6.ディーン・マリウス・ヴァレンティス⑤
——それからディーンは、今までの奔放な態度が嘘のように、取り憑かれたように聖務に取り組むようになった。
堅苦しいと逃げ回っていた儀式や式典も放り出さず、大量の書類を渡されれば黙々とこなす。かといって今まで行っていた遠征や巡回も手を抜くことはない。
多くの神殿関係者は、その変化に喜んだ。
「ああ、勇者様が変わられた」
「ようやく勇者としてのご自覚が芽生えたのだ」そう言って涙を流す者までいる。
だがなんのことはない、ただ失恋の痛みから目を逸らしたいだけだった。何かに打ち込んでいれば、その時だけはルナを忘れられた。
寝る間も惜しんで聖務に勤しむディーンに、『神殿の犬』『正義の人形』などと嘲る声もあった。
だがディーンにとって、そんな陰口すらどうでもよかった。
いっそ本当に心を無くして、正義のためだけに生きられたら楽なのかもしれないとまで思った。
(結局……どこにいても俺は、こういう生き方しかできないのかもしれない)
遠征先で、街の巡回で、儀式のために赴いた王宮で——『勇者』に対する称賛を浴びるたび、胸の奥が冷えていった。
憧憬。心酔。熱狂。幼い頃から嫌になるほど向けられてきた感情。そんなものを宿した瞳を見るたび、自分がまた『白髪の勇者』という器へ戻っていくような気がした。
幼い頃から何度も感じていた諦観。過去に戻ったような色味のない毎日。
けれどそれにも、意外にもあっさりと慣れる。何かを諦めて生きるのは得意だった。
だけどたまに、それとは違う色を宿した黒の瞳が胸をよぎることもあった。
遠目に見えた黒髪を、ふと目で追ってしまう癖は治らなかった。
ルナを悪様に言う噂話を耳にすれば腹が立った。
今日もまた祈祷の間から出てこないと聞けば、大丈夫かと心配もした。
ディーンは愚かではない。ルナが何かを抱えていることには、とうに気づいていた。
けれど今まで通り振る舞えるほど、大人でもなかった。
遠目に聖女服を見つけるたび、つい目を奪われ、すぐにハッとして視線を戻す。気づかれないようにとその場を去る。そんなことを繰り返した。
そんな毎日にも慣れ始めた、ある日のことだった。
「至急出動してください! 子供たちが危ないんです!」
今後の遠征についての確認に、聖騎士団本部へ寄ったときのことだった。
聞き慣れた声が、廊下の向こうから飛び込んできた。
(ルナ……?)
ルナの声だった。大神殿内の施設とはいえ、騎士団の管轄にルナが現れるのは珍しい。まして、こんなに焦ったような声を上げるなんて。
何かあったのかと、ディーンは扉の向こうから中を窺った。
話を聞けば、この王都のどこかに子供を使った地下闘技場が存在するという。魔物と子供を戦わせ、それを見世物にする悪辣な場所らしい。
聞いているだけで胸糞が悪くなるような話だった。ルナと相対する騎士団員も、次第に顔を蒼白とさせていく。
まして被害に遭ったというその子供は、この神殿付きの孤児院の出の者らしい。ルナが以前から可愛がっていた子供たちだ、焦るのはわかる。
すぐに出動命令が下るだろう、自分も準備をするべきか——そう思った、その時だった。
「……事情はわかりました。ですが、今すぐ騎士団を派遣することはできません。我々の出動命令は、大神官オーギュスト様の権限です」
「そんな……!」
申し訳なさそうに言われた言葉に、ルナは愕然とした。
部屋の外から窺うディーンもまた、驚き目を見開く。まさか断られるなんて思っていなかった。何より、
(ルナに、聖騎士団の出動権限がない……?)
その一言が引っ掛かった。
手広い男だ、オーギュストにその権限があるのはわかる。だが、『聖女』であるルナにそれがないことが、どうにも心に引っ掛かった。
「なら、オーギュストに許可をとってくるわ。それならいい!?」
「それが、そのオーギュスト様は現在、祝祭の巡礼のために地方へ派遣されているのです。お帰りがいつになるか……」
「それまで事態を放置しろと言うの!?」
「確証のある話ならすぐに対応できます。しかし、子供の証言のみとなると……。まずは調査隊を送りましょう。今、団長にも掛け合ってみますから」
「それじゃあ、今夜犠牲になるかもしれない子は救えないじゃない……!」
考え込むディーンをよそに、会話は進む。
丁寧な、だが明確な拒絶に、ルナが絶句するのが後ろ姿だけでわかった。
立ち尽くす背中を眺めながら、ディーンは思う。
(さて——どうするべきか)
今この状況で、自分だけは自由に動ける。『勇者』を動かす権限など誰にもない。ディーンは、ディーンが思うのなら、その通りにこの剣を振るえる。ルナの願いを叶えられる。だが——
『放っておけばいいじゃないか』心のどこかで、そう思う気持ちもある。
勇者として命が下ったわけではない。ルナに個人的に頼まれたわけでもない。手を貸してやる義理など、今の自分とルナにはない。
それに、あの騎士にも一理はある。
責任者もいない状態で、確証もないのに騎士団を動かして「何もありませんでした」では済まない。彼の言う通り、まずは調査隊を送り、オーギュストの帰還を待つべきだ。
(……オーギュストが帰ってきたら、あるいは出動令が出るかもな)
そう考え、ディーンは寄りかかっていた壁から背を離し、その場を去ろうと一歩足を踏み出した。
その時だった。
「……責任なら、私がとるわ」
重々しい一言が、空気を震わせた。
「——私は『聖女』よ! この神殿で、教皇に次ぐ権限を持つ者。民を守るためなら、聖騎士団を動かす権限くらいあるはずでしょう!?」
——それは、『聖女』としての宣言だった。
漆黒の瞳が真っ直ぐに眼前の騎士を見据えた。揺るぎない声色に、周囲の騎士たちが思わず姿勢を正す。
空気が張り詰める。扉の向こうにいるディーンさえ、心をがしりと掴まれた思いがした。
(ああ、お前は……)
どこまでも、『聖女』なのだな。
凛と伸びた背筋。真っ直ぐな瞳。誰かのためになると思ったら、立ち止まることなどできないその姿勢。
全てが理解できなくて、だからこそもっと傍で見ていたいと思った。
あの頃のままのルナが、そこにいた。
「——それなら、俺が行く」
気づけば踏み出したはずの足は真逆を向き、その言葉が口からこぼれ落ちていた。
「……ディーン!?」
「ゆ、勇者様!?」
背後から突然現れたディーンに、ルナも、その騎士も驚いたように目を見開いた。
「話は聞いた。急ぎなんだろう? なら俺が行く。『勇者』に、出動命令はいらないからな」
「ディ、ディーン。でも……」
「でも、なんだ? お前が言ったんだろう、『責任は自分がとる』と。お前が命じるなら、俺は出る」
「……っ」
ディーンの言葉に、ルナは一度だけたじろいだ。
だけどすぐに強い瞳でこちらを見返し、一つ大きく頷く。
「……命じます。勇者ディーンよ、神の名のもとに、地下闘技場に囚われた子供たちを救い出しなさい!」
「——御意」
言葉と同時、ディーンは颯爽と歩き出す。
『聖女ルナの言葉に、勇者として応える』それだけのことだ。そういうことにしておけばいい。
けれど、久しぶりに真っ直ぐ自分を見つめる黒い瞳を前にして——ディーンはもう分かっていた。
——結局、自分はこの女を放っておけないのだ。




