4.ディーン・マリウス・ヴァレンティス③
それからというもの、ディーンは否応なくルナを意識するようになった。
遠征から帰還した自分を迎える笑顔、よろめいた身体を受け止めた時に感じたその小ささ。あの丘で目にした、どうしようもなく泣き腫らした顔。そんな一つ一つが妙に胸に残り、気づけばその姿を目で追うようになっていた。
そしてルナもまた、以前とはどこか違う目でこちらを見るようになった。そんな気がしていた。
だが、そんな二人に転機が訪れる。
民衆の間に、ルナとディーンが恋愛関係にあるという噂が流れはじめたのだ。
「よくもまあ、こんなしょうもないことで盛り上がれる……」
オーギュスト執務室、その来客用の長椅子に腰掛けながら、ディーンは深いため息をついた。
勇者と聖女が、聖務を放り出して逢い引きをしている。そのせいで神がお怒りなった——
何がきっかけか、市井ではそんな根も葉もない噂話が囁かれていた。それはいつしか王都中に広まり、神殿に苦情を入れる者まで現れている。さすがに看過できないと、事情を聞くためにオーギュストから呼び出されたのだ。
「……先ほどルナからも話を聞き、この噂が誤解だということは聞きました。とはいえ、二人で神殿を抜け出していたことは事実。今後は少し、ご自身の立場を意識して行動してくださいね」
「聖務外のことまで口出しされなきゃならないのか?」
「私とて、君たちの個人的な関係にまで口を挟みたくはありませんよ。しかし、ここまで大事になってしまうと、何か手は打たなければ民は納得してくれませんから」
「……」
ディーンを呼び出したオーギュストは、叱責というよりも、子供に教え諭すような口調でそう言った。
たかだか民衆の噂一つで、自分の行動を制限されるのは納得はいかない。いかないが……こんな言い方をされてしまえば反論するのも憚られた。
自分はいい。民からの評判を気にするほど繊細な性格でもないし、何より、噂一つで揺らぐようなやわな功績など積んでいない。
だから問題は、ルナの方だった。
先ほどこの執務室前で出くわしたルナもまた、オーギュストから同じように釘を刺されたのだろう。ひどく思い詰めたような顔をしていた。
(変に気に病んでなきゃいいが……)
噂など、根も葉もなくとも立つこともある。誰のせいというわけでもない。強いていうのなら、ルナもディーンも少し詰めが甘かった、それだけの話だろう。
それでもルナはきっと、自分だけを責める。ディーンの『勇者』としての評判に、傷をつけたとでも思っているのだろう。
そう思うだけで、ディーンの胸に言いようのない感情が広がった。
「……俺は正直、『聖職者は配偶者をもってはいけない』なんて決まりすら、どうかしてると思うけどな」
「今の言葉は、聞かなかったことにして差し上げましょう。我等は皆、神の配偶者。それが認められないのなら、この神殿を出ることですね」
「……」
ぼやくような呟きにそう返され、返す言葉を失う。
生涯を神に捧げることなど、構わないと思ったから『勇者』の道を選んだ。なのになぜ、今更そんなことを思うのだろう。
今はただ、自分を避けるように廊下を駆けて行ったルナの後ろ姿が、脳裏から消え去ってくれなかった。
そんなディーンの予想は、果たして的中した。翌日からルナは、あからさまにディーンとの距離をとり始めたのだ。
あれからルナはすぐさま聖務官の元へ向かったらしい。できる限り予定に聖務を詰め込み、それが終われば祈祷の間に籠るようになった。ディーンはおろか、他の巫女や侍女でさえもほとんど顔を合わせなていない。
いつものようにルナの自室を訪ねても、彼女の侍女が「申し訳ございません。まだお仕事中で……」と困ったように眉を下げるだけ。たまに顔を合わせても、疲れ切った表情で「ごめんなさい、まだ仕事があるの」と不自然に目を逸らされた。
(……まあ、仕方ないか)
最初はそんなふうに思っていた。ルナの性格だ、「噂なんて気にするな」と言っても無理だろう。
(噂なんてすぐに収まる。それまでのことだろう)
そうも思っていた。だが、待てど暮らせどルナの態度は変わらない。ディーンもディーンで、勇者としての任務に忙しく、神殿を空けることも多い。気づけば二人は、今までの親密さが嘘のように、ほとんど顔を合わせることすらない日々を過ごしていた。
その日も、廊下の向こうにルナを見つけた。声をかけようとしたところで、こちらに気づいた彼女が近くにいた神官へと話しかける。そのまま二人で、別の廊下へと去ってしまった。
(……なんなんだよ、あいつ)
あからさまな態度に、ディーンは内心で舌打ちした。
大体、噂がなんだというのだ。民からの評判一つで簡単に切り捨てられるほど、自分との関係はルナにとってどうでもいいものだったのか。そう腹すら立てた。
そのうちディーンの『日常』も変わっていく。
ぽっかりと空いた時間にも、ルナの自室を訪ねることがなくなる。孤児や犬の世話を押し付けられることもない。聖務帰りには一人で街を歩く。
それは、ルナがこの神殿に来る前、自分が当たり前に過ごしていたものだった。なのに——
(……つまらない)
ふと胸を掠めたその感情に、ディーンは目を瞬いた。
ずっと昔から、自分の心の底にあったもの。
だけどルナと出会ってからは、いつの間にか忘れて去っていたものだと、ディーンはその時気づいたのだった。
*
「……あ」
「……おう。久しぶり」
祈祷の間から出てきたルナは、壁に寄りかかるディーンを認めると、驚いたような声を漏らした。
疲労の滲んだ彼女の顔を眺めながら、ディーンは軽く片手を上げて応える。
「……こんな時間にこんな場所を通るなんて、珍しいわね」
「俺が祈りを捧げに来るのは、おかしいか?」
「そういうわけでは、ないけど……」
ルナはそう言って、どこか気まずそうに目を逸らした。その態度に胸の奥がざわつくのを感じながらも、ディーンは何でもないことのように肩を竦める。
しれっと答えてはいるが、もちろん、この自分が祈りを捧げに来たわけがない。
ルナを待っていたのだ。ルナが毎晩、聖務を終えたあとにこの祈祷の間へ籠っていることは、彼女の侍女から聞いていたから。
こんなことをするのは、初めてだった。
誰かが自分のもとへ来るのをただじっと待つことも、自分を避ける相手をそれでも追いかけようとすることも。
それなのになぜ、ルナ相手にだけはこんな気持ちにさせられるのか。
「……」
久々の対面に、ルナは気まずげに視線を落とす。
睫毛が頬に影を落とすのを、まだざわつく心で眺めた。
それでも——もう、このままにはしておけなかった。




