8.ディーン・マリウス・ヴァレンティス⑦
その後もディーンとルナは、『勇者』と『聖女』としてそれぞれの聖務に追われ、ほとんど顔を合わせない日々を送った。
そんな中、サンクティア王国各地で不作が囁かれ始める。
ルナには豊穣を祈るための地方巡礼が命じられ、長く大神殿を空けることとなった。
遠目にその姿を見かけることすらなくなると思えば、胸の奥が僅かに疼く。
それでもルナが、しばらくオーギュストの目の届かない場所へ行くことにはどこか安堵していた。
あの男が何を企んでいるにせよ、大神殿に残ったまま、王国各地を巡るルナへ手を伸ばすことはできないだろう。そう思っていた。
——だというのに。
長い巡礼から帰還したルナは、まるで魂が抜け落ちたかのように憔悴していた。
*
「……」
——大神殿、礼拝堂。
初代聖女像が静かに見下ろすその片隅に、ルナは一人腰掛けていた。
ぼんやりと聖像を見つめるルナを、ディーンは扉の向こうから窺うように眺める。
(……何か、あったんだろうな)
ルナの横顔は普段のような明るさはなく、感情だけが抜け落ちたかのように虚ろだった。
表情だけではない。今までなら、たとえ休めと言われても忙しなく歩き回り、自分で仕事を見つけてはすぐに駆け出すような女だった。それが今は、祈りもせず、ただ一人で座り込んでいる。
(少なくとも、今回ばかりはオーギュストの仕業じゃない……のか?)
沈んだ横顔に胸が痛む。
以前なら、ここで意地を張って背を向けていたかもしれない。だけど今は、そんなことをする気にはなれなかった。
ディーンは小さく息を吐くと、礼拝堂の扉を静かに開く。
カタリと小さく立った音にも、ルナは一つも反応しない。
人形のようなその姿にゆっくりと近づき、すぐそばで足を止めた。
「——ルナ」
声を掛ければ、漆黒の瞳がゆっくりとこちらに向いた。
「……ディーン」
虚ろな瞳。掠れた声で名前を呼ばれ、ディーンはわずかに眉を寄せた。
「……どう、したの。こんなところに、あなたが来るなんて……」
「……俺が、祈りを捧げに来るのは、おかしいか?」
「そういうわけでは……ないけど……」
「……」
ボソボソとした声で、言葉を交わす。
今更になって、何を言おうか迷う。
だがきっと、遠回しに言ったってこいつには伝わらない。
「……帰ってからのお前、なんだか様子がおかしかったから」
「——…!」
ぼそりと落とした言葉に、ルナは目を見開く。
一瞬だけ、漆黒の瞳に光が戻った気がして、ディーンの胸にわずかな熱が広がった。
が、
「……っ」
「……、ルナ?」
ルナの表情がくしゃりと歪み、伸びていた背筋が力なく崩れた。
慌てて手を伸ばす。だけど触れていいのかわからず、その手はルナ肩に届く直前で、所在なげに宙を彷徨った。
『何かあったんだろう、話なら聞くぞ』
昔の自分なら、何も考えずそう言えたのだろう。
泣きたいんなら泣けばいいと、ただ背中を貸したかもしれない。
けれど今は、どこまで踏み込んでいいのかすらわからなかった。
ただ、こんなに思い詰めた顔をしているのに、何も言ってくれないことが歯痒かった。
今、ルナの力になれない自分が悔しかった。
そんなディーンにも気づかず、ルナはごくりと喉を鳴らすと、深く息を吐き出した。
努めて冷静に振る舞おうとするその仕草を、ディーンはただ黙して待つ。
そして顔を上げたルナは、——相変わらず、下手くそな笑みを浮かべて言った。
「……大丈夫よ。——ありがとう」
情けなく下がった眉。震えたままの唇。それでも声だけは明るく聞こえるように。
必死で絞り出したであろうその言葉に、胸が突き刺された。
——ああ、やはり理由は言ってくれないのか。
——それでもまだ、お前は一人で背負い込むことを選ぶのか。
その事実に、胸が苦く軋む。それでも……
「……そうか」
ディーンは小さくそう呟くと、浮いていた手をそのままその場でぎゅっと握り込んだ。
『それがルナが選んだ道なら、俺は見守ろう』
いつか誓った思いが反芻される。
それはまだ、自分の胸の中にある。
言えないなら、それでいい。
言えるようになるまで、待てばいい。
そう思えるくらいには、少しだけ大人になったつもりだった。
礼拝堂に、また重い沈黙が落ちる。
二人の気まずげな呼吸音だけが響いた。
「——聖女様」
そこに、恐る恐るとした声が投げかけられた。
神殿の、門番をしている男だった。
「……っ、な、なあに?」
「お取り込み中申し訳ございません。聖女様に、一目お会いしたいという者が尋ねてきておりまして」
「私に?」
突然の声かけに、ルナが焦って答える。
どうやら、以前ルナに救われたという町民が礼を言いに来たらしい。こうした訪問自体は、珍しいことではなかった。最も、普段は忙しく応対することはほとんどないが……
「それは、嬉しいわね。今日はちょうどお休みをいただいているし……ここまで、通してくださる?」
「了解しました」
「よろしくね。……ディーンも、そういうわけだから」
「……ああ」
しかしルナは、どうやら面会を了承するつもりらしい。
門番が通した以上、持ち物の確認くらいは済んでいるはずだ。礼拝堂の周囲には騎士の巡回もある。問題など起こらないだろう。
そう考えたディーンは、ルナの言葉に軽く頷き、静かにその場を去った。
礼拝堂を辞す寸前、その扉の隙間からルナの表情を窺う。
先ほどよりわずかに光を取り戻した目線に、小さく安堵の息を吐いた。
(それでもしばらくは、気にかけておこう)
礼拝堂から続く廊下を歩きながら、ディーンは思う。
あの様子では、今後の聖務でもまた無理しかねない。自分がこれ以上踏み込めないのなら、彼女の侍女や、他の巫女でもいい。ルナの様子を気にかけるよう言うくらいは許されるだろう。
(それか、巡礼に同行した騎士に話を聞いてみるか——…)
そんなことを思った、その時だった。
「ディーン、ちょうどよかった。ルナを見ませんでしたか?」
廊下の向こう側から、オーギュストがゆったりとした仕草で歩いてきた。
思わず片眉が上がる。が、平静を装って答えた。
「……今、会ってきた」
「そうですか。何か変わった様子は?」
「なんでそんなことを聞く?」
「今回の巡礼は、彼女には随分と堪えたようですから。帰還してから、随分と塞ぎ込んでいると聞いています」
その言葉を聞いて、ディーンは思わず聞き返した。
「巡礼先で、何かあったのか?」
「さて。私も詳しくは聞いていません。彼女自身が話したがらないものですから」
「……」
だが望む答えは返ってこない。
黙り込むディーンに、オーギュストは心配げな表情を作って続けた。
「念のため、しばらく聖務から外しているのですが……ほら、あの子は休みもまともに休まないような子でしょう? また無理をしていてはたまらないと、様子を見に来たんですよ」
そう言って、困ったように笑う。その笑みはまるで、手のかかる娘を案じる父親のようだった。
血の繋がりなどないルナを、本当に大切に思っているかのような。
(……本当に、俺の考えすぎなのか?)
だが、一度宿った疑念は消えない。
今だって、ルナに「何か」するために探していたんじゃないのか? そう疑ってしまう。
……莫迦らしい。
ここは大神殿の中だ。これだけ多くの神官や騎士の目がある中で、あからさまにルナへ危害を加えられるはずもないというのに。
「でも、安心しました。君もあの子を気にかけてくれているのですね」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味ですよ。人は弱っている時ほど、信頼する者の存在を必要とするもの。最近は距離を置いているようですが、彼女にとって君が特別な存在であることは変わらないでしょう」
「……知ったようなこと言うな」
にこやかにそう言うオーギュストに、なぜか神経が逆撫でされる。
苛立ちを隠さず言えば、オーギュストはクスリと喉を鳴らした。
「これは失礼。ですが、本心ですよ。君がルナの近くにいてくれれば安心だ。——言ったでしょう? 私は彼女の味方だ、と」
穏やかな笑み。
以前なら、何の疑いもなく聞き流していた言葉だった。
「……オーギュスト、お前——」
その時だった。
「——きゃああああああああっ!」
聞き慣れた悲鳴が、回廊の奥から響いた。
「——ルナ!?」
瞬間、弾かれたように駆け出す。
オーギュストの存在など、この時にはもう頭になかった。
礼拝堂の扉を乱暴に開け放つ。
その先にいたのは——
壁際にへたり込むルナ。
そして——そこへナイフを突きつける、一人の女だった。




