10.ディーン・マリウス・ヴァレンティス⑨
——夢を見た。
得体の知れない『何か』と、戦い続ける夢だった。
眩しいほど真白な空間。
その中を、黒く濁った靄が這うように迫ってくる。
「っ!」
ディーンは反射的に聖剣を振るった。
白銀の刃が黒靄を両断する。一瞬、道が開けた。次の瞬間にはもう、背後から別の靄が襲いかかっていた。
「なんなんだ、これは……!」
振り向きざまに斬り払う。
消えたと思えば、今度は足元から湧き上がる。
斬る、斬る、斬る。
それでも黒靄は尽きない。
むしろ剣を振るうたび、数を増しているようにすら思えた。
(くそっ……!)
頬を掠めた靄が、焼けつくような痛みを残す。
腕に絡みついたものを斬り捨てれば、今度は背中へ。
足を取られ、振りほどいたところへ、また次が迫る。
息をつく暇すらない。
次第に呼吸が浅くなる。額から汗が噴き出し、握った聖剣が重くなっていく。
気づけば、あれほど白かった世界は、じわじわと黒に侵され始めていた。
「っふざけんな……!」
黒靄が足首へ絡みつき、膝へ、腰へと這い上がってくる。
斬っても、斬っても、次から次へと身体へまとわりついた。
(このままじゃ——)
呑まれる。
そう思った、その時だった。
黒靄の向こうを縫うように、かすかな声が響いた。
『——————ン……』
ディーンの動きが止まる。
「……ルナ?」
聞き間違えるはずがなかった。
その声に、一瞬だけ安堵する。
『————ィーン……』
また聞こえた。
ルナが、自分の名前を呼んでいる。まるで祈るような声だった。
「……っ」
ディーンは聖剣を握り直し、再び黒靄へ斬りかかった。
一閃。
まとわりつく闇を切り裂き、声のする方へと駆ける。
『——ディーン……』
声が近づく。さらに剣を振る。
だが祈りが届くたび、黒靄は薄れるどころか、ますます濃くなっていった。
足元から這い上がる靄が増え、腕に、脚に、身体中へ絡みついてくる。
——おかしい。
ようやく気づいた時には、真白なその空間は、もうほとんど闇に呑まれていた。
(違う、これは——『祈り』じゃない……っ!)
背筋を、ぞっとするような悪寒が駆け抜ける。
瞬間、辺りを満たしていた黒い靄がぐにゃりと形を変えた。
静かに揺蕩っていたそれらが、幾本もの糸となってディーンへと伸びてくる。
「っ!」
咄嗟に聖剣を振るう。
一度は断ち切れたそれは、だがすぐに再生し手首へと絡みつく。
斬る。再生する。斬る。また這い上がる。
何度か繰り返すうち、今度はルナとは別の声がディーンの鼓膜を震わせた。
『————なさい』
低く、静かで、ひどく耳馴染みのある声。
その声は——
『——従いなさい。その心を、私に明け渡しなさい』
「ッオーギュスト……!」
黒糸を横薙ぎにしながら、ディーンは絞り出すように叫ぶ。
思い出す。
礼拝堂の扉の向こう。倒れ伏す自分を、ただ薄く笑って見下ろしていた——あの顔を。
(やっぱり……お前だったのか!)
聖剣を振り抜く。
だが、目の前にオーギュストはいない。さらに黒い糸が腕へと絡みついた。
『お願い、ディーンを……』
『ディーンを、私の人形に……』
必死に祈りを捧げるルナの声と、何もかもを平伏させるようなオーギュストの声。
二つの声が重なり、黒糸と共にディーンを襲った。
『お願い——』
『従いなさい——』
『この人を——』
『その心を——』
『助けて——!』
『明け渡しなさい』
「やめろ……!」
声が重なる。靄が増える。糸が絡みつく。ディーンは必死で叫んだ。
「ダメだ、ルナ……もう、祈るな——っ!」
だが声は届かない。真摯なその祈りは、漆黒の靄となってさらにディーンに絡みつく。
一本、また一本と、身体へ食い込み皮膚の下まで潜り込んでくる。
「ぐ……っ、あ……!」
焼けるような痛みが全身を走った。
剣を握る指から力が抜ける。
視界が霞む。
白と黒の境目までもう曖昧だ。
『ディーン……!』
「やめ……ろ……」
声が出ない。
聖剣が手から滑り落ちた。
カラン、と金属の落ちる音さえ、すぐに闇へ呑まれていく。
自分がどこにいるのか、自分の足で立てているのかすら、もう、わからない。
やがて——
『ディーンを、助けて——…!』
「——っ!」
『聖女』の叫びと共に、黒い靄が一斉に膨れ上がった。
視界が黒で埋まる。音が消える。身体の感覚も、最後まで残っていた思考も——
漆黒の闇に、呑み込まれた。
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——目が、覚めた。
真白な寝台に、ディーンは寝かせられていた。
眩しいほど清潔な部屋で、一つ、二つ、瞬きをする。
そしてそのままぼんやりと、真白の天井を眺めている。
その横顔には、苦しみも痛みも、たった一つの疑問すら浮かんでいない。
ただ——少しだけ翳りの差した蒼の瞳が、じっと前を見据えていた。
「……目覚めたかい? 『勇者』よ」
しばらくそうしていると、頭上から穏やかな声が降った。
ディーンはゆっくりと視線を向ける。藍色の瞳と、目が合った。
オーギュスト——我が主は、慈しみに満ちた笑みを浮かべ、ディーンに命じた。
「さあ。その剣を、私のために振るっておくれ」
何の迷いもなく、頷いた。




