14.最後の夜①
「ルナ……」
「ディーン……!」
燭台の灯りだけが揺れる、夜の祭祀室。
その真ん中で、ルナとディーンは互いを見つめ合った。
澄んだ空色の瞳が、目の前の少女を捉える。
長い黒髪。すっと伸びた背筋。少し垂れた眉。
自分のよく知る姿、表情、声で、ルナはディーンの名前を呼び返す。
だが——
一つだけディーンの知るルナとは、大きく違うものがある。
あの瞳——血を塗り固めたような紅の瞳に、ディーンの脳裏に再び記憶の断片が溢れ出した。
礼拝堂。
自身を覆う黒い靄。
戸惑うルナの表情。
魔女裁判。
(俺は……)
断頭台。
項垂れる黒髪の少女。
振り下ろした聖剣。
宙に舞う長い髪。
『愛してる』と、囁く声。
(俺は、何を……!)
この数年の記憶が、ディーンの脳内を一気に駆け巡る。
思い出して、絶望した。
今まで自分が何をしていたのか、ようやくディーンは理解した。
捕縛するために掴んだ腕の細さ。
断頭台の上から向けられた、絶望に濡れた瞳。
『…………ッどう、して……?』
その問いに何も答えず、躊躇いもなく聖剣を振り下ろしたこと——その全てを。
(そうだ。だから……)
目の前のこの瞳が、紅く染まっているのは——
(俺の、せい……?)
「……っ!」
頭の奥がぐらりと揺れる。
喉元に苦いものが込み上げて、腹の底を掻き毟られるような感覚に襲われた。
それだけじゃない。
その後も自分は、いったい何人の人を斬った?
この、神に授けられた聖剣で。
無実を訴える罪人たちの顔が、今更鮮明に思い出された。
カトリナが消えた場所へ目を落とす。
握り込んだ聖剣が、急に血に濡れているように見えた。
「…………俺は、」
「ディーン!」
ぐらり、視界が傾く。
愕然とするディーンに、ルナの声が差し込まれた。
「後悔はあとよ。あなたの討つべき相手を、今度は間違えないで!」
「——…!」
ルナは紅い瞳で真っ直ぐにディーンを見据え、そう言い放った。
その瞳は、姿は、もう『魔女』のそれではない。
いつか騎士団に向かって聖女の威厳を示した、あの時のようで——
「——ああ!」
ディーンは短く答えると、先ほどまで背後に庇っていたオーギュストへと向き直る。
「……今度こそ、間違えない」
そして、自分の心を縛った者——そのすべての元凶を真っ直ぐに見据え、聖剣の切先を向けた。
向き合ったオーギュストはわずかに眉を顰め、そのこめかみには一筋の汗が滲んでいた。
「馬鹿な……!」
笑みを消したオーギュストと向き合いながら、ディーンは今度はルナをその背に庇うように、じりと足を動かす。
聖剣を構え、いつでも飛び出せるように姿勢を低くした。
(形勢逆転——と言いたいところだが)
だが、踏み込もうとした足が直前で止まる。
視界は晴れている。なのに心の奥底には、まだ黒い糸が絡みついて離れない。
じっとりとした嫌な感覚を誤魔化すように、視線だけは鋭く相手を睨み上げた。
ルナもまた、ディーンの背後でその紅い瞳をじっとオーギュストに向けていた。
「——ふふっ」
しかし、そんな二人を嘲笑うように、オーギュストは微かな笑みを漏らす。
「……何がおかしい」
「そうですねえ……強いて言うなら、すべて、でしょうか。私も舐められたものだと、そう思ったのですよ」
冷静さを取り戻した声が、ゆったりとそう語る。
藍の瞳をゆっくりとディーンへ向けた。
その表情にはもう、焦りも動揺も浮かんでいなかった。
そして、低く声を落とす。
「——『ディーン』」
「……っ!?」
背筋に怖気が走った。
「命令です。『こちらに戻りなさい』」
「何を——…っ」
オーギュストが言った、その瞬間。
身体が強張る。
心臓を何かに鷲掴みにされた。
視界の端に、黒い靄が滲んだ。
「ちっ——!」
ディーンは抗うように聖剣を振るった。
だが靄は消えない。むしろ刃の軌跡を呑み込みながら、一気に視界を覆っていく。
(ふざけるな、今、やっと——)
「っ、ル……!」
「ディーン!」
言いかけた名前は、最後まで声にならなかった。
鮮やかな空色の瞳から、みるみる光が失われていく。
「そ、んな……」
再び翳りを落とした瞳に、ルナは愕然と呟く。
そんな彼女にディーンは再び向き直離——聖剣の切先を、ルナへと向けた。
(これでも、だめだというの……!?)
『人形』へと戻ったディーンと対峙しながら、ルナは奥歯を噛み締める。
睨み合う二人の間に、クスクス、と愉快そうな笑い声が落ちた。
「——驚きましたよ。まさか、あの宝玉を壊されるとは」
オーギュストだった。
その藍の瞳を細め、穏やかな笑みを浮かべ続ける。
「ですが——残念でしたね。あの日、この呪いのために『聖女ルナ』が注いだ聖力は、そんな簡単には消せはしない」
「……何ですって?」
ルナがぴくりと眉を顰めた。
オーギュストが、その笑みを深くする。
「君自身の祈りが、彼をこれほど強く縛ったのですよ」
「……っ!」
その言葉が、ルナの胸を鋭く突き刺した。
そうだ、ディーンを縛っているのはオーギュストがかけた呪い。だが——
その呪いをより強固にしたのは、ルナの祈りそのものだった。
あの日の光景が蘇る。
ディーンを救うために、必死に祈り続けた自分。
その祈りこそが、今なお彼を縛っているのだ。
「哀れですねえ、あなたも、カトリナも。結局あなたたちの物語はすべて、無駄だったわけです」
歯噛みするルナを前に、オーギュストまたクスクスと喉を鳴らした。
「あの宝玉はあくまで私の力を増幅させているに過ぎない。一時的に綻びを作ることはできても——ただ、それだけですよ」
そして、勝ち誇ったように高らかに嗤う。
傲慢なその声が、仄暗い祭祀室に響いた。
「……ずいぶん余裕ね。これでも私は、国中を騒がせた『魔女』なのだけれど」
高らかな笑い声を聞きながら、ルナは静かに言った。
「そんな私を相手に、あなたとディーン、たった二人で太刀打ちできるのかしら?」
そう挑発しながらも、ルナはわずかに一歩退いた。
黒猫がルナの足元で毛を逆立てる。
「余裕など、そんなものありませんよ。ただ一つだけ、仮説ならありますがね」
「仮説?」
「ええ。……ルナ、君の力はたしかに強大だ。カトリナを通じて、それは身に染みるほど理解したつもりです」
「……褒めてもらえて、嬉しいわ」
オーギュストの言に、ルナは警戒の色を濃くする。
そんな彼女に、オーギュストはいっそ悠然とした様子で言葉を続けた。
「妙だと思いませんか? これほどの力を持つ『魔女』が、恨みを抱いている私の元へ、どうして一向にやってこないのか」
「……なんの話かしら?」
「ですから、仮説の話ですよ。王国を揺るがす『魔女』の噂は、もうずっと前からあった。だけど君はいつも、私とは無関係の者たちへその力を貸すばかり。魔女の正体がルナ、君なら、一番に私の元へ来るのが道理では?」
「自惚れないで。私はすべての人間を愛している。恨みを抱く者なら誰にでも、この力を貸すだけよ」
「ふふ。それも本心なのでしょうがね」
そこまで言うと、オーギュストはぞっとするほど冷たい笑みを浮かべた。
「だけどここで、仮説は確信に変わる。ルナ、『聖女』だった頃の君は、願い主の血を口にしなければ『奇跡』を起こせなかった。——『魔女』となった今も、必要なのでしょう? 復讐を望む者、その者自身の血が」
「……っ」
断言するように言い切られ、ルナは思わず押し黙る。
沈黙はすなわち肯定だった。
藍色の瞳が愉快げに弧を描く。
「ならばあなた自身など、最初から恐れるに足りない」
オーギュストは言うと、片手を静かに持ち上げ——
ルナを真っ直ぐに指さし、ディーンに命じた。
「さあ、『勇者』よ。……魔女を、斬りなさい」
「————了解」
ゆっくりと持ち上がった聖剣の切先が、ルナへと向けられる。
先ほどまで確かに自分を見ていた空色の瞳には——
もう、何の光も残っていなかった。




