9.ディーン・マリウス・ヴァレンティス⑧
ルナへとナイフを突きつける一人の女。
その女は、地を裂くような声で叫んだ。
「その罪——その身で償いなさい!」
石壁を割る金切り声。
その言葉の意味も、女がルナを襲う理由も、何一つわからない。
だが、
「——ルナ!」
「……っ!?」
そんなことはどうでもいい。何を思考するより先にそこへ飛び込み、腕でナイフを受け止めた。
紅い傷が一筋走る。一瞬、傷口の奥を何か冷たいものが這った気がした。
だがその程度でディーンは止まらない。距離を詰め、女の腕を捻り上げる。そのまま一瞬で床へ押さえつけた。
「きゃああっ! だ、誰よあなた!? 離して!」
「ちっ、おとなしくしろ。おい、ルナ、大丈夫か!?」
暴れる体を押さえつけたまま、ルナを振り返る。
地面にへたり込んだままのルナは、顔を蒼白とさせてはいるが、目立つ怪我などはない。ほっとして息を吐いた。
「ディ、ディーン……!? どうしてここに……!?」
「叫び声が聞こえたから戻ってきたんだよ。それより、なんだこの状況は」
「離せ、離せ——!」
そのうち、騒ぎを聞きつけ聖騎士たちが駆けつけてきた。
まだもがき続けるその女を引き渡し、ディーンはまだ呆然としているルナの元へ歩く。
まだ立てずにいる彼女へ手を貸そうとした、その時。
「……っあなたにはわからないわ、神のために生きる女に!」
背後から叫ばれ、ルナを背に隠す。
幾人もの騎士に取り押さえられ、それでもまだ女の目は怒りに燃え、憎悪のこもった声でルナを罵倒した。
「世界のために生きる女に……っ世界と天秤にかけても、生きていてほしい人がいる女の気持ちが、わかるわけないわ——!」
「……っ!」
知ったふうな口を聞くな。そう怒鳴りたかった。
お前に何がわかる。世界のために戦う者の苦悩が、と。
だが言えなかった。
振り返ったルナが——
ひどく、胸を抉られたような顔をしていたからだ。
「ル——…」
「こら、黙りなさい!」
「聖女様に向かって、無礼な——!」
かけようとした声は、彼女を捕らえた騎士たちの声によってかき消される。
そのまま引きずられるようにして、その身柄は礼拝堂から連れ出されていった。
「——…」
——パタリ。
扉が閉ざされ、ようやく礼拝堂に静寂が戻った。
一体なんだったんだ。思わずため息をつきたくなるのを堪え、ディーンは振り返った。
そして、軽く腰をかがめて右手を差し出す。
「——怪我はないか?」
ルナはまだどこか呆けた顔のまま、立ち上がることができないでいた。
無理もないだろう。小さなナイフとはいえ、武器を突きつけられれば動揺するのも無理はない。
ルナは、恐る恐ると言った様子でその視線を上げた。まだ恐怖の残った顔。見たところ怪我はないようだが、まずは治療院へ連れて行かねばと算段をつける。
今の女がなんだったのか。どうしてあんな女の言葉にそこまで傷ついたような顔をするのか——問いただすのは、まずはルナの身体の確認をしてからだ。
「ディーン……ありがとう、私は大丈夫——」
目が合った瞬間、ルナは少しだけ緊張が解けたように息を吐き、だがすぐに目を大きく見開いた。
そして、
「あ、あなたの方が怪我してるじゃない! 早く治療院へ……!」
取り乱したような声でそう言った。
視線を落としてみると、たしかに腕に一筋、切り裂かれた傷がある。
「あ? ああ、こんな擦り傷、たいしたことねえよ。もっとひどい怪我なんて日常茶飯事だ」
「だからって……!」
平然と答えるが、ルナだけは落ち着かない様子でディーンの腕を引く。
実際、この程度の傷は勇者であるディーンにとって怪我のうちにも入らない。それをルナだってわかっているはずなのに、こんなふうに本気で案じられることがどこかくすぐったかった。
今まで頑なに逸らされていた目も、今はその瞳いっぱいに心配の色を滲ませ、しっかりとディーンの目を見つめる。こんな時なのに、そんなことを嬉しく思ってしまう。
そんな自分を誤魔化すように、ディーンは笑みを作って言った。
「ああ、こんなものすぐに塞が——、」
だがその言葉は、最後まで音になってくれなかった。
——どくん。
心臓が、大きく一つ、嫌な音を立てた。
「……ディーン?」
動揺したような声が、耳に届く。
ディーンはハッとして、不安げな表情を浮かべるルナに視線を向けた。
「何か変よ。やっぱり、治療院に行きましょう。なんなら私が祈ったっていいから……!」
「何を大袈裟な——……っ?」
「っディーン!?」
その不安を落ち着けようと、投げかけた言葉もまた途中で宙に消える。
どくんとまた一つ心臓が鳴った。
目の前の小さな身体が、ぐにゃりと大きく歪む。
上体が崩れる。膝ががくりと石床についた。
「……っ」
「ディーン!? ディーン、どうしたの!?」
崩れ落ちた自分の傍に、ルナが駆け寄って声をかける。
聞き慣れた声。それが耳の奥で反響し、知らない音と重なった。
呼吸が浅い。背筋を悪寒が駆け抜ける。腕に走った切り傷が、妙な熱を持った。
(なんだ、これは……!?)
唐突な異変に混乱する。
何よりおかしいのは、腕だった。
たかが浅い切り傷が、焼けた鉄でも押し当てられたように熱い。
本来ならとうに塞がっているはずなのに、傷口だけが脈打つように疼いている。
視界がぐらりと揺れた。
全身から血の気が引く。焦点が定まらない。腕が熱い。立っていられないような眩暈。
「ディーン……!」
そう叫ぶ声が、耳に膜を張ったように聞こえづらい。
明らかにおかしい。わかっているのに、声が出ない。立ち上がれない。脂汗が額に滲む。どうにか動かせた視線だけで、必死に周りを観察した。
そして見つける。
礼拝堂の扉、その向こうに、
——オーギュストが、薄く笑みを浮かべ立っていたことを。
「……ル、ナ。…………に……げ………………」
「いやあ、ディーン! しっかりして! ——っ誰か! 誰か来て——!」
そこまで告げたところで、ディーンの身体から完全に力が抜けた。そのまま石床へと倒れ伏す。
ルナの声にも、背を強く揺するその強さにも、もう何も反応することはできない。
視界の端で、オーギュストが踵を返し、その場から立ち去ったのが見えた。
目を閉じるその瞬間——
自分を包む黒い靄を、ディーンは見たような気がした。




