最終話 ごきげんよう、世界
午前10時45分。
シャツの袖に付いた解呪の聖水が、軽く鼻腔を刺激するデスクで、昼休憩を消化した俺は完全に真っ白になった頭を抱えていた。
(これだから赤色は……)
サーバー室の床にマジックで描き殴った多重展開の術式は、インクがタイルの組織内部に浸透し、解呪の聖水をもってしても容易には落ちなかった。
導電性タイルに染み込みやすい赤色はゴースト現象となり、サーバー室の床にうっすらと術式を残した。
それを総務の渡辺主任が見逃す筈もなく、コテンパンに怒られながら、つい先ほど顛末書を涙目で書き終えたばかりだ。
「おい、佐藤」
背後から声をかけられ、俺の肩が跳ね上がる。
振り返ると、役員会議を終えたばかりの吉岡部長が、見たこともないほど神妙な様子で、そしてなぜだか少し頬を赤らめながら立っていた。
その横には、完全にプライドをへし折られて借りてきた猫のようになっている根津課長の姿もある。
「は、はい、吉岡部長……あの、マジックの落書きはもう消しましたし、養生テープもトメさんが綺麗に……」
「いや、そのことじゃない」
吉岡部長はゴクリと唾を飲み込み、俺の目をまっすぐに見つめた。
「さっきの役員会議でな、社長に、お前が正味30分で復旧したあのシステムを見せたんだ」
「……そしたら、社長が文字通り飛び上がって驚いてな。『こんな強固な自動分散システムを、仕様変更のトラブルと同時に一人で組み上げるなんて』……って、大絶賛されたんだよ」
根津課長が悔しそうに、しかし認めざるを得ないといった様子でボソボソと呟く。
「……僕も、ソースコードを見直しましたけど……手動なら一週間かかる処理を、バックグラウンドの非同期スクリプトで完全に制御してました」
「あれは……言われたことしかできない兵隊の仕事じゃない。システムの構造を完璧に支配する、本物の『シニアアーキテクト』の仕業です……」
吉岡部長が俺の両肩をガシッと掴んだ。
「社長からの直々の命令だ」
「我が社に、全社的な業務の自動化と労働環境改善を一手に担う新部署──『業務改革特命部』を新設する」
「……佐藤、お前がその初代部長だ。人員の引き抜きも、就業規則の書き換えも、お前の裁量で自由にやっていい」
「へ……?」
吉岡部長の思いもよらぬひと言に、間抜けな声を上げてフリーズした。
俺はただ、目の前の【魔獣】や、【魔王の出現】、──そして、その後に待ち受ける【国を滅ぼしかねない大炎上】から「今すぐ逃げ出したい」という一心でコードを叩きつけただけなのに。
「佐藤部長、おめでとうございます」
パーテーションの向こうから、
『レジ袋、要らないです』
くらいの熱量で、高橋さんが声をかけてきた。
「私も、その新部署に志願しておきました。佐藤部長が奇行に走らないように、私が後ろから見張ってあげます」
ツンとした態度の中に、隠しきれない優しさがにじんでいる。
「……ありがとう、タ──」
「高橋です」
「まだ『タ』しか言ってな──」
「言おうとしましたね?」
カシャ、と鈴木くんのスマホのシャッター音が響いた。
「特命部旗揚げの記念ッス! あ、オレも特命部に行くッスよ! 佐藤部長のまだ見ぬ迷シーンを収める為に!」
そう言って、いつもの空元気とは違う、本当の笑顔を覗かせていた。
隣の席では、いつも黙々とキーボードを叩いていた三浦先輩がその手を止め、
「やったね、佐藤くん。これで僕たちのインフラも、完全週休2日で定時退社が法律になるわけだ。──これぞまさに、自動化の真髄だよ」
まるで本物の仏のような慈愛に満ちた目で、嬉しそうに目を細めている。
オフィスの入り口で、
「これからは備品の購入申請も、部長権限で一発で通りますね」
……と、総務の渡辺主任が手帳をパチリと閉じた。
「新しいお部屋になっても、ふぇんりるちゃんはいつでも貸してあげるからねぇ」
ワゴンを押しながら、清掃員のトメさんがニコニコ微笑んでいる。
「……いやぁ、これで本当に、毎日定時で帰れるようになるんッスね!」
「そうだね、これから皆で無理な徹夜のない良い部署にしていこう」
「ですね、とりあえず吉岡部長を盾にして、クライアントの無茶振りを弾く枠組みから作りましょう」
鈴木くんが肩の力を抜いて笑い、三浦先輩や高橋さんが穏やかにこれからの予定を話し合っている。
そんないつもとは違う賑やかな喧騒の中、俺は1人、自分の手元を眺めていた。
そこには裏紙を丸めて作った、全長約30センチ、薄汚れて無駄に頑丈な「魔剣グラム」があった。
──窓の外を見る。
世界を不気味に閉ざす漆黒の闇はどこへやら、突き抜けるような青空から、眩しい太陽の光がオフィスを照らし出していた。
「……なるほどな。悪役令嬢への転生も、神獣フェンリルも、空間を裂く魔剣も、全部俺が極限状態で見た『現実逃避の夢』だったわけだ」
──だが、俺の頭の中では今もなお、エルフのタカーシャや獣人のスズキル、ドワーフのミウラージ……、
多くの仲間たちの「サトリアーナ様万歳!」という、新しい国の誕生を祝って鳴り止まない歓声が聞こえている。
俺は紙筒をきゅっと握り直し、不敵に笑ってキーボードを見据えた。
夢オチだからって、諦めると思ったか? 異世界で国を一つ作ったんだ。ブラック企業一社をホワイトに作り変えるなんて、『ハローワールド』みたいなもんだろ……!
──『ブラック企業社畜の俺は……(中略)……異世界で多種族国家を建国して成り上がる夢をみるのか』。
いや、夢じゃない。
ここからが、俺の本気の、建国──成り上がりの始まりだ!
(完)




