第4話 禁断の錬金術とトポロジーマップ
午前9時。
鼻腔を軽く突く、無機質でシャープな刺激が俺の脳細胞を強制起動した。
オフィスのブレーカーが落ちたと同時に、俺の意識もまた完全にブラックアウトしていたようだ。
気がつけば、電気の復旧したデスクで朝を迎えていた。
「はいはい、おはようねぇ。佐藤ちゃん、夜中につけた『すばりん』は剥がしといたからねぇ」
そう言ってニコニコしながら俺のデスクのゴミ箱を回収してくれたのは、清掃員のトメさんだ。
彼女のワゴンの上には、業務用の強力なアルコール溶剤が載っている。
(……ありがたい。あの聖域の後始末をしてくれるなんて……。トメさんはやっぱり、この地獄のオフィスに隠棲する大賢者トメーラ様だ……)
「……きっとあのワゴンにある液体も、因果を消し去る『解呪の聖水』に違いない」
「ありがとうございます、トメーラ様……」
ポツリと呟き、ぼんやりとした頭で手を合わせていると、背後からドタドタ、容赦のない現実の地響きが近づいてきた。
吉岡部長が率いる孤独のスタンピードである。
バァァァン!! と、新しく貼り直したばかりのデスクのパーテーションに、分厚い仕様書が叩きつけられる。
「佐藤ォ!! 緊急事態だ! クライアントの役員から『やっぱり集計のアルゴリズムを根本から変えろ』と直電があった! 今すぐこの仕様に変更しろ!」
吉岡部長が、寝不足の目で額に青筋を立てて叫んだ。
「えっ……? 今から……根本から変更ですか? それって、本番環境のデータベースの構造そのものをひっくり返すレベルの、力技の仕様変更ですけど……」
俺が唖然として仕様書を見つめていると、横から根津課長がすかさず嫌味な笑みを浮かべて口を挟んできた。
「いやぁ、吉岡部長が『佐藤なら寝ずに何とかする』って安請け合いしちゃったんですよ」
「まあ、優秀な『兵隊』の君なら、今日の定時までに完璧に実装し直してくれますよねぇ?」
あまりに身勝手な言い分に、俺の中で何かが崩壊した。
過労で臨界点を超えた精神の奥底から、『サトリアーナ』の傲岸不遜な魂が呼び起こされ、自身の複雑な感情と混ざり合う。
怒り、悲しみ、過労、憤り、虚しさ、過労、絶望、過労、そして過労が、【悪役令嬢サトウ】となって、恐るべき気迫と共に覚醒する。
俺は椅子の背もたれにゆったりと体を預け、冷酷極まりない光を宿した瞳で笑みを浮かべた。
「我が耳を疑いましたわ。己の無能を棚に上げ、他人の時間を切り売りして傲るその浅ましさ……」
「少しは自分の身の程を知りなさい、このオーク、……いや、マゴットが」
「ま、まごっと、だと……っ!?」
吉岡は息を呑み、一歩後ずさった。
佐藤の冷水を浴びせるような視線と声に、彼の背筋で奇妙な、甘い悪寒が駆け抜ける。
激怒すべきなのに心臓が激しくドクドクと脈打ち、自分でも理由のわからない謎の心地よさに猛烈に動揺した。
(……ま、まごっとって何だ? そ、それより、この胸の高鳴りは……?! 罵倒されている気がするのに、なぜ胸の奥がこんなに熱くなる……!? 落ち着け、しっかりしろ俺の心臓ォォ!!)
吉岡は真っ赤な顔で変な汗を流し、その未知なる衝動を必死に振り払うように声を裏返らせて怒鳴った。
「ふ、ふざけるな! いいからさっさと仕事しろ!!」
「? ………ッ、――うわあああああ!? 」
鈴木くんが、スマホを片手に椅子から転げ落ちそうな勢いで絶叫した。
「データベースの同期が切れたッス! 本番環境のデータが、エラーの未定義値で埋め尽くされて大炎上してるッス!」
先走った吉岡部長と根津課長が、強引にシステムをいじり倒した結果、本番環境のサーバーが完全にクラッシュしたのだ。
「な、なんだと!? 根津、お前バックアップは取ってあるんだろうな!?」
吉岡部長が顔を青くして叫んだ。
「えっ!? い、いえ、吉岡部長が『今すぐやれ』って言うから、直に本番環境のデータを書き換えて……バックアップなんて、取ってる時間ありませんでしたよ!」
眼鏡を押し上げた根津課長の指先はガタガタと震え、額から滝のような汗が流れ落ちている。
「お……、おい、どうするんだこれ! 10時からの役員会議で、社長に本番のダッシュボードを見せることになってるんだぞ! システムが死んだと知れたら、オレはクビだァァ!」
吉岡部長は頑張って染めた茶髪を掻き乱して発狂し始めた。
(……愚かな。バックアップも取らずに本番環境に突撃するなど、素人以下……)
(だが、困ったな。一からデータを復旧するなんて、物理的に時間が足りな……いや、待てよ……?)
一度限界を超えてショートした思考回路が、ブラックアウトを経てより最適化されたルートで繋がり始める。
連鎖する火事場の馬鹿力が、さらなる別次元へと俺を押し上げていく。
(さっき構築したクバネティスのパイプライン……、運が良ければ中に非同期なキャッシュとして一世代前のログデータが残っているかもしれない!)
(いやダメだ、アクセス権がない……。マスターコンソールだ。世界の根源に繋がれば……!)
「佐藤ちゃん、ちょっといいかい?」
最適解へと至るルートを目まぐるしく模索するさなか、ジャラジャラと会社の鍵束を下げた清掃員のトメさんが近寄ってきた。
「あのねぇ、さっき『さぁばぁ室』の前を掃除してたら、『ぴーぴー』変な音が聞こえてね? ガラスの向こうで普段は見ない赤い光があったんだけど、……あれって大丈夫なのかい?」
(この期に及んでサーバー室でエラーまで……いや、致命的なハードエラーが起きているなら、端末に通知が来るはずだが……)
(──まさか、マゴットどもの所為で画面警告の機能すら、麻痺しているのか?!)
青ざめる俺を見て、
「佐藤ちゃん、大丈夫?何か……よっぽどまずいのかい?」
トメさんが心配そうな顔で、首を傾げる。
「ごめんねぇ……、ワシは機械のことはよく分からんくて……」
俺のただならぬ様子に、トメさんはおろおろと腰元の鍵束を無意識にいじりはじめた。
ジャラリ、と音を立てたその中で、
あってはならない『一本の鍵』を、俺は目撃する。
雑多な鍵の中に一本だけ混ざった、場違いな真鍮製の古い鍵──ビル管理会社が持つ非常用マスターキーだった。
(何てずさんな管理会社だ!!!……だが今は……!)
俺は慌てて椅子から立ち上がると、キョトンとしているトメさんの手元をじっと見つめた。
「トメーラ様……、いや、トメさん。その真鍮製の鍵なんですけど、少しの間、借りられないですか?さっきの、ピーピー音の確認に必要で……」
「ん?これかい?んー……」
「どうか1時間……いや、40分だけ……」
「……本当は駄目なんだけどねぇ。でも、ワシが言い出した話だしねぇ……」
「すいません。お願いします」
「……佐藤ちゃんのことは信用してるからねぇ、特別だよ」
そう言って差し出された、鈍く輝く真鍮の黄金。世界の根源をこじ開けるためのマスターキーを、俺はガッシリと受け取った。
「トメーラ様……っ! 感謝いたします!」
ペン立てから赤のマジックペン、ついでに魔剣グラム(紙筒)を引き抜くと、俺はそれらを鷲掴みにしてサーバー室へと突き進み、セキュリティドアを開け放った。
冷気とファンの爆音が満ちた部屋の奥では、警告音が鳴り響いている。
(……あれは3年前に退役して電源だけが入っている旧サーバーだ。予備機として一応残してるだけだから、今緊急に対応が必要なものじゃない)
アラートの確認を終えると、改めて周囲を見渡し、ふと足元に視線を落とした。
サーバー室の床は薄灰色の導電性のタイルで敷き詰められている──。
俺はおもむろに赤マジックのキャップを取り外すと、巨大で精密な術式を猛烈な勢いで構築し始めた。
クラッシュした全サーバーのインフラ構造と、キャッシュへと至る復旧ルートを瞬時に可視化するためのトポロジーマップである。
「さ、佐藤!? 何をしてるんだお前は!」
「佐藤君……! きみは養生テープに飽き足らず、今度は床に落書きですか!」
「……静粛に、旧帝国の敗残兵ども」
カツン、と赤マジックを床に放り投げ、悪役令嬢サトウの氷刃のような視線が、吉岡部長と根津課長を突き刺した。
「ひぃっ……!」
根津は恐怖に震えた。
「っふぅんっ……!」
吉岡は歓喜に震えた。
佐藤を中心に、直径3メートルにわたって床一面に描き殴られた巨大な【術式】。
普通の人間が見れば、簡単に脳がパンクするほど複雑怪奇なエラー回路の山──。
だが、脳が『リブート』されたことで焼き切れたはずの思考回路が、奇跡の処理速度へと変異していた。
その網膜には床一面に広がる無数の赤い線が、まるで淡く発光する立体魔法陣として完璧にマージされている。
この4日間、絶望と混沌に塗れながら眺め続けた赤。それが今この瞬間、本番データを救い出すための、唯一無二の黄金ルートとして眩く輝いていた。
「これは……禁断の錬金術、多重展開を発動する為のトリガーです。これより、ルート権限を奪取し、数時間前の消失したデータを再構築します」
「今から一節でも俺に詠唱を投げかけた者は、複合創造魔法の錆となります」
「ぶ、部長、マジで黙ってた方がいいッス! 先輩の目、マジでパキってるッス! 」
「それに……ほ、ほら、オレのスマホの画面越しだと、……先輩の後ろに巨大な狼の幻影がバッチリ映り込んでる気がするッス! 」
鈴木はスマホを構えながら吉岡を盾にした。
一方、悪役令嬢サトウはサーバーラックから突き出た緊急用コンソールの前に、仁王立ちになっていた。
だが、その首はカクンと真下を向き、視線は足元の巨大な術式を凝視している。
悪役令嬢サトウが魔剣グラム(紙筒)を固く握り締め、ディスプレイの前に突き立てる……!
「刮目せよ! 【錬金術:多層展開】ギット・リセット・ハード/ギット・チェリーピック!!」
……パタンッ! ──カタカタカタカタカタカタカタカタカタ!!!
倒れた紙筒が温かく見守る中で、首をあり得ない直角の角度で真下に折ったまま、両腕をピンと前方に突き出し、超高速でキーボードを乱打する。
頭上にあるディスプレイも手元も見ず、足元の巨大な術式の接続ルートだけ血走った目で睨みつけ、狂ったように電光石火の速さでキーを叩き込んでいく。
「──ひ、ひぃぃ……!!! ゾンビッス! 今度はマジでゾンビッス!! 怖いッス! 怖いッス!!」
「──……薬かッ?! 薬だなッ?! 佐藤君、きみは、ついに違法な薬物に手を……!!」
「──さとっ……、おまっ……! ぉ……おぉ……」
「──佐藤くん……とりあえず、病院へ行った方が……」
「──…………」
それぞれが思い思いにドン引く中、黒い画面の上を、ログが目にも止まらぬスピードで爆流となって駆け抜けていく。
キャッシュサーバーの奥底に眠っていた過去のパケットを引きずり出し、巻き戻された本番環境へ、新しい集計コードが堰を切ったように自動マージされていく。
……が、そこが俺の肉体の限界だった。
視界が急速に狭まり、睨みつけていた床の赤い術式が黒で塗り潰されていく。
意識の強制終了を予感させた、その時。
──キラッ……。
一瞬、見覚えのある黄金の髪が輝いた気がした。
闇の向こうから、淡々としながらも、どこか落ち着く聞き慣れた声がする。
「佐藤先輩。息、してください。あとこれ」
下から覗き込むように、屈み込んだ高橋さんが、ベルトコンベアを見守るような表情で俺の口に翡水の秘薬を3粒同時にブチ込んできた。
「もぐ……(ありがとう、タカー…高橋さん)」
魔草の雫がもたらす激しい清涼感が脳のバースト速度をさらに加速させる。
俺は再び足元の巨大な術式を凝視すると、最後のコマンドの群れをコンソールへと怒涛の勢いでブチ込んでいく。
加速したタイピングに呼応するように、画面を埋め尽くしていたエラーの赤色が、爆発的なスピードで正常な緑色(Success)へと書き換わっていった。
「──終わりました」
トンッ……と、最後にエンターキーを静かに人差し指で押した。
時計の針は、午前9時45分。
『ピコーン』
と、小気味よいビープ音。
「……え?」
根津課長が、手元のノートPCを見て腰を抜かした。
「な、何これ!? 復旧してる……!? 跡形もなく消え去ったはずのデータが、完全に炎上前の状態にロールバックされてる! 」
「……それに、さっき吉岡部長が言ってた『新しい集計アルゴリズム』の修正コードまで、自動でマージされてる?!」
「ほっ、本当か!?」
吉岡部長が画面を覗き込む。
そこには、すべてのシステムが美しい緑色のランプを灯し、最新の売上データが完璧に可視化されたダッシュボードが映し出されていた。
役員会議の15分前。
凡庸な漢が限界を超えて起こした、奇跡の大逆転だった。
「さ、佐藤……! ありがとう、本当に助かった……!」
吉岡部長が涙を流しながら、両手を床について頭を地面に擦り付けた。
「すまなかった! お前のことを『脳みそが腐ってる』だなんて……! 」
「腐っていたのは、無茶ばかり押し付けていたオレの方だった! お前は我が部署の……いや、この会社の救世主だ!」
(……だからっ!だからもっと、俺の事をぉぉ……!!)
土下座する吉岡部長の顔はどこか歪な喜びに満ち溢れていた。
「すごいね佐藤くん! 本当に時空を巻き戻す魔法だ! 職人の技を超えてるよ!」
三浦先輩がパチパチと嬉しそうに手を叩いている。
俺は、口の中から香る爽やかな魔草の雫の風を感じながら、不敵に笑って魔剣(紙筒)をペン立てに収めた。
ペン立ての奥で、
『……我は温かく見守ってなど──』
と、終末の咆哮が聞こえた気がした。
「この国では、理不尽なトラブルによる不利益は法によって相殺されます。……さあ、ノルマは終わりましたので、俺はこれから早めの昼休憩をいただきます」
「佐藤さん。役員会議が終わるまでに、サーバー室の床、アルコールで綺麗に消して下さい」
セキュリティドアの前で腕組みをした渡辺主任が、いかなる弁明の余地も与えぬ鋭い眼光で言い放った。
「す、すみません、すぐ消します!」
夜勤明けの清掃員のトメさんが、
「はいはい、お疲れ様ねぇ。『解呪の聖水』ならここに置いてくからねぇ」とワゴンを押して笑う中、
俺の脳内では多くの領民たちが「サトリアーナ様万歳!」と、盛大に勝鬨を上げていた。




