13.オーギュスト・ドミニク・ブラッドフォード③
「——つまらない夢を、見ていましたね」
窓から差し込む朝日に起こされ、オーギュストはゆっくりと目を覚ました。
そこは、大神殿内にある彼の私室だった。柔らかな寝台の上で上体を起こし、静かに室内を見回す。
長い夢を見ていた気がする。自分がまだ若かった頃の夢だ。
希望と熱意だけを胸に生きていた、あの時代。あまりの懐かしさに、ふと笑みがこぼれた。
「……あの男には、感謝しなければなりませんね」
オーギュストの脳裏に、かつて自分を辺境へ追いやった上役の顔が浮かぶ。
「彼がいなければ——この場所へなど、決して辿り着けなかったでしょうから」
豪奢な調度の揃った室内を眺め、くすりと喉を鳴らす。
広々とした寝室も、異国から取り寄せた絨毯も。枢機卿という地位にまで上り詰めなければ、手に入れることはできなかっただろう。
ここにあるものはすべて、自らの力で掴み取ったものだ。そう思うたび、オーギュストの胸は静かな充足感で満たされた。
——さあ、今日も満たされた一日が始まる。
オーギュストは清潔な寝具から身を起こすと、昨夜のうちに侍従が用意していた水差しを手に取った。
寝室に備え付けられた洗面器へ水を注ぎ、顔を洗おうと身を屈める。澄んだ水面に、自らの顔が映った。
瞬間。
「————ッ!?」
声にならない悲鳴が喉から漏れた。
反射的に手を振り払い、水差しを取り落とす。それは床へ叩きつけられ、甲高い音とともに水を辺り一面へ撒き散らした。
「ど、どうされましたか、オーギュスト閣下!?」
大きな物音を聞きつけた侍従が、扉の外から慌てた声をかける。
だがオーギュストは返事すらしない。
浅く息を繰り返しながら、手の甲で何度も顔を拭った。そして恐る恐る、その手を見つめる。汚れ一つない、自身の両手を。
(……おかしい)
だけどその綺麗な手が、オーギュストに恐れを抱かせた。
先ほど水鏡に映った自分の姿。それは——
全身が、真っ赤な血に濡れていた。
「————カトリナ…ッ!」
血など一滴もついていない拳を、強く握り締める。そして憎々しげに、その名前を吐き捨てた。
夜の足音が、聞こえ始めていた。
*
その日を境に、オーギュストの周囲にはカトリナの『呪い』の片鱗が現れ始めた。
鏡や水面など、自らの姿を映すものを覗き込むたび、そこには本来あるはずのないものが映り込む。
たとえば、血塗れの手。首へ絡みつく黒い糸。足元に折り重なる、自分がこれまで利用してきた者たちの亡骸。ディーンと並んで鏡に映った時には、その身体を操るように幾本もの糸が伸びているのが見えたこともあった。
オーギュストは焦った。
カトリナが死後、魔女へと堕ちたことにではない。その呪いが自分へ向けられていることにでもない。厄介なのは、その性質だった。
鏡は神具として、大神殿の至るところに飾られている。自らの姿を一切映さずに過ごすなど、容易なことではなかった。
鏡だけならまだいい。
磨き上げられた窓硝子や、水を張った器。雨上がりの石畳にできた水溜まりにまで、その『呪い』は容赦なく現れた。
そのせいでオーギュストは、自室も執務室も厚いカーテンで閉ざし、満足に顔を洗うことすらできない生活を強いられるようになっていた。
呪いは、日毎に色濃くなっていった。
初めは自身の汚れた姿だけだったそこに、やがて死んだはずのカトリナ自身の姿まで現れるようになる。
そして鏡の中の彼女は、決まって同じ言葉を口にするのだ。
——『返して』、と。
「チッ——!」
鏡の奥で光る紫の瞳に背筋が粟立ち、オーギュストは反射的に拳を叩きつけた。
甲高い音とともに鏡が砕け散る。その物音を聞きつけ、また侍従たちが慌ただしく集まってきた。最近のオーギュストはどこかおかしいと、そんな囁きが大神殿内で広まり始めるのにそう時間はかからなかった。
そんなこと、何度も続いた。それでも『呪い』が止むことはなかった。
何度鏡を割っても、水を床へぶち撒けても、カトリナの影はなおもオーギュストを追い続けた。
(返して、など。あなたの命を奪ったのは、私ではなくあの『魔女』でしょうに……)
鏡の中から囁かれ続けるその言葉に、オーギュストは焦りと苛立ちを募らせる。
(……このままでは、いけませんね)
馬車の窓にすら彼女は映る。祭祀の中には大鏡を神具として用いるものもある。今では遠出をすることも、聖務を行うことすら難しくなっていた。
しかし、この呪いを解く糸口すら、オーギュストには見つけられない。
カーテンによって閉め切られ、真昼間だと言うのに暗いその部屋で、オーギュストは唇を噛み締めるしかできなかった。
——ある日のことだった。
その日、オーギュストは侍従に命じ、小さな手鏡を自室へと運ばせた。
このまま『呪い』を放置するわけにはいかない。どうにか解呪する方法を探るか、あるいはカトリナの魂そのものを祓う手立てを見つけようとしたのだ。
オーギュストは一つ息を吐くと、傍らに立てかけた大杖へちらりと目をやった。
そして、銀細工の蓋がされた手鏡を掌の上でゆっくりと開く。
磨き上げられた鏡面には——真っ赤な血をしとどに流す、自らの姿が映っていた。
「——…っ!」
思わず怯む。
だがここで鏡を投げ捨ててしまえば、また同じことを繰り返すだけだ。
オーギュストは思い直すと、藍色の瞳でじっと鏡を睨みつけた。
『——————して』
と、どこからともなく声が聞こえてくる。鏡に映る自分の背後に、豪奢な金髪の女が現れた。
もちろん、現実の背後には誰もいない。鏡の中にだけ存在するその女は、紫の瞳を妖しく光らせながら、何度も同じ言葉を繰り返していた。
『——————して。————えして。——返して。返して。返して。返して、返して……』
おどろおどろしいその声が、いったいどこから響いてくるのかは分からない。
耳元で、背後から、脳に直接流し込まれるように。その声は囁かれる。その度に背筋が粟立つ。
それでもオーギュストは、手鏡を投げ捨てなかった。もう片方の手で、大杖を強く握り締める。
『返して。返して。返して。返して』
声が次第に大きくなる。鏡の中のカトリナが、その白い手をゆっくりと持ち上げた。
細い指先が、鏡越しにこちらへ伸ばされる。その腕は鏡の中のオーギュストを横切り、少しずつ、少しずつ鏡面へ近づいていった。
そして、爪の先が鏡と現実の境へ触れた、瞬間。
「ぐっ——!?」
鏡の中から白い腕が飛び出し、オーギュストの喉を強かに掴んだ。
反射的に大杖で振り払う。
そのまま手鏡を床へ叩き落とし、止めを刺すように杖の先端を鏡面へ振り下ろした。
甲高い音を立てて、鏡が砕け散る。
——そこから飛び出していたはずの腕は、気づけばもうどこにもなかった。
まるで、すべてが幻だったかのように。
だが——
「——ゲホッ、ゲホッ!」
オーギュストは激しく咳き込んだ。
締め上げられた喉の苦しさも、呼吸を奪われる感覚も。細い指先が首へ食い込んだ痛みも、すべて自らの身をもって味わった、現実のものだった。
呪いが、現実へ侵食し始めている。
そのことを、オーギュストは今、はっきりと理解した。
「……なるほど」
だけどもオーギュストは、これまでになく落ち着いた声でそう呟いた。
その声音には、先ほどまでの怯えはもうない。
足元に散らばった鏡の破片を見下ろし、静かに目を細めた。
「カトリナ。あなた——外へ、出てこられるのですね」
大杖を握り直し、ゆっくりと立ち上がる。
その口元には——僅かに余裕を滲ませた笑みが浮かんでいた。




