12.オーギュスト・ドミニク・ブラッドフォード②
「オーギュストさま、見て見て! これ、今朝採れた野菜だよ!」
「こっちも、やっと水路が完成しました。オーギュスト様の働きかけのおかげです」
小さな教会に、村人たちの声が響く。
寄せられる感謝の言葉に、オーギュストは穏やかな笑みを浮かべて応えた。
「私の力など、ごく僅かなもの。あなた方の働きに、神が応えてくださったのでしょう」
*
オーギュストが辺境の開拓地へ赴任してから、しばらくの時が経っていた。生来の真面目さと熱心さもあって、彼はこの地でも精力的に働き続けた。
もっとも、それは司祭としての務めというより、ほとんど開拓者の一人として働くような日々だった。
この地での暮らしは、非常に厳しいものだった。
深い森に覆われたその土地は、どれだけ耕しても容易には作物を実らせない。硬く痩せた土を掘り起こすだけで、一日が終わることすらあった。明らかに農耕には不向きなその土地は、近隣の者たちから『呪われた土地』と呼ばれているほどだった。
当然、そこに暮らす者たちも苦しい生活を強いられた。その暮らしぶりは、王都の貴族として生まれ育ったオーギュストには想像したこともないほどだった。
まだ幼い子供でさえ農具を握り、大人たちに交じって畑を耕す。それほど働いても、一日に口にできる食事は僅かなもの。
そんな暮らしに心を痛めたオーギュストは、大神殿を通じて王宮へ援助を求めた。元は国策によって拓かれた土地、僅かながら支援を受けることはできた。それがあってようやく日々を繋いでいける、その程度のものだったが。
(私がこの子たちくらいの年頃には、どう過ごしていただろう……)
小さな手を土まみれにしながら働く子供たちを眺め、オーギュストは自身の幼少期を思い返した。
部屋で本を読んで過ごしたり、父が呼んだ教師から学問や礼儀作法を教わったり——当時は、それなりに厳しい教育を受けているつもりでいた。
だが今、目の前にいる子供たちはその比ではない厳しさの中で生きている。その事実に、胸の奥が締め付けられた。
聖力を持って生まれた自分は、民のために在らねばならない。そう信じて生きてきた。
けれどそんな自分の力も言葉も、こんな辺境までは一切届いていなかった。そのことが、ひどく口惜しかった。
(彼らと私と、いったい何が違うというのだろう)
そんな疑問が、ふと頭をもたげる。
自分も、あの子供たちも、同じ人間。等しく、神の子であるはずだ。
それなのに、貴族として生まれ育った自分と、この辺境に生きる彼らとでは、歩む人生があまりにも違っていた。
そして、オーギュストは思う。
(——だからこそ、私はここへ遣わされたのではないか?)
彼らを救うために。この場所を、少しでも良いものへ変えるために。
すべての民のために、自分は聖職者という道を選んだのだから——
そう思い至ったオーギュストは、すぐさま王都へ戻る準備を始めた。
大神殿へ、さらなる地方支援を要請するために。
*
(……この神殿は、こんなにも豪奢な造りをしていたのですね)
久方ぶりに大神殿の廊下を歩きながら、オーギュストはふとそんなことを思った。
磨き上げられた大理石の床、壁を飾る美しい装飾、細やかな意匠の施された調度品。かつてここで暮らしていた頃は気にも留めなかったのに、今はなぜかそうしたものばかりが目についた。
そして目に入るたび、思うのだ。
(こんなところに費やす金があるのなら、もっと……)
——オーギュストはその日、さらなる地方支援を要請するために大神殿を訪れていた。
だがその話は難航した。
貧困に喘ぐ民を救わずして何が神殿かと訴えるオーギュストに対し、聖務官は割ける予算にも限りがあると繰り返す。
話は平行線を辿り、ついには、
「これ以上の支援となれば、責任者の承認が必要です」
そう告げられ、かつての直属の上司のもとへ赴かなければならなくなった。
(どうせ挨拶には伺うつもりだったのだから、それは構わないが……)
そう思いながらも、この程度の要請一つすんなり通らない神殿の融通の利かなさに、胸の奥には釈然としないものが残った。
やがて、かつての上役の執務室へと辿り着く。オーギュストに地方赴任の命を下した、あの高位神官の部屋だ。
重厚な扉の前に立ち、ノックしようと手を上げたその時、扉が僅かに開いていることに気づく。その隙間から、声が漏れ聞こえてきた。
「そういえば、戻ってきているのだって? あの、ブラッドフォード家の倅」
「ああ。なんでも、配属先への支援要請のために一度王都へ戻ったらしい」
——自分の話をしている。
そう気づき、オーギュストの手が止まった。
どうやら先客がいるらしい。出直すべきか迷っているうちにも、室内の会話は続いていく。
「相変わらずだよ。熱意ばかり先走る若造だ。あの様子では、自分が左遷されたことにも、まだ気づいていないのだろう」
————————え?
聞こえてきた言葉に、思考が止まる。
ノックしようと持ち上げたままの腕が、不自然な姿勢で固まった。
「優秀なのは認めるが、若いうちからあまり目立たれても困る」
「手厳しいな」
「教育的指導だよ。なに、あそこで数年も燻っていれば、さすがに大人しくなるさ」
続けざまに聞こえてくる言葉に、頭から冷水を浴びせられたような心地がした。
——左遷?
——若いうちから目立たれると困る?
——数年も燻っていれば?
……何を言っている。若さなど関係ないと、自分の力を必要としている者たちがいると、あの地への赴任を勧めたのは他でもないあなたではなかったのか。
そう思った時には、もう言葉が口をついて出ていた。
「……どういうことですか?」
言葉と同時に、僅かに開いていた扉が大きく押し開かれた。
来客用の長椅子に深く腰掛けていた上役が、驚いたように顔を上げる。
「オーギュスト……!? 聞いていたのか……!?」
その声に、表情に、先ほど耳にした言葉がすべて真実だったのだと悟る。信じていた上司の裏切りに、オーギュストはひどく打ちのめされた。
……いや、違う。
見ないふりをしていただけだ。思い当たることはいくつもあった。ただ、信じたくなかっただけだ。自分を疎み、遠ざけようとする者が、こんなにも近くにいたということを。
「左遷だなんて……。私をここから追いやるために、あの地へ送ったということですか……!?」
「な、なんだ。すべて事実だろう。私は何も、間違ったことは言っていない」
声を震わせるオーギュストに対し、上司はやがて開き直ったように言葉を重ねた。
「熱意があるだけ、能力があるだけでは動かせないものがある。それを教えてやったんだ。むしろ感謝してほしいくらいだ!」
「……っ!」
「文句があるのなら、私以上の立場になればいい。そうすれば、その熱意とやらも好きなだけ振るえるだろう」
続けられた言葉に、オーギュストは今度こそ何も返せなくなった。
——それから先のことは、もうほとんど覚えていない。
上役は、聖務官から求められていた承認については、拍子抜けするほどあっさりと認めた。そのおかげでオーギュストは、新たな援助を手土産に辺境の教会へと戻ることになる。
「オーギュストさま、おかえりなさい!」
古びた農具を手に、自分を出迎える子供たち。その頭を、いつものように優しく撫でてやる。援助の話を告げれば、村の大人たちは喜びオーギュストに感謝を告げた。
彼らの笑顔が陰るたび、その手に傷が増えるたび、胸を引き裂かれるような思いがしていた。けれど今は、それとはまた別の感情が胸の奥に芽生えていた。
(——どうして?)
王都で暮らす者たちの姿が、ふと脳裏をよぎる。
ここの村人たちが纏うぼろ切れのような服とはまるで違う、鮮やかに染められた流行りの外套。綺麗に整備された石畳の道。夜になれば衛兵が巡回し、魔物の襲撃に怯えることもなく眠れる街。
(あの子供たちと、この子たち。いったい何が違うというのだ?)
人は誰しも、生まれ落ちた場所によってその人生を大きく左右される。
王族に生まれれば、生涯困ることのない暮らしができるだろう。一方で、寒村には幼くして命を落とす子供など、掃いて捨てるほど存在する。神が創りたもうたこの世界は、あまりにも不平等だった。
そのことに気づいた時、オーギュストは初めて、はっきりとその感情を抱いた。
——ずるい、と。
そしてその不条理に縛られているのは、この者たちだけではない。オーギュスト自身もまた、生まれ持ったものによって、幾度となく限界を決められてきた。
次男だから、爵位は継げない。
男だから、『聖女』にはなれない。
能力の性質が違うから、『勇者』にはなれない。——そして極めつけが、あの上役による左遷だった。
あの男は、ブラッドフォード家よりわずかに爵位の高い貴族家の出身だった。その家柄を後ろ盾に、神殿でも高い地位を得ていたのだと後になって知った。
聖力の強さも、これまで積み上げてきた功績も、自分の方がずっと上だというのに。それなのに、たったそれだけの違いで彼の下に置かれ、その命令一つで人生を左右されていた。
自分とあの男の違いは、生まれと地位だけ。そしてこの村の者たちと王都に暮らす者たちも同じ、生まれが違うだけだ。
——それなのにどうして、これほどまでに歩む道が違う?
そして思う。
(——どうして私は、こちら側なのだ?)
胸の奥底へ押し込めていた黒い靄が、ゆっくりと形を持ち始める。
『勇者』や『聖女』になりたいなど、思ったこともない。高い地位へ上り詰めたいなど、一度も。
けれど能力とは何も関係のないところで自分の道を決められることが、どうしても我慢がならなかった。自分が『決められる側』にいる、その事実がたまらなく許せなかった。
それを妬みと呼ぶのならそうなのだろう。感情の名前など、どうでもよかった。
ただこの世界の不平等が、生まれた瞬間に与えられるものだけで人の行く末まで決められてしまうことが、どうしようもなく、理不尽に思えてならなかった。
——ならば、どうすればいい?
このまま与えられた地位に甘んじていれば、上に立つ者から搾取され続けるだけだ。
どれほど正しき行いを重ねても、能力を示しても、誰かの下にいる限りまたいつか奪われる。
それならば——
(……それなら、一番上まで行けばいい)
誰にも何も奪われない、高みまで。
生まれも性別も、聖力の強さもその性質も関係ない。
与えられなかったのなら、奪えばいい。
自分一人では届かないのなら——他人を利用すればいい。
そうして、誰にも自分の限界を決められない場所まで。
昇り詰めればいいのだ。
——そこから先は、早かった。
まずは開拓地周辺の地主や貴族たちと繋がりを持ち、地方における自らの立場を固めていった。自身の持つ『導きと信頼』の聖力は、ここで大いに役立った。言葉を介し人の信頼を得やすくするこの力は、他者をよき方向に導くだけでなく、自分の望む方向へ人を動かすこともまた容易だったのだ。
やがて彼らの後押しを受けたオーギュストは、再び大神殿へと戻ることになる。
王都へ戻った彼がまず手をつけたのは、かつて自分を辺境へ追いやった上役だった。
『辺境で数年も燻っていれば、さすがに大人しくなる』——男が望んだ通りの姿を見せ、懐へ入り込んでしまえばあとは容易い。家柄だけを頼りに高い地位へしがみついていたその男から、あっさりとその座を奪った。
それを皮切りに、オーギュストは自らの行く手を阻む者たちを排除していった。
『勇者』や『聖女』の選定にも深く関わり、生まれながらに『持っている』者たちの権威さえ自らが上へ昇るための足場として利用した。時には人を死にも追いやることもあった。構わなかった。最初から『持っていない』自分が上へ行くには、手にできるものすべてを利用するしかない。聖力の足りなさを補うように、それを増幅させるための大杖を特別に作らせもした。
宝玉を嵌め込んだ杖を通して振るわれるその力……人を導くはずだった聖なる力は、いつしか人の意志を縛る『呪い』へと変わっていた。
自ら選定に関わった聖女ルナを陥れ、勇者ディーンの心すら縛る。その甲斐あって、オーギュストは若くして枢機卿の座へと上り詰めた。
あとはもう僅かだ。このままディーンが勇者として功績を重ね続ければ、その後ろ盾となる自分の名声もさらに高まる。
そうすればようやく手が届く——次期教皇。
生まれも性別も、聖力の性質も関係ない。自分が手にできる最上位のその地位に。
幸い当代の教皇はすでに老齢だ。わざわざ追い落とすまでもなく、遠くないうちにその座は空くだろう。
そして、その後釜にふさわしい者など——自分以外に、あり得ない。
夕暮れの光が差し込む執務室。長く伸びた影が部屋を暗く染めていくその場所で、オーギュストは静かに口元を歪める。
窓の外では、ゆっくりと日が沈み始めていた。




