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血濡れの魔女は夜と踊る  作者: ウミノリリオ
終章 器の勇者は夜明けを告げる

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13.ディーン・マリウス・ヴァレンティス⑫

 それからディーンは、時折その温室へ足を運ぶようになった。

 王国各地を飛び回る身では、その回数も指折り数えられるほどだったが。


 温室を訪れるたび、理由の分からない懐かしさが胸に満ちた。

 誰もいない向かいの席を見つめれば、名も知らぬ女の声が蘇る。

 なぜ何度もここへ来るのか、自分でも分からない。

 ただ、この場所にいる間だけは、心を覆う黒い靄が僅かに薄れる気がした。


 温室の巫女は、時折かつてここにいた女の話を聞かせてくれた。それに「そうだったか」と相槌を打ちながら、頭の中では必死にその記憶を手繰った。

 長い遠征へ出る際には、巫女が薬草を詰めた匂い袋を持たせてくれたこともあった。爽やかな香りを嗅ぐたび、風に揺れる黒髪が脳裏を掠めた。


『……ディーン!』


 その声も、笑顔も——

 いつしか、黒靄でも完全には消し去れないほど鮮明になっていた。


 ……だが。

 そんな日々も、あっけなく終わる。


「……ディーン様。『勇者』としての、任務のお時間です」


 遠征から帰還したばかりのディーンに、今代聖女カトリナは言った。


「ここには魔女の残滓が残っています。()()です、処分なさい」

「——了解」


 視界が、黒く淀んだ。



「ま、待ってください。おやめください、勇者様。ディーン様——!」


 巫女の制止にも目を向けず、ディーンは聖剣を振り下ろした。

 閃光が温室を裂く。

 ガラス壁に亀裂が走り、次の一撃で支柱ごと崩れ落ちた。

 『魔女』の遺したもの。その呪いの残る場所。それは、排除すべき悪だ。

 鉢が砕け、草花が瓦礫の下へ呑まれ、苦い薬草の香りだけが辺りに散った。

 思考を侵す靄が、一振りごとにさらに淀んでいく気がした。


「……任務、完了した」


 グシャリと音を立てて崩れる温室を背に、淡々とそう告げる。

 満足したように笑うカトリナにも、泣き崩れる巫女の姿にも、何も感じない。

 ——はずなのに。


 壊れたカップ。踏み潰された薬草。散らばるガラス片。

 その一つ一つが、どうしてか胸の奥にずしりと重くのしかかった。

 巫女の泣き顔に、一瞬だけ黒髪の女の面影が重なった。



 ——それからディーンは、あの温室に足を向けることはなくなった。

 温室そのものがなくなったのだから、当然と言えば当然だ。

 だが仮に残っていたとしても、再びそこを訪れることはなかっただろう。

 色を濃くした靄が胸いっぱいを満たして、お茶の苦味も、日差しに照らされる小テーブルも、すでに遠いものとなっていた。


 今日も正義の名の元に、聖剣を振るう。

 下された命令を、疑うことなく遂行する。

 変わらない日々。違えることのない使命。

 なのに。


 ——聖剣が、重い。

 あの温室を処分した日から、戦いのたびに奇妙な感覚がつきまとった。

 命令されれば身体は動く。敵を斬ることもできる。

 それなのに、聖剣を振り上げるほんの一瞬だけ、腕が止まる。

 まるで刃の先に、目には見えない何かが絡みついているかのように。


(何故だ……?)


 ディーンには理解できなかった。

 重量が増えたわけではない。自分の力が落ちたわけでもない。

 ただ、命じられるがままに敵と対峙するたび、聖剣がずしりと重みを増し、一瞬、身動きが止まることがある。

 しかしまた靄に思考を塞がれ、重いままの聖剣を振り下ろすのだ。

 そうしてまた、次の命令が下される。


「カトリナが『魔女』に堕ちました。討ちなさい」

「——了解」


 次に下された命令は、魔女となりオーギュストを襲うカトリナの討伐だった。

 鏡を介して現れる彼女を、死角から待ち伏せる。

 出てきたその痩躯を躊躇いもなく横薙ぎにした。


 両断された身体の裂け目から、光の粒が溢れ出す。

 目の前の女が何を叫んでも、どれほど絶望した顔をしていても。

 ディーンの心は揺るがず、ただ静かにその姿を見下ろした。

 また一つ、命じられた任務を遂行しただけだった。


 カトリナに呪いの力を授けたという黒髪の魔女が現れても、焦る心の一つすらなかった。

 次に討つ相手が現れた。

 そうとだけ思い、魔女へと向き直る。

 再び聖剣に手をかけた、直後。


「っディーン! 今はルナではない、カトリナを——」


 オーギュストが叫んだ。

 命令の書き換えに、ディーンはすぐさま反応する。

 だが振り返った先、自分が先ほど斬ったカトリナは、もうほとんど光の粒となり消えかかっていた。

 残った首だけを動かし、床に転がるオーギュストの大杖——その先端の宝玉へとしがみつく。

 そして、最後の力を振り絞るように——


 漆黒の宝玉へ、強かに噛み付いた。


『目を覚まして——ディーン様!』


 悲痛な叫びが、脳に直接叩き込まれる。

 それが耳に届くのと同時、鋭い音を立て、宝玉が砕け散った。


 ——バキンッ……!

 

 漆黒の欠片が飛び散る。

 蝋燭の灯りを受け、星屑のように煌めいた。


 瞬間——記憶が、弾けた。


 風に揺れる黒の髪。

 緑の温室。

 駆け回る子犬。

 白花の咲く丘。

 銀のナイフ。

 オーギュストの笑み。

 断頭台。


 過去の断片が、煌めく欠片にいくつも映し出される。

 その全てが一斉に繋がり、頭の中を満たしていた黒靄が内側から一気に吹き飛んだ。


「ディーン!」


 オーギュストが叫ぶ。

 誰かが息を呑む音が聞こえた。


 音が戻る。

 色が戻る。

 痛みが戻る。

 自分の呼吸が、うるさいほど大きく聞こえた。


 光の粒となって消えるカトリナの姿が、今更はっきりと見えた。

 薄い笑みを浮かべ、その姿が完全に消え去る。

 血の匂いがする。

 握っている聖剣の重さがしっかりと分かった。


(俺は——)


 思考が戻る。


(俺は——何をしていた?)


 愕然とする中、目の前に立つ黒髪の女と目が合った。


 長い黒髪。

 月光のように白い肌。

 かつてとは違う色を宿した瞳。

 ——それでも。


 胸の奥が、知っていた。


 駆け回る子犬を追いかけ、笑っていた女。

 あの丘でひたすら泣き続けていた女。

 自分を友だと言った女。

 そして——自分が、好きだった女。


 ——ああ、間違いない。

 間違えるはずがない。


 気づいたらその名前が、唇からこぼれ落ちていた。

 

「……ルナ」


 その名を口にした瞬間、とうに消えたはずの腕の傷が焼けるように疼いた。

 黒い靄が霧散する。

 何年ぶりかも分からないほど久しぶりに、世界がはっきりと見えた。

 背後でオーギュストが小さく舌打ちするのが聞こえた。

 目の前の『魔女』は、そんなディーンを見つめ——


「ディーン……!」


 昔と同じ少女の顔で、自分の名を呼んだ。

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