穂を掲げる姿に、マリスは何度も目を細めた。
——あの御方のおかげだ。
マリスは心の中で、ローデリックに感謝を捧げた。
ローデリックがいなければ、今ごろ自分と息子はどこでどうしていただろう。そう思うたびに、胸の奥が熱くなった。
黄金の麦畑の中、楽しそうにマルクが笑う。
マリスは、再び訪れてくれた息子との穏やかな日常を、ただただ噛み締めていた。




