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入学式くらいは、と思って迎えにきてやったのに。
「いないんですか?」
「そうなの。珍しく早起きして……」
玄関のインターフォンをどきどきしながら押して、それで出てきたルウの母は、ソーニャの制服姿ににっこり笑って「すごーく似合ってる!」と言ったあと、困ったようにほっぺたに手を当てていた。
なーんだ、とソーニャは思う。
せっかく来てあげたのに。中学校の入学式なんて記念すべき日だと思ったから、いっしょに行ってあげようと思ってたのに。
あいかわらず、盛り上がってるのは自分ひとり、というわけだ。
はぁあ、とがっくり肩を落とすと、ルウの母は困ったように笑った。
「ごめんねえ。やっぱりあの子、ちょっと変わってるから……」
「いえ、いいんです。遅刻しないなら、それで」
「あ、えっと。それがね……」
「?」
なんだろう。ソーニャが首をかしげると、言いにくそうにしながら、ルウの母は後ろ手に持っていたらしいカバンを見せてきた。
学校指定の、真新しいカバンを。
「豪快にこれ、忘れていっちゃったの。あの子」
「…………」
ソーニャは思わず頭を抱えた。ちょっとはちゃんとした、と思った途端にこれだから。あの夏以来すごく大人びたように見えて、ほんとうのところ、なにも変わっていないのかもしれない。
「じゃあ、そもそもルウって、学校に行ったのかどうかも……」
「うん。あの子のことだから、ふらふらどこかにおさんぽに行っちゃっただけなのかも。制服だけ着て……」
はぁあ、と今度はルウの母が溜息をつく番。たいへんだろうな、とソーニャは思う。あんな子どもがいたら、毎日が大パニックだ。
「あの、探してきますよ。わたし」
気をつかって言えば――別に気をつかわなくてもどうせそうするつもりだったけれど――ルウの母の顔も、ぱあっと明るくなった。こういうところを見ると、とソーニャは思う。すごく母娘という感じがする。
「ほんとうにいつもありがとう。ソーニャちゃん。もしよければ、これ、持っていってくれない?」
「え、でも」
「だいじょうぶ。入れちがいになっちゃっても、どうせあの子、カバンのひとつやふたつくらい気にしないから。もし見つけたら、そのまま学校に行っちゃって、ね?」
はあ、とうなずけば、すぐにカバンを渡されて、せっかくだから、とお菓子もぽろぽろ渡される。下手をするとソーニャは、実の娘のルウよりもずっとたくさん、このお母さんからお菓子をもらっているかもしれない。
朝の道を、ソーニャはひとりで歩いた。
ふらふら散歩か、と考えながら。
どこにいるだろう、と思って、心当たりはひとつくらいしかなかった。小学生のころ、ふとどこにもいない、と気づいたときには、かならずそこにいたから。
でも、さすがに中学生にもなって。
そんな疑問は、ルウだから、という言葉ひとつで消えてしまう。
中学生の制服を着て、学校指定のカバンをふたつ持って、ソーニャが向かったのは、つい先月まで通っていた小学校だった。
「あら?」
「あ、」
見知った顔が、校門に立っている。
「おはようございます。アーミラ先生」
「あらあらあら。今年はソーニャちゃんですか。すごーく意外でした」
紫の髪に、めがね。おっとりした顔。去年まで担任をしてもらっていた、アーミラ。いまは子どもたちの登校見守りのためにここに立っているらしい。なにもこんなに早くに、とソーニャは思う。いちばん朝早くに来るのは、いつもこの先生だった。
「意外?」
そして、首をかしげた。なにを言われているのか、わからなかったから。
うふふ、とアーミラはおかしげに笑う。
「毎年いるんですよ。中学校に行くつもりで、小学校に来ちゃう子が。もう、ダメですよ。ソーニャちゃんはもうそつぎょ」
「ちがいますけど」
「あらら?」
ルウじゃあるまいし。
さすがにそんなまちがいはしない。そもそも、こんなにちゃんと中学校に行く準備をしておいて、なにをどうしたら行き先をまちがえたりするんだろう。
目的は、もちろん別のこと。
「あの、ルウが、ここに来ませんでしたか?」
「ルウちゃん?」
今度はアーミラが首をかしげて、
「見てませんけど……」
「なんだか、ひとりでフラフラさんぽに出ちゃってるみたいで。さがしてるんです」
「ああ」
アーミラは納得した顔。それじゃあ、と言って、一歩、横にずれてくれる。
「屋上ですよね? さがしてきても、だいじょうぶですよ」
「いいですか?」
「もちろん。私に隠れてこっそり入ってきたのかもしれませんからね。ソーニャちゃんに後はおねがいします。…………あ、それと、」
ありがとうございます、と横をすり抜けようとしたソーニャを、一言、呼び止めた。
にっこり笑って、アーミラはこう言う。
「制服、とても似合ってますよ。すっかりお姉さんですね」
☆
歌が、聞こえてきていた。
学校の中に入って、まだ朝日しか明かりのない薄暗い廊下を歩いて、階段を上っているあいだ、ずっと。
知っている歌だった。ルウが、ひとりになったときに歌う歌。あの夏からずっと、歌っている歌。あいかわらず音痴で、ほんとうはどんな歌なのかも、よくわからないけれど。
きっと、とソーニャは思っている。教わったのは、あの人から。
扉に、手をかける。内鍵だから、回してしまえば簡単に開く。
回して、開いた。
海が見えた。
手すりがあって、そのむこうに。校庭と、桜と、その先に続く街並みと、水色の空との境目に、ぼやけた海が、果てしないほど広がっている。
それを、ルウは見ていた。
見つめながら、歌っていた。
「ルウ」
ちょっと迷ったけれど、ソーニャは結局、話しかけた。
おどろいたように肩が跳ねる。振り向く。ソーニャ、と口のなかでつぶやく。
ああ、とソーニャは思う。
たしかに。
たしかに、こんな服を着ていたら、お姉さんになった、なんて言われるわけだ。
「忘れもの」
「わっぷ」
カバンを放り投げてやった。まだなにも入っていない、夢みたいに軽いカバン。不意うちだったのに、ルウはそれを軽々受け取ってしまう。最近、背も伸び始めた。ひょっとすると抜かされるかも、とソーニャは思っている。生意気なことに、と。
「持ってきてくれたの?」
わかりきった質問には、答えないで。
「入学式、遅れるわよ」
うん、とルウはうなずいた。
けれど、まだ視線は、遠い海に向いていて。
「ソーニャはさ、」
こんなことまで、訊いてくる。
「わたしが死んだら、どのくらいで忘れる?」
アイロンのきれいにかけられたシャツで。
おろしたての、ぴかぴかのローファーで。
そんなことを訊いてくるものだから、ソーニャは、わざとむっとした顔を見せて。
「次の日には忘れてやるわよ。立ち止まってるヒマなんて、生きてる間はないんだもの」
「……ひどいなあ」
それを聞いても、まだルウの視線は、こっちに向かなかったから。
「わたしは、」
さらに、ソーニャは言った。
「自分が死んだとき、ずっと覚えてられる方が、ずっと嫌よ」
「…………うん。そうなのかもね」
風が吹けば、瞳の前で、少し伸びたルウの前髪が、さらさらと揺れる。
それを、指でよけて。
「でもわたしは、ずっと覚えてられる死神になりたい」
ソーニャも、ルウと同じ方を見た。
水色の、淡く白い、空と水面の水平線。ふいに、ルウは両手でなにかを包みこむようにして、口元に近づけて。
ふうっ、と吹いて、花嵐。
花びらが春の海に飲みこまれるように遠くへ去っていくのを見届けて、ようやく振り向いた。
「……また魔法、上手くなったわね」
わたしにはなにがなんだかわからなかったんだけど、とソーニャが言えば、ふにゃっとした顔で、ルウは笑う。
「だいじょうぶ。かんたんだよ。今度教えてあげる」
「えらそうに」
「その代わり、歌、教えてよ」
「歌?」
そう、とルウはうなずく。
海にはもう、背を向けて。
一歩ずつ、遠ざかりながら。
「自分でちょっとがんばってみたんだけど、難しかったみたい」
「いいけど……。ちょっと意外。あなたって、なんでもやればできるのかと思ってた」
「あ、でも。きっとそうだよ。すぐ上手くなると思う」
「なによ、その自信」
海辺に、ひとひらの花びらが散った。
そんなかすかな音のことを、花びらが水面にふれたことを、飲みこまれていったことを、誰もがしっているけれど。
それでも、晴れた日の空は、青くて。
「世界でいちばん上手い人の歌、聴いたことあるから」
足音は歌声と手をつないで、ゆっくりと、遠ざかっていった。
了




