12.ディーン・マリウス・ヴァレンティス⑪
『あのとき、たすけてくれて、ありがとう』
獣が何かを訴えた、その瞬間——
唐突に、感覚が鮮明になった。
光の粒となって消えていく黒犬の姿が、妙にはっきりと見える。
同時、幾つもの記憶の断片が、脳裏を駆け抜けた。
石を投げられていた黒い犬。
子供たちを止めた自分。
穴へ逃げ込んでいく小さな背中。
さらにその向こうから、別の記憶が滲み出す。
黒犬の頭を撫でる白い手。
黒い髪。
「ディーン」と自分を呼ぶ声——
「……ル——」
何かを、口にしかけた。
瞬間、黒靄がざあっと押し寄せ、思考を呑み込んだ。
記憶も声も、呼びかけた名前も、一瞬で遠のく。
わずかに光を取り戻した蒼の瞳が、再び昏く濁った。
気づいた時には、獣の死霊はすでに光となって消え失せていた。
それでもディーンは、しばらくその場を動かなかった。
理由も分からぬまま、光の残滓だけを見つめていた。
「あっ、勇者様! こちらにいらしたのですね!」
「……」
——どれくらいそうしていただろうか。
やがて、共にこの闘技場へと踏み入った衛兵の一人が、そう声をかけてくる。
ディーンは踵を返し、淡々と告げた。
「……死霊を討伐した。任務完了」
*
それ以降もディーンは、オーギュストに命じられるがまま、聖剣を振り続けた。
魔物を狩り、罪人を追い、死霊を斬る。
変わらない日々。違えることのない使命。
だが——
あの獣との一件以来、胸の奥に説明のつかない痛みが残っていた。
以前なら、斬ればそれで終わりだった。
それなのに今は、死霊の最期の言葉も、無実を訴える罪人の声も、なぜか耳に残る。
『どうして、私たちだけが——』
恨みがましく自分を見つめる死霊に、その理由を探してしまう。
『私は神に背いたりなどしていません!』
泣き叫ぶ異端者に、剣を振り下ろすのに一瞬だけ躊躇した。
以前ならただの雑音だった。
なのに、彼らの声が耳に響く。頭から離れない。
(これは、『正義』だ)
そう言い聞かせるたび、今ではもう一つの声が返ってくる。
(……本当に?)
日常でも、その異変は増えていった。
月明かりの下に黒髪の女を見た気がして、思わず振り返る。
薬草の香りを嗅ぐと、明るい笑い声が聞こえる。
孤児院の子供たちが駆ける、その向こうに誰かの影を探す。
(……誰だ?)
脳裏を掠める黒い影を追う。
だけどその正体へ手を伸ばすたび、淀んだ靄が思考を塗り潰した。
それでも、以前とは違う。
消されても、また疑問が浮かぶ。
(俺は、誰を忘れている?)
そんな問いだけが、少しずつ胸の奥に残るようになっていた。
——ある日のことだった。
神殿の裏手を歩いていた時、不意に胸を締めつけるような違和感を覚え、ディーンは足を止めた。
(……温室?)
ガラス張りの、小さな温室だった。
緑の木々に囲まれ、まるで森の一角を切り取ったようにひっそりと佇んでいる。
神殿内にこんな場所があったのか。
そう思った瞬間、理由の分からない懐かしさが胸を衝いた。
(……何故?)
緑の温室を見上げ、ディーンはその場から動けない。
こんな場所、自分は知らないはずだ。見たことも、来たこともない。そのはずなのに——
(——懐かしい、なんて)
胸に湧き上がる思いに、ディーンは戸惑った。
そんな感情を塗りつぶすように、また黒い靄がディーンを包む。
けれど靄がその感情を覆い尽くすより先に、ガラスに透ける日差しが、整然と並んだ薬草が、別の感情を次々と抱かせた。
記憶にはない。なのに懐かしい。
相反する思いに駆られ、ディーンはその場から動けなくなっていた。
「……ディーン様?」
そんな時だった。
温室の中にいた女が、ディーンにそう声をかけてきた。
「あの……どうかなさいましたか? このようなところで」
女は純白の法衣を纏っていた。
見覚えはないが、この神殿の巫女なのだろう。
この温室の管理人なのかと考えながら、ディーンは淡々と答えた。
「……オーギュストに呼び出されていた。その帰りだ」
「枢機卿閣下に?」
「ああ。そのまま聖騎士団の鍛錬場へ顔を出そうと思っていた」
その言葉に、巫女は得心したように軽く頷く。
ディーンは彼女から視線を外し、もう一度緑の温室を見上げた。
立ち去ろうとしないディーンに、巫女はどこか戸惑ったように言った。
「も、もしよろしければ……中で、お茶でも召し上がっていかれませんか?」
「……」
*
「少々お待ちくださいね」
巫女はディーンを温室の中へと案内すると、そう言い残し湯を沸かし始めた。
片隅に設えられた小さなテーブル。ディーンは何を考えるでもなく一つの椅子を引き、そのまま腰を下ろした。
温室の中を、ゆっくりと見渡す。
ディーンの抱いた強烈な既視感、その感覚は、中へ入るといっそう強くなった。
(……どうして俺は、頷いたんだろう)
背後で茶器を用意する音を聞きながら、ディーンは思う。
茶など興味はない。こんな時間、無駄でしかない。それより鍛錬場へ向かうべきだ。あるいは巡回に出て、悪を見つけるべきだ。そう思うのに。
『お茶でもいかがですか』と、言われた言葉に気づけば頷いていた。
今からでもこの場を辞せばいい。なのに地面に足が張り付いたように、その場から動けなかった。
やがて、独特な薬草の香りが鼻腔をくすぐった。
「どうぞ」
そう言って差し出されたお茶を、一口飲む。瞬間、
誰かの声が、強く響いた。
『あら、勇者様ともあろうお方が、こんなものが苦手なの?』
『お前、絶対わざと苦くしただろ』
『失礼ね。身体にいいのよ』
靄がふっと薄くなる。
その隙間から、記憶の断片が波のように押し寄せた。
『現にディーンとだって、こうして友達になれたじゃない』
『あなたが戦い、私が守る。それが『勇者』と『▪️▪️』なのでしょう?』
『私は『▪️▪️』よ! 民を守るためなら、——』
次々に、声だけが蘇る。
「……っ」
記憶の濁流に、頭の奥がぐらりと揺れた。
思わずカップを落としかける。それを誤魔化すように、「……うまいな」と呟いた。
「お口に合ったようでよかったです。ディーン様は、こういう癖のあるお味は苦手かもしれないと思っていたので……」
「そうだったか?」
「はい。昔、この温室でお茶をお出しした時も、あまり得意ではなさそうなお顔をされていましたから」
続けてもう一口飲み込むディーンに、巫女はそう語った。
だが、
「……覚えていないな」
言われる全てが、ディーンの記憶には残っていない。
——何故?
そう思う気持ちを、また黒靄が覆う。
もう一口飲む。
舌に残る苦味に触れるたび、靄がわずかに薄れる気がした。
『……ディーン』
自分の座る小テーブル、その正面に、黒髪の女が笑う。
瞬きをした。女の影が消える。
——誰だ?
その疑問の答えを知りたいと、初めて思った。
「あの……よろしければ、これからも気軽にいらしてくださいね。お茶くらいでしたら、いつでもお淹れできますから」
やがて温室を辞そうとするディーンに、巫女はそう言った。
そんな暇はない。そう答えようとして、口から出たのはこんな言葉だった。
「……わかった」




