7.ディーン・マリウス・ヴァレンティス⑥
——かくして、勇者ディーン率いる聖騎士団は、聖女ルナの采配のもと地下闘技場を制圧し、多くの子供たちを救い出した。
この出来事は『地下闘技場制圧事件』と呼ばれ、聖女ルナを代表する功績の一つとして語り継がれることになる。
しかし、ルナはそれで終わりとはしなかった。他にも同様の事件がないか、ルナは自ら調査隊を編成し、徹底した捜査を命じた。
結果として、王都の裏社会に潜んでいた人身売買組織が次々と摘発される。その功績は瞬く間に国中へ広まり、民からの評価も大きく変わった。
彼女が巡礼に訪れれば誰もが喜び、街を歩けば「聖女様万歳」の声で溢れた。
*
「あ、聖女さまだ!」
「ルナ様ー!」
聖女ルナを乗せた馬車が、王都の大通りを通る。それだけで人が集まり、口々に彼女の名を呼んだ。
その一つ一つに応えるように、ルナは窓越しに手を振り返した。それだけで民たちはわっと湧く。
(相変わらずだな)
そんな様子を眺めながら、ディーンは口元をわずかに緩めた。
ルナは昔から、自分に声をかけてくる者を蔑ろにしない。馬車の車窓から手を振り返すなど、自分なら面倒くさくて絶対にしないだろう。
あの『地下闘技場制圧事件』を経て、聖女ルナの市井での評判は目に見えて高まっていた。
元からあった人気がより確固たるものになった、という方が正しいかもしれない。以前は黒髪であることや、血を呑むという行為に眉を顰めていた者たちが、動かしがたい功績を前にやっと口を噤むようになった。
民衆に広まっていた口さがない噂話が、鳴りをひそめたのはいいことだろう。
ディーンとルナは、相変わらず、ほとんど顔を合わせない日々が続いている。
地下闘技場の一件以来、互いに仕事が増えそれどころではないというのもある。
二人の間に空いた不自然に穴は、簡単には埋まってくれなかった。
それが悲しくないわけではない。
相変わらず無理をしている姿に「大丈夫か」の一言すらかけられないことが、歯痒くて仕方ない。それでも。
(……それがルナが選んだ道なら、俺は見守ろう)
思い出すのは、あの凛とした佇まい。どこまでも『聖女』であったあの姿。
あれがルナなのだ。こちらがどう思おうと、どうしていようと。
ルナはきっと、あの生き方を変えられない。
(それなら俺は、『勇者』として、お前の隣に並び立とう。それでいい。だって俺は、そんなお前が——)
——その先は、今は言わない。
たくさんの初めてをくれた人。だから初めて抱いたこの気持ちが、自分の中にあるのなら十分だ。
いつか互いに、『勇者』も『聖女』もやり切ったと思える日が来たなら——そのときに、また隣にいられればいい。そう思ったのだ。
だが——胸を掠める疑念もある。
あの日、あの騎士がルナに告げた言葉。
ルナに与えられた権限が、その地位に対し明らかに少ないこと。
そして、ルナが自分を避け始めたのがいつからだったのかということ。
胸に降り積もる違和感は、いつも一つの名前へと行き着く。
まさか、そんなわけが。
そう思いつつも、気にしないわけにはいかない。それが、ルナの身に関わることなら尚更。
一人考え込むディーンに、穏やかな声がかけられた。
「——もどかしいですね、二人とも」
カツン、と大杖の先が石床を叩く音。純白の法衣。紳士然とした佇まい。
その全てに、ざらつくような警戒心が走った。
睨みつけそうになる気持ちを抑えて、わざとゆっくり振り返る。
「君たちの仲睦まじい様子を見るのが、私は嫌いではなかったのですがね」
「……オーギュスト」
ディーンは低く、その名を呼んだ。
*
「君たちの仲睦まじい様子を見るのが、私は嫌いではなかったのですがね。どうしたんです? 最近はすっかり、他人行儀ではありませんか」
大神殿、聖務局前。
不意にかけられたその言葉に、胸の奥で何かが警鐘を鳴らした。
オーギュスト・ドミニク・ブラッドフォード。
これまで何度も世話になってきたはずの男が、今はなぜかディーンの神経を逆撫でした。
違和感は、昔からあった。
平民出身の『黒髪』が、瞬く間に聖女の地位へと上り詰めたこと。
本来なら聖務官が管理すべき聖務の中で、ルナの力が都合よく利用されていたこと。
ルナに与えられた権限が、その地位に対し明らかに少ないこと。
そして極めつけが——ルナが自分を避け始めた、そのきっかけ。それは、あの噂が広まった直後……オーギュストに呼び出された、そのあとからではなかったか?
確証など、一つもない。
だがこの疑念の行き着く先は、いつだって眼前のこの男だった。
「……別に。お前には関係ないだろう」
「おや、冷たいですね」
ディーンのすげない態度に、オーギュストは害意を感じさせない柔和な雰囲気でそう返した。
この姿だけを見れば、この言葉だけを聞けば、疑念を抱く自分の方がおかしいとさえ思える。
だけどディーンは知っている。貴族というものが、どれほど己の利に敏い生き物かを。それは、神に身を捧げたはずのこの神殿でもそうだった。
「私としては、『勇者』と『聖女』として正しくさえあれば、君たちがどんな関係でいようがかまわないのですがね。そうと思わない者もいる……難しいですね、人の心というのは」
「……」
「君も、最近はずいぶん真面目になった。心を入れ替えるような何かがあったのではないですか?」
「……真面目なんかじゃないさ」
ディーンの猜疑心になど気づいていないかのように、オーギュストは穏やかな口調で続ける。
どこまでも自分に寄り添うような声色が、どこまで本心なのか。ディーンはまた疑念を巡らせ——そしてふと、馬鹿らしくなった。
(……ガラじゃないな)
以前の自分なら、こんな考えを頭に巡らせなどしなかった。
利に聡い貴族の考えも、自分を利用しようとする者も、全てがどうでも良かった。自分に害が出るなら自分の手で振り払うだけ。それだけの力が自分にはあったし、そもそも自分に害を及ぼせるものなどこの世にはほとんどない。
それは驕りなどではなく、純然たる事実だった。
なのにどうして今、こんなにも頭を悩ませているのか。
脳裏をよぎる一人の影に、ディーンは内心でだけ苦笑をこぼした。
「……俺はもともと、真面目な質じゃない」
ややあって、ディーンはぼそりと言葉を落とした。
「あいつと違って、国のためだとか民のために、『勇者』をやっているわけじゃない」
「……? 知っていますよ。どうしたのですか、いきなり」
「ただ戦えればそれでいい。だから、あんたが何をしていようと、それに反抗するつもりはない。……だが、」
そこで言葉を止める。
敵意を込めた視線を、オーギュストに向けた。
「だが——ルナを利用するなら話は別だ。それだけは、覚えておけ」
「……」
低く冷えた声がその場に落ちる。
オーギュストを見据える空色の瞳には、明確な警告が宿っていた。
真っ向からそれを浴び、オーギュストは静かに目を細めた。
「……ずいぶんな誤解ですね」
人当たりのいい笑顔は、それでもまだ崩れない。
「私は、君たちの味方ですよ?」
「そうか。それなら、俺も嬉しいんだがな」
「……」
はぐらかすように言うオーギュストに、ディーンはそうとだけ言い残し踵を返した。そのまま歩みを進める。石畳を歩く靴音を自分で聴きながら、ディーンは心で願った。
(本当に……そうであればいいんだがな)
オーギュストは、有用な人物だ。自分にとっても、ルナにとっても。
だから胸を掠める違和感が、どうか誤解であればいい。
だが、そうでない場合……もしも彼が、ルナの敵に回るというのなら。
(その時は——俺が必ず、食い止める)
歩を進めながら、ディーンは胸に誓う。
新たな決意に燃える彼は、気づくことができなかった。
自分を見送るオーギュストの口元から、ゆっくりと柔和な笑みが消えたこと。そして——
「……揃いも揃って、扱いづらくなりましたね」
——底冷えする声で呟かれた、その言葉に。




