20話
フウマがヤエに連れ戻され、アルマが残念がりながらそれを見送った後。晩御飯も済ませ、いつも通りアルマが一番早く寝た。今日は会議もないので、デントたちもそれに続いて自室に入っていく。最後にネネノが「おやすみなさい」と言って姿を消した。現在、リビングに残っているのはフアンだけである。
『無駄だと思うけどなぁ』
なんでもない発言のはずなのに、ヤエの声が深く脳にこびりついている。決して「無駄」ではない、はずなのに。目を閉じるとそのことをよく思い出してしまうから、フアンは自室に入って眠りにつくことができなかった。
「わっ」
その時、フアンの背後から少し驚いたような声がした。振り返るまでもなく、デントの声である。
「フアン、まだ起きてたのか」
「あなたも起きてるじゃない」
「落ち着かなくてな」
デントは茶を注ぎ、フアンから少し離れた場所に腰を下ろした。片手には本を持っている。
二人は会話をよくする方ではないし、どちらかと言うと、自分から話を振るような人ではない。彼らが居合わせてもそこから話が始まるわけではない——かに思われたが。
「ブルー」
フアンは口を開き、本を開こうとしたデントを止めた。デントは少し意外そうな顔をして、暗い湖が表紙のそれを机の上に置いた。
「どうした?」
「彼の異常性に、最初に気がついたのはあなただったのよね」
その話を切り出した瞬間、デントの表情が穏やかでないものに変化する。背もたれに体重を預けるのをやめて、フアンが座る先へ身を乗り出した。
「おかしくなる前の彼と一番親しかったのもあなただった」
「……何か、俺に聞きたいことがあるのか?」
「彼は本当に、後から最強になったの?」
フアンも、自分で何を聞きたいのかまだ心の中で明確にまとまっていない。だが、このやるせない気持ちをどうにかしてやりたかったのだ。
「前兆はなかったの? 本当に、いきなりそうなったの?」
「……訓練生時代、寮からエレベーターに行くまでにはひとつ小さな段差があったんだ。あいつはそこで踏み外して捻挫した。完治するまで二週間はかかったかな」
デントはコップを傾けて麦茶を一口飲む。小さな段差でこけて、全治二週間の捻挫。今のアルマから考えるとありえない話だ。世界がひっくり返ってもありえない。
フアンがこうなってしまった原因がどこにあるのか、改めてはっきりした気がしてフアンの中の回路が冷えていく感覚がした。
「……そう。よく覚えているのね」
「俺の友達だったからな」
「だったから」に違和感を覚えたが、フアンはそれに言及することはなかった。ただ、行き場のない気持ちがほんの少し大きくなっただけである。
「ちなみに」
デントはフアンから目を逸らし、再び背もたれに寄りかかった。
「あいつは首を絞めても窒息しないぞ」
フアンは咄嗟に顔を上げる。
アルマは酸素が無くても死なない、そんなことは分かりきっている。フアンはエテルナレッドに効かない攻撃がずらりと並べられたリストを何度も読んでいるから尚更だ。
しかし、そこに込められた意味を、フアンは理解していた。
「……何の話」
「いいや、ただ教えただけ。もしかしたらリストを見落としていたのかと思って」
フアンは、デントの発言について心当たりがあった。なぜなら、彼女は寝ているアルマに跨ってその首に手をかけたことがあったからだ。
自分でも説明のつかない衝動だった。「殺さないと」と、フアンの中身が語りかけてきた気がして。
「あなた、そんな回りくどいことを言うような人間だったかしら」
「……少し前に、聞かれたんだ。あいつを殺したいのかって」
デントはどこか遠くを見ている。その瞳からは諦念の感情が感じられた。
「世界のためなら仕方ないって、そう考えていたんだ。たとえあいつ自身が被害者だったとしても、不可抗力だったとしても、そうするしかないってな」
でも、とデントはため息をつく。
「最近、考えを改め始めた。可能か不可能かは置いておいて——殺すべきかもしれない、って」
フアンにとっては予想外の発言だった。てっきり、彼はアルマと仲がいいものだと思っていたから。
「もし、俺があいつを殺せる力を手に入れたら、俺はあいつの首を絞めると思う。いや、そうする」
「……どうして」
「……俺は、ただ、あいつのままでいて欲しかったんだよ」
それは答えになっていないようで、彼の考えを表しているような言葉だった。後から加入したフアンに、彼らの間にある感情はわからない。昔のアルマが今のアルマとどう違うのかも。
「あいつの顔で、これ以上安っすい正義を語ってほしくない。だから、早く終わらせてやらないといけないんだよ……」
得体の知れない何かがアルマの皮を被って振る舞っているのではない。あれは正真正銘喜捨場アルマで、エテルナレッドその人だ。だというのに、デントはまるで本物の喜捨場アルマがいなくなってしまったかのように話す。
「……矛盾してるよな。何もかも。だって、どれだけあいつの倫理について考えたとしても、全部無駄に終わってしまうかもしれないのに」
「無駄なんかじゃない」
フアンの耳は過敏になっていた。その二字を見過ごすことはどうしてもできなかったのだ。
デントはフアンを見る。彼の目に映るフアンの顔は冷静ではなかった。少なくとも、フアン自身にとっては。
「寝るわ」
「……おやすみ」
デントはいきなり話を切り上げたフアンを咎めることはしない。すっかり目が冴えてしまったというのに、フアンは自室に戻った。
フアンは、明日が来ないことを願った。アルマの顔を見ると、どうしても「殺さないと」と焦ってしまう。今の彼女は、その気持ちを抑えられる自信がなかった。
以前はこんなことはなかったのに、フアンの衝動が形を変えて大きく膨れ上がっている感覚がする。ヤエの今日の発言よりも前からだ。
——まるで、フアンの中でナニカがうぞうぞと動き回っているようで、とても寝れたものではなかった。




