1.プロローグ
「貴女は結局、最後まで私には勝てなかった」
勝ち誇るオーギュストを前に、カトリナの身体はとうとうその場へ崩れ落ちた。その身体はすでに大半が光となり、今にも消え去ろうとしている。
オーギュストへまとわりついていた亡骸たちもまた、次々と光へ変わり、闇の中へ溶けていった。彼の全身を這う黒い痣こそまだ色濃く残っているものの、荒れていた呼吸は幾分か落ち着きを取り戻している。
そして、そんなオーギュストを庇うようにして立つ、勇者ディーン。
もはやカトリナに、成す術などない。
それでも彼女は、消えかけた声で呟いた。
「——返して、」
「ふふ、まだ言いますか。その執念だけは認めて差し上げますよ。その消えかけの身体で、いったい何ができるのかは知りませんがね」
そんな彼女を見下ろしながら、オーギュストは愉快そうに鼻を鳴らした。
そしてふと視線を上げると、燭台だけが照らす薄暗い室内をゆっくりと見回す。藍の瞳を細め、静かに言葉を落とした。「さて——」
「——出てきなさい、ルナ」
そう、どこへともなく呼びかける。
闇は何も応えない。
深く夜を映したまま黙す。
オーギュストはもう一度視線を流し、その先へも声を上げた。
「どうせ見ているのでしょう。次はあなたの番ですよ」
オーギュストが、闇へ向かって薄く笑う。
直後——闇の奥で、紅い瞳がひとつ開いた。
「——あら。気づかれていたのね」
鈴を転がすような女の声が、暗がりに響いた。
次いで、クスクス、クスクス、と、耳元をくすぐるような笑い声が。
カトリナへ向けられていた視線が、一斉に闇の奥へと向けられる。
ディーンが身を低くし、聖剣の切っ先を暗がりへ向けた。オーギュストもまた、その表情から薄笑いを消し、じっと闇を見据えた。
二人の眼前に、ひらり、黒のドレスの裾が揺れた。
「久しぶりね、ディーン。そして——オーギュスト」
ゆらり——言葉とともに、闇の中から黒髪の女が浮かび上がる。その背後を追うように、小さな黒猫が音もなく跳ねた。
夜闇をそのまま紡いだような黒髪と、慈愛に満ちた穏やかな微笑み。彼らがよく知るはずのその姿。だが——
血のように紅い瞳と、肌を刺すような冷たい気配が、彼女がすでに自分たちの知る『聖女』ではないことを否応なく知らしめていた。
ルナ・ルクス。
『魔女』の登場に、その場の空気がぴんと張り詰めた。
「意外ですね。君がカトリナに手を貸すなんて」
けれどオーギュストは、その緊張感すら意に介さず、まるで旧友へ語りかけるような気安さでそう語りかけた。
「この女は、君の命を奪った元凶の一人でしょう? それとも、稀代の聖女と謳われた君にとっては、彼女もいまだ守るべき民に見えるのかい?」
「守るべき、だなんて。私はただ、愛しているだけよ。この世界に生きる、すべての人間を。カトリナも——オーギュスト、あなたであってもね」
「世迷い言を。命を奪われた負け犬の遠吠えにしか聞こえませんね」
慈愛の笑みを浮かべそう宣うルナに、オーギュストは吐き捨てるようにそう言った。
だがルナは気を悪くするでもなく、ただその笑みを深めるだけだった。
「守るつもりも助けるつもりもないわ。私はただ、人が紡ぐ物語が見たいだけ」
「では、此度の物語はあまり満足のいくものではなかったかもしれませんね。見ての通り、カトリナの負けです」
「言ったでしょう? 私はただ、見たいだけ。その行く末がどうであろうと、この愛が変わることはないわ」
「……相変わらず、奇矯な女だ」
オーギュストは、理解できないと言わんばかりに眉を顰める。
そんな彼へ、ルナはくすりと笑みをこぼす。「それに——」囁くように、言葉を続けた。
「そもそも、彼女の物語はまだ終わっていないわ」
「は、————」
その言葉に、一瞬だけ理解が遅れる。背筋にぞっと怖気が走った。
まさか。
その考えが脳裏を走るのと同時、オーギュストは慌てたように振り返った。
その先には——
もはやほとんど首だけとなったカトリナが、オーギュストの取り落とした大杖へとしがみついていた。
『——返して』
声が、再び脳へと直接流し込まれる。
紫の瞳がこちらを睨み上げた、その瞬間——オーギュストはようやく、すべてを理解した。
(まさか最初から、これが目的で——!)
「っディーン! 今はルナではない、カトリナを——」
「返してもらうわ……! ディーン様の、お心を——!」
言ってももう遅い。
カトリナは、残された頭だけでそう叫ぶと——漆黒の宝玉へ、強かに噛みついた。
「……ッ!」
眩い光が爆ぜる。幾重にも広がる輝きが、黒い宝玉を内側から侵した。磨き上げられたその表面に、ピシリと細い亀裂が走った。
カトリナの聖力……それは、『他者の聖力を見抜くこと』『呪いに染まった力を見分けること』転じて——『呪われた力を、自らの聖力によって否定すること』。
かつてアネリアの呪いによって生み出された花を消し炭へ変えることができたのも、この力があったからだった。
宝玉によって増幅されたオーギュストの呪いそのものを、打ち消すほどの力はカトリナにはない。だが——
(オーギュストの手を離れた、この宝玉を壊すくらいなら……!)
『目を覚まして——ディーン様!』
叫ばれたその声が、もはやどこから響いたのかはわからない。宝玉へと喰らいつくカトリナの顔は、すでに半分以上が光となって消えていた。
それでも彼女は、残された最後の力を振り絞る。突き立てたその歯へと全霊の力を注ぎ込み——
——バキンッ……!
鋭い音を立て、ついに宝玉が砕け散った。
「——っ莫迦な…!」
漆黒の欠片が、石床へ飛び散る。蝋燭の灯りを受けて煌めきながら、星屑のように暗闇へと落ちていった。
「ディーン!」
オーギュストが叫ぶ。
誰もが息を呑み、聖剣を構えたまま立つ男へ視線を向けた。
カトリナもまた、半ば消えかけた顔を上げ、残された片目を愛しい男へと向ける。
その紫の瞳が最期に映したものは——
ディーンの瞳に、再び光が灯る瞬間だった。




