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血濡れの魔女は夜と踊る  作者: ウミノリリオ
終章 器の勇者は夜明けを告げる

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12.ディーン・マリウス・ヴァレンティス⑪

『あのとき、たすけてくれて、ありがとう』


 獣が何かを訴えた、その瞬間——


 唐突に、感覚が鮮明になった。

 光の粒となって消えていく黒犬の姿が、妙にはっきりと見える。


 同時、幾つもの記憶の断片が、脳裏を駆け抜けた。

 石を投げられていた黒い犬。

 子供たちを止めた自分。

 穴へ逃げ込んでいく小さな背中。


 さらにその向こうから、別の記憶が滲み出す。

 黒犬の頭を撫でる白い手。

 黒い髪。

 「ディーン」と自分を呼ぶ声——


「……ル——」


 何かを、口にしかけた。

 瞬間、黒靄がざあっと押し寄せ、思考を呑み込んだ。

 記憶も声も、呼びかけた名前も、一瞬で遠のく。

 わずかに光を取り戻した蒼の瞳が、再び昏く濁った。


 気づいた時には、獣の死霊はすでに光となって消え失せていた。

 それでもディーンは、しばらくその場を動かなかった。

 理由も分からぬまま、光の残滓だけを見つめていた。


「あっ、勇者様! こちらにいらしたのですね!」

「……」


 ——どれくらいそうしていただろうか。

 やがて、共にこの闘技場へと踏み入った衛兵の一人が、そう声をかけてくる。

 ディーンは踵を返し、淡々と告げた。


「……死霊を討伐した。任務完了」



 それ以降もディーンは、オーギュストに命じられるがまま、聖剣を振り続けた。

 魔物を狩り、罪人を追い、死霊を斬る。

 変わらない日々。違えることのない使命。

 だが——


 あの獣との一件以来、胸の奥に説明のつかない痛みが残っていた。

 以前なら、斬ればそれで終わりだった。

 それなのに今は、死霊の最期の言葉も、無実を訴える罪人の声も、なぜか耳に残る。


『どうして、私たちだけが——』

 恨みがましく自分を見つめる死霊に、その理由を探してしまう。

『私は神に背いたりなどしていません!』

 泣き叫ぶ異端者に、剣を振り下ろすのに一瞬だけ躊躇した。


 以前ならただの雑音だった。

 なのに、彼らの声が耳に響く。頭から離れない。


(これは、『正義』だ)


 そう言い聞かせるたび、今ではもう一つの声が返ってくる。


(……本当に?)


 日常でも、その異変は増えていった。

 月明かりの下に黒髪の女を見た気がして、思わず振り返る。

 薬草の香りを嗅ぐと、明るい笑い声が聞こえる。

 孤児院の子供たちが駆ける、その向こうに誰かの影を探す。


(……誰だ?)


 脳裏を掠める黒い影を追う。

 だけどその正体へ手を伸ばすたび、淀んだ靄が思考を塗り潰した。


 それでも、以前とは違う。

 消されても、また疑問が浮かぶ。


(俺は、誰を忘れている?)


 そんな問いだけが、少しずつ胸の奥に残るようになっていた。




 ——ある日のことだった。

 神殿の裏手を歩いていた時、不意に胸を締めつけるような違和感を覚え、ディーンは足を止めた。


(……温室?)


 ガラス張りの、小さな温室だった。

 緑の木々に囲まれ、まるで森の一角を切り取ったようにひっそりと佇んでいる。

 神殿内にこんな場所があったのか。

 そう思った瞬間、理由の分からない懐かしさが胸を衝いた。


(……何故?)


 緑の温室を見上げ、ディーンはその場から動けない。

 こんな場所、自分は知らないはずだ。見たことも、来たこともない。そのはずなのに——


(——懐かしい、なんて)


 胸に湧き上がる思いに、ディーンは戸惑った。

 そんな感情を塗りつぶすように、また黒い靄がディーンを包む。

 けれど靄がその感情を覆い尽くすより先に、ガラスに透ける日差しが、整然と並んだ薬草が、別の感情を次々と抱かせた。

 記憶にはない。なのに懐かしい。

 相反する思いに駆られ、ディーンはその場から動けなくなっていた。


「……ディーン様?」


 そんな時だった。

 温室の中にいた女が、ディーンにそう声をかけてきた。


「あの……どうかなさいましたか? このようなところで」


 女は純白の法衣を纏っていた。

 見覚えはないが、この神殿の巫女なのだろう。

 この温室の管理人なのかと考えながら、ディーンは淡々と答えた。


「……オーギュストに呼び出されていた。その帰りだ」

「枢機卿閣下に?」

「ああ。そのまま聖騎士団の鍛錬場へ顔を出そうと思っていた」


 その言葉に、巫女は得心したように軽く頷く。

 ディーンは彼女から視線を外し、もう一度緑の温室を見上げた。

 立ち去ろうとしないディーンに、巫女はどこか戸惑ったように言った。


「も、もしよろしければ……中で、お茶でも召し上がっていかれませんか?」

「……」



「少々お待ちくださいね」


 巫女はディーンを温室の中へと案内すると、そう言い残し湯を沸かし始めた。

 片隅に設えられた小さなテーブル。ディーンは何を考えるでもなく一つの椅子を引き、そのまま腰を下ろした。

 温室の中を、ゆっくりと見渡す。

 ディーンの抱いた強烈な既視感、その感覚は、中へ入るといっそう強くなった。


(……どうして俺は、頷いたんだろう)


 背後で茶器を用意する音を聞きながら、ディーンは思う。

 茶など興味はない。こんな時間、無駄でしかない。それより鍛錬場へ向かうべきだ。あるいは巡回に出て、悪を見つけるべきだ。そう思うのに。


 『お茶でもいかがですか』と、言われた言葉に気づけば頷いていた。

 今からでもこの場を辞せばいい。なのに地面に足が張り付いたように、その場から動けなかった。


 やがて、独特な薬草の香りが鼻腔をくすぐった。

「どうぞ」

 そう言って差し出されたお茶を、一口飲む。瞬間、


 誰かの声が、強く響いた。


『あら、勇者様ともあろうお方が、こんなものが苦手なの?』

『お前、絶対わざと苦くしただろ』

『失礼ね。身体にいいのよ』


 靄がふっと薄くなる。

 その隙間から、記憶の断片が波のように押し寄せた。


『現にディーンとだって、こうして友達になれたじゃない』

『あなたが戦い、私が守る。それが『勇者』と『▪️▪️』なのでしょう?』

『私は『▪️▪️』よ! 民を守るためなら、——』


 次々に、声だけが蘇る。

「……っ」

 記憶の濁流に、頭の奥がぐらりと揺れた。

 思わずカップを落としかける。それを誤魔化すように、「……うまいな」と呟いた。


「お口に合ったようでよかったです。ディーン様は、こういう癖のあるお味は苦手かもしれないと思っていたので……」

「そうだったか?」

「はい。昔、この温室でお茶をお出しした時も、あまり得意ではなさそうなお顔をされていましたから」


 続けてもう一口飲み込むディーンに、巫女はそう語った。

 だが、


「……覚えていないな」


 言われる全てが、ディーンの記憶には残っていない。

 ——何故?

 そう思う気持ちを、また黒靄が覆う。

 もう一口飲む。

 舌に残る苦味に触れるたび、靄がわずかに薄れる気がした。


『……ディーン』


 自分の座る小テーブル、その正面に、黒髪の女が笑う。

 瞬きをした。女の影が消える。

 ——誰だ?

 その疑問の答えを知りたいと、初めて思った。


「あの……よろしければ、これからも気軽にいらしてくださいね。お茶くらいでしたら、いつでもお淹れできますから」


 やがて温室を辞そうとするディーンに、巫女はそう言った。

 そんな暇はない。そう答えようとして、口から出たのはこんな言葉だった。


「……わかった」

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