13.ディーン・マリウス・ヴァレンティス⑫
それからディーンは、時折その温室へ足を運ぶようになった。
王国各地を飛び回る身では、その回数も指折り数えられるほどだったが。
温室を訪れるたび、理由の分からない懐かしさが胸に満ちた。
誰もいない向かいの席を見つめれば、名も知らぬ女の声が蘇る。
なぜ何度もここへ来るのか、自分でも分からない。
ただ、この場所にいる間だけは、心を覆う黒い靄が僅かに薄れる気がした。
温室の巫女は、時折かつてここにいた女の話を聞かせてくれた。それに「そうだったか」と相槌を打ちながら、頭の中では必死にその記憶を手繰った。
長い遠征へ出る際には、巫女が薬草を詰めた匂い袋を持たせてくれたこともあった。爽やかな香りを嗅ぐたび、風に揺れる黒髪が脳裏を掠めた。
『……ディーン!』
その声も、笑顔も——
いつしか、黒靄でも完全には消し去れないほど鮮明になっていた。
……だが。
そんな日々も、あっけなく終わる。
「……ディーン様。『勇者』としての、任務のお時間です」
遠征から帰還したばかりのディーンに、今代聖女カトリナは言った。
「ここには魔女の残滓が残っています。命令です、処分なさい」
「——了解」
視界が、黒く淀んだ。
*
「ま、待ってください。おやめください、勇者様。ディーン様——!」
巫女の制止にも目を向けず、ディーンは聖剣を振り下ろした。
閃光が温室を裂く。
ガラス壁に亀裂が走り、次の一撃で支柱ごと崩れ落ちた。
『魔女』の遺したもの。その呪いの残る場所。それは、排除すべき悪だ。
鉢が砕け、草花が瓦礫の下へ呑まれ、苦い薬草の香りだけが辺りに散った。
思考を侵す靄が、一振りごとにさらに淀んでいく気がした。
「……任務、完了した」
グシャリと音を立てて崩れる温室を背に、淡々とそう告げる。
満足したように笑うカトリナにも、泣き崩れる巫女の姿にも、何も感じない。
——はずなのに。
壊れたカップ。踏み潰された薬草。散らばるガラス片。
その一つ一つが、どうしてか胸の奥にずしりと重くのしかかった。
巫女の泣き顔に、一瞬だけ黒髪の女の面影が重なった。
——それからディーンは、あの温室に足を向けることはなくなった。
温室そのものがなくなったのだから、当然と言えば当然だ。
だが仮に残っていたとしても、再びそこを訪れることはなかっただろう。
色を濃くした靄が胸いっぱいを満たして、お茶の苦味も、日差しに照らされる小テーブルも、すでに遠いものとなっていた。
今日も正義の名の元に、聖剣を振るう。
下された命令を、疑うことなく遂行する。
変わらない日々。違えることのない使命。
なのに。
——聖剣が、重い。
あの温室を処分した日から、戦いのたびに奇妙な感覚がつきまとった。
命令されれば身体は動く。敵を斬ることもできる。
それなのに、聖剣を振り上げるほんの一瞬だけ、腕が止まる。
まるで刃の先に、目には見えない何かが絡みついているかのように。
(何故だ……?)
ディーンには理解できなかった。
重量が増えたわけではない。自分の力が落ちたわけでもない。
ただ、命じられるがままに敵と対峙するたび、聖剣がずしりと重みを増し、一瞬、身動きが止まることがある。
しかしまた靄に思考を塞がれ、重いままの聖剣を振り下ろすのだ。
そうしてまた、次の命令が下される。
「カトリナが『魔女』に堕ちました。討ちなさい」
「——了解」
次に下された命令は、魔女となりオーギュストを襲うカトリナの討伐だった。
鏡を介して現れる彼女を、死角から待ち伏せる。
出てきたその痩躯を躊躇いもなく横薙ぎにした。
両断された身体の裂け目から、光の粒が溢れ出す。
目の前の女が何を叫んでも、どれほど絶望した顔をしていても。
ディーンの心は揺るがず、ただ静かにその姿を見下ろした。
また一つ、命じられた任務を遂行しただけだった。
カトリナに呪いの力を授けたという黒髪の魔女が現れても、焦る心の一つすらなかった。
次に討つ相手が現れた。
そうとだけ思い、魔女へと向き直る。
再び聖剣に手をかけた、直後。
「っディーン! 今はルナではない、カトリナを——」
オーギュストが叫んだ。
命令の書き換えに、ディーンはすぐさま反応する。
だが振り返った先、自分が先ほど斬ったカトリナは、もうほとんど光の粒となり消えかかっていた。
残った首だけを動かし、床に転がるオーギュストの大杖——その先端の宝玉へとしがみつく。
そして、最後の力を振り絞るように——
漆黒の宝玉へ、強かに噛み付いた。
『目を覚まして——ディーン様!』
悲痛な叫びが、脳に直接叩き込まれる。
それが耳に届くのと同時、鋭い音を立て、宝玉が砕け散った。
——バキンッ……!
漆黒の欠片が飛び散る。
蝋燭の灯りを受け、星屑のように煌めいた。
瞬間——記憶が、弾けた。
風に揺れる黒の髪。
緑の温室。
駆け回る子犬。
白花の咲く丘。
銀のナイフ。
オーギュストの笑み。
断頭台。
過去の断片が、煌めく欠片にいくつも映し出される。
その全てが一斉に繋がり、頭の中を満たしていた黒靄が内側から一気に吹き飛んだ。
「ディーン!」
オーギュストが叫ぶ。
誰かが息を呑む音が聞こえた。
音が戻る。
色が戻る。
痛みが戻る。
自分の呼吸が、うるさいほど大きく聞こえた。
光の粒となって消えるカトリナの姿が、今更はっきりと見えた。
薄い笑みを浮かべ、その姿が完全に消え去る。
血の匂いがする。
握っている聖剣の重さがしっかりと分かった。
(俺は——)
思考が戻る。
(俺は——何をしていた?)
愕然とする中、目の前に立つ黒髪の女と目が合った。
長い黒髪。
月光のように白い肌。
かつてとは違う色を宿した瞳。
——それでも。
胸の奥が、知っていた。
駆け回る子犬を追いかけ、笑っていた女。
あの丘でひたすら泣き続けていた女。
自分を友だと言った女。
そして——自分が、好きだった女。
——ああ、間違いない。
間違えるはずがない。
気づいたらその名前が、唇からこぼれ落ちていた。
「……ルナ」
その名を口にした瞬間、とうに消えたはずの腕の傷が焼けるように疼いた。
黒い靄が霧散する。
何年ぶりかも分からないほど久しぶりに、世界がはっきりと見えた。
背後でオーギュストが小さく舌打ちするのが聞こえた。
目の前の『魔女』は、そんなディーンを見つめ——
「ディーン……!」
昔と同じ少女の顔で、自分の名を呼んだ。




