5.ディーン・マリウス・ヴァレンティス④
「……」
突然現れたディーンに、ルナは気まずげに視線を落とした。
しばしの沈黙の後、その気まずさを振り切るように口を開く。
「……ごめんなさい、私、まだ用事があるから、っ……!」
「、ルナ!?」
そう言って一歩踏み出した、その時だった。
ルナの身体がぐらりと傾く。ディーンは反射的に腕を伸ばし、その身体が床へ倒れ込む寸前で抱き止めた。
「おい、大丈夫か!?」
腕の中のルナは、「だ、大丈夫」と掠れた声で答えた。だがその顔色は青白く、どう見ても大丈夫そうには見えない。
そもそも、祈祷の間から出てきた時から、ひどく疲労の滲んだ顔をしていた。
「また無理してるんじゃないか?」
ルナの身体を支えたまま、もう片方の手を額へ伸ばす。
するとルナは、ハッとしたように身を引き、その手から逃れた。
「だ、大丈夫よ! ずっと膝をついていたから、少し立ち眩みをしただけ。心配されるようなことじゃないわ」
「……っ」
無理に口元だけを持ち上げ、笑顔を作る。そして、まだ震えている脚で無理やり立ち上がろうとした。
明らかな拒絶だった。
その態度に、胸の奥を鋭く抉られたような感覚がする。だけど、その痛みが何なのかを考えるより先に、ずっと燻っていた苛立ちが込み上げてきた。
(そこまでして……俺を避けたいのかよ!?)
目すら合わせず、話すことすら拒否するほど。倒れかけた身体を支えられることさえ嫌がるほど。
噂が理由だというのなら、どう考えてもやりすぎだ。民の目など一つもない、こんな神殿の中でまで。
なら、他にも理由があるのか? 自分が何か、してしまったのか。
それとも——
(……俺との関係そのものが、嫌になったのか?)
思い至った考えに、胸の奥がヒヤリと冷える。まさか、と思うのに、心のどこかで否定しきれない自分がいた。だから、
「……それじゃあ」
「——待てよ!」
そう言ってこの場を去ろうとするルナを、引き止めずにはいられなかった。
「な、何?」
「何、じゃないだろ。そんなあからさまに避けられて」
「避けてなんか……」
「なら、なんでこっちを見ないんだよ」
「……っ」
踵を返そうとするルナの腕を掴み、畳み掛けるようにそう言う。
ルナは顔を伏せ黙り込んだ。長い黒髪に表情を隠すように、ぎゅっと目を閉じる。その仕草に、また胸が抉れる感覚がした。
「……俺、お前に、何かしたか?」
——気づいた時には、情けないほど弱々しい声が漏れていた。
「——え?」
「だって、ずっと避けてるだろ、俺のこと。最近、あの丘にも来ない。部屋を訪ねてもいない。流石におかしいって、俺でも気づく」
「おかしくなんか……ただ、忙しいだけで」
「嘘つけ。聖務も祈祷も、必要以上に増やしてるって聞いた。そうやって自分の身体に無理してまで、避けたくなるようなことを俺はしたのか?」
「無理なんてしてないわ。必要があるからやっているだけよ。ディーンは関係ない」
「関係ないならなおのこと、目を逸らすのはおかしいだろ!」
「……」
顔を伏せたまま否定を繰り返すルナに、ディーンはそれでも食い下がった。
「それが本音なら、俺の顔を見て言えるだろ」
「……」
「……頼むから、こっちを見てくれよ」
「……」
「なあ、ルナ……っ!」
一歩近づき、ディーンはさらに言葉を重ねる。
それでもルナは黙したまま、何も言わない。
深い夜色の瞳が、こちらを見ないのが嫌だった。
「どうして」と問いかける言葉に、その理由を答えてくれないのが苦しかった。
それがなぜなのかわからないまま、言いようのない焦燥が胸を焼く。それに駆り立てられるように、気づけばディーンはルナの顎へ手を伸ばしていた。ぐいと、その顔をこちらへ向かせる。
「……同じことを、俺の目を見て言ってみろよ!」
「——っ!」
伏せていた顔が無理やり上がり、黒の瞳とばちりと目が合う。
瞬間——
くしゃり。
耐えられないようにルナの表情が歪むのを、ディーンはたしかに見た。
「……離して」
だけどすぐその目は逸らされ、弱々しくそう返される。
(——なんで)
顔に添えられたままの手を拒絶するように掴まれて、喉の奥で息を呑み込んだ。
(なんで、そんな顔をするんだ)
痛ましげに下がった眉。今にも泣き出しそうな瞳。ディーンは思わず唇を噛んだ。
そんな顔をされて——今更、離せるわけがなかった。
「……なあ、やっぱり何かあるんだろう。そんな顔をするほど」
「……ちがう」
「何が違う? 言ってくれないとわからない」
「……」
「……俺じゃ、頼りないか……?」
「……」
ディーンの言葉に、ルナは力無く首を振る。その様子に、ディーンは確信した。
何があったのかはわからない、だけど何かあったことだけはわかる。
それなのにルナは、一向にその何かを話してくれない。その事実が、何より悔しかった。
(お前を今、苦しめているのはなんなんだ? 俺に言えないようなこと? 俺との関係なんて、捨ててもいいと思えるようなことなのか? お前だって——)
ディーンの胸に、いつか言われた言葉がよぎった。
「……お前だって、俺がいないと退屈だって、言ってくれたじゃないか」
ぽつり。
静寂の広がるその場所に、消え入りそうな声が落ちた。
「あれは、嘘だったのか? 俺がいなくても、ルナは平気なのか?」
「そ、それは」
「俺は、平気じゃなかったよ。最近は、何をしてても面白くなかった。お前が何をしているか気になった」
「……」
「笑ってるんならいい。ただ忙しくしてるだけならいい。だけど避けられたら落ち着かない……何でだろうって、ずっと考えてた」
「……ディーン?」
ディーンは言いながら、ルナの顔に添えていた手を離せずにいた。指先が、無意識にその頬をなぞる。
こうしてルナに触れるのも、ずいぶん久しぶりだと思った。柔らかな肌は、疲れからかどこかガサついて、目の下にはうっすら隈が浮き出ているのに気づいた。
こんなになる前に、自分を頼ってくれればよかったのに。そんな気持ちが胸をよぎった。
「……地方へ行くたび無事に帰るか気になって、姿が見えないとまた俺の知らないところで泣いてるんじゃないかって心配だった。何かあった時頼ってくるのが嬉しかった。……その全部が当たり前になってた。無くなって、初めて気づいた」
それはほとんど、ディーンの独り言だった。ルナへ語りかけているというより、自分自身の感情を一つずつ確かめるような。
言いながら自覚していく。そうだ、最初はそれでもいいと思っていた。噂が落ち着くまで待てばいいと。
だけどそれでは足りなくなったのはなぜだ?
わざわざこんなところまで足を運んで、目すら合わせてもらえない事実に胸を痛めているのは。
頬に触れていた指先が、そのままさらりと黒髪を撫でる。
何度もしたことのあるはずの仕草だった。なのに今は、触れるだけで妙に胸が騒いだ。
(——ああ、)
そこでようやく、わかった。
自覚するとほぼ同時、その言葉は口からこぼれ出ていた。
「お前が好きだ」
静かな神殿に、囁くような声が落ちる。
呼吸が止まった。
世界から音が消えた。
漆黒の瞳が、驚いたように見開かれるのを見た。
それを真っ直ぐに見下ろしながら、ディーンは続けた。
「好きだ——ルナ。お前が一人傷つくのが嫌だ。お前に避けられるのは——もっと嫌だ。お前が誰かのために心をすり減らすなら、そんなお前の支えでありたい。そんなものいらないと、お前が本心から言うならそれでいい。だけど——俺が原因でお前が苦しんでいるのなら、俺はそれを許せない」
口に出してしまえば、不思議なくらいすべてが腑に落ちた。それに呼応するように、今度こそはっきりとした口調でそう言った。
——好きだ。
そうだ、好きだ。好きだったんだ。いつから恋に変わったのかはわからない。だけどきっと、もっと、ずっと前から。
最初からディーンにとってルナは、『特別』な存在だった。
白髪の勇者と対を為す黒髪の聖女。神の決めた理から外れた存在。そして初めて、同じ目線で話してくれた人。
心が大きく震える。感じたのはたしかな喜びだった。誰もが当たり前に抱くような想いが、自分の胸にもちゃんと芽生えていた。そのことが嬉しかった。
だが、
「——だめ!」
その言葉ごと拒むように、ルナはディーンの身体を強く突き放した。
両腕で胸を押し退けられ、顔を伏せる。項垂れたまま、低く言葉を落とした。
「……だめよ、ディーン。私たちは、『聖女』と『勇者』。その想いは、持ってはいけないの」
囁くような声が、心臓を貫いた。
「、それは……!」
「だめ。だめなのよ、ディーン。お願い、わかって」
ルナは何度も首を振り、否定の言葉を繰り返す。明らかな拒絶に、ディーンは胸が裂けるような想いがした。
ただ想いに応えられないというのなら、それでいい。
自分と同じ気持ちではないと言うのなら、それでも構わない。
だけど——
「……っだが! 心までは、止められないだろう!? ただ好きでいることは、何も悪いことじゃないはずだ!」
「……っ!」
食い下がるディーンを、振り払うようにルナは叫んだ。
「——私たちに心はいらないのよ!」
悲痛な声が、回廊に響いた。静かなその場所にこだまして、何度も耳に届く。
ディーンにはそれが、自分自身を真っ向から否定する言葉のように聞こえた。
——その言葉に、一つの記憶が重なる。
『あなた様には、ふさわしくありません』
『御身に万一のことがあってはならないのです』
自分が何を着たいか。誰と付き合いたいか。どう戦いたいか。
そんなことを、誰ひとり気にかけてはくれなかった幼少期。
白髪という『器』だけが大切にされ、まるで自分に心はいらないかのような扱いをされていたあの時代。
目の前で震える黒髪の少女を眺めながら、ディーンは思った。
(——ああ、)
お前もか、と。
「…………そうか」
痛いほどの静寂が落ちる。
長い沈黙のあと、ディーンはようやくそれだけを絞り出した。
「俺の心なんて、いらないのか」
無意識に言葉が溢れる。
その時にはもう、心の奥は冷え切って、何を感じればいいかすらわからなくなっていた。
「しつこくして、悪かったな」
「あっ、ディ……!」
そう言って、踵を返す。そのまま足早にその場を去った。
その背中に、名前を呼ぶ声がかけられた気がした。
だけどもう、その姿を振り返ることはできなかった。




