第72話 災禍の想起
数分後。
特に急ぐ風でもなくゆっくり歩いてきたゼオ、ミュイユと合流し、目の前の異変に対しどう対処したものか話そうとしたところで、なんだかゼオがしょんぼりと肩を落としているのに気付いた。
何かあったのか、尋ねようとしたところにミュイユから先んじて窘められる。
「フィーノ、多分あの合図の出し方もう少し考えた方がいいよ。ロティが酒の瓶を持った瞬間に呼ばれて消えたもんだから瓶が落っこちて中身結構こぼれた」
あぁ、それは申し訳無いことをした。
……いや待て。やっぱり飲んでんじゃねぇか。
「えぇっ!? 嫌な予感はしていたけれど、まさか割れてはいないわよね? 結構いい物だったんでしょう?」
「大丈夫だよ、転がってこぼれただけだから。……まぁ半分くらい導輿の床に飲まれたけど」
慌てるロティに力無く笑って答えるゼオ。
「そう、半分で済んだのなら良かったわ。あんなに美味しいお酒、粗末にできないもの」
そう言って安堵したように頷くと、ロティは俺を睨め上げる。
「そういう事よフィーノ。今度からはもっと安全な方法にしなさい。そもそも乱禍での強制召喚はあたしの負荷が大きいって前にも言ったでしょう」
「……悪いとは思うけどさ。まず当然のように仕事中に飲んでる前提なのはどうなんだよ」
「依頼を受けたのはあなた達でしょう。あたしはただの呼び出し装置よ」
「なんだその自虐。装置が酔って不平こぼすなよ」
「こぼしたのはお酒よ。主にフィーノのせいで」
「それはごめんって。……いやそういうのはいいから今はちょっと静かにして欲しいんだけど」
つい普段のノリで話し始めてしまったのを思い出したように制し、再度岩陰から界恵枝の方を見やる。
この数分の間に、枯化獣の影が更に増えていた。界恵枝の微かな光を頼りにどれだけいるのか数えてみようとするが、いかんせん暗くて正確な数はわからなかった。ただ少なくとも十匹は下らないであろう事は見て取れた。
これだけ騒げば流石に気付かれたんじゃないかとも思ったが、どうやらそういった様子は無い。というよりそもそも、周囲を警戒するつもりが全く無いようにさえ見える。
集まった影達は一様に、円を描くようにして界恵枝の幹を取り囲んでいる。周囲の平原には完全に背を向け、たまに振り返ることもしない。風に乗り、時折小さく鳴き声のようなものだけが聞こえた。
しかし一体何をしているというのだろう。界恵枝に枯化獣という組み合わせ、どうにも嫌な予感しかしないのだが……。
「えっと……どうしましょうフィーノ様。普通にごっそり吹き飛ばし散らかしていいんだったらそうしますけどっ」
「正直あんまりやりたくないよね。あの樹、何が影響して変な事になるかわかんないし」
普段なら構わず突撃しそうなアステルとミュイユも及び腰のようだ。
それも致し方ないというものだろう。目の前の光景、この大陸で暮らす者ならばおおよそ誰しもが、忘れ難いある事件を思い起こさずにはいられないものであろうからだ。
『大遍心嘯』。
一年前に大陸全土を襲った、大災害の名だ。
界恵枝は、ただ人々に恵みを与えるだけでなく、反動のように、稀に異常を引き起こすことがある。
恩恵と引き換えに瘴気のようなものを放つ性質なのか、ただ単に定期的に何かを排出しているのか。
人の悪性を吸収し濾過しているとの説もあるようだが、とにかく正確な理由は未だ明らかにされていないし、その周期も一定ではなく予兆を観測できることもない。
ただ古来より、そういうものとして扱われてきた。
様々な研究者達がどうにか詳細を解析できないか手を尽くしたがどうにもならなかったそうだ。
辛うじて解ったのは、一度発生すればおよそ一年は再度起こることはなく、逆に約三年に一度は必ず発生するという統計的な情報。そしてその影響範囲には限界があり、一定の距離さえ取っておけば直接の影響は受けずに済むという点くらいのものだった。
恩恵を受けてきたと言いつつ、街と界恵枝が妙に離れているのはそのためだ。ローナセラに限らず、大抵の街と界恵枝はそういった距離感になっている。
そしてその異常が発生すると、周囲の生物が、有り体に言えば暴走する。
『反恵濤』と呼ばれる、この地全体が抱える、避けては通れない問題。謂わば大陸の持病のようなものだった。
界恵枝が発する、不可視の瘴気。
それを生物が浴びることで、精神は錯乱し、肉体には祇心由来の強引な強化が与えられる。
滓花を飲み込んだ時と似た症状ではあるが、強化具合と影響範囲がその比ではない。
ひとたび発症すれば、その者は反動による肉体の損傷すら意に介さず――あるいは自ら肉体を壊し尽くすことで狂気と苦痛からの解放を求めるように――一切の見境無く暴れ回ることになる。
そしてその対象は野生の生物に限定されず、直撃を浴びれば当然人間も同様の症状に見舞われる。
発症した者を治療する方法は、未だ発見されていない。
このような無差別凶暴化光線が、定期的に、都市ひとつを丸ごと覆う程の広範囲に放たれるのが、反恵濤という現象。
記録や統計といった技術によりある程度は回避を可能にした人間達と違い、多くの野生動物は、知らぬまま群れ単位で巻き込まれるのが常だった。
一般的な枯化獣の次元ではない暴力の塊と化し、自他問わず全てを滅ぼそうと暴走する数多の獣。
規模によっては、周辺の街や為聖庁からも人員を掻き集めて専門の討伐部隊が編成される程だった。
――逆に言えば、精鋭を集めた討伐隊であれば対処可能な程度、という事でもある。
大災害と称される『大遍心嘯』は、この反恵濤が大陸全土で、一斉に発生したものだった。
それも、祇心の力の欠片のような存在――『祇枝片』に率いられるような形で。
本来人を襲うことのない祇枝片と、夥しい数の暴走枯化獣が、まるで何かに操られるかのように徒党を組んで各地の街を襲う異常事態。
ただでさえ巨大すぎる、嵐のような規模の攻撃。それが各地で同時に発生したため、近隣からの増援を呼ぶこともままならない。その近隣の街も襲撃からの自衛に手一杯なのだから。
街を取り囲むのは、幸いにも、補給の事など考えず壊れるまで突撃を繰り返すだけの烏合の衆。籠城を決め込むことで被害を最小限に抑えることはできた。
あくまで比率としての最小限であり、被害の実数値は甚大なものではあったが。
そして当然、敵の圧倒的物量の前には防戦にも限度がある。
各都市の防衛が突破されるのが先か、枯化獣達の自壊が先か。
嘘か誠か、魔族らしき姿を見たという噂が南部各地で飛び交った事も住民の不安に拍車をかけた。
見えない展望に圧し潰されそうなまま、一週間程が経過した頃。
ふらりと、あるいは閃光のように現れて、絶望の状況から街を救出した英雄。
後に幾聖という称号で崇められ、更に後に同じ名で蔑まれることになる、とある三人の人物。
その出現から、事態は次第に終焉へと向かうことになる。
一年程度では消えないその爪痕を各地に残しながら。
これがおおよその、大遍心嘯の顛末だった。
……まぁ一年前にこの地にいなかった俺はそれらを直接体験してはいないのだが。
これらは全て周囲から聞きかじった知識、そして俺が個人的に調べた事。つまりは相変わらずの受け売りである。
まぁこの際、災害の詳細そのものはさほど重要ではない。
気掛かりなのは、目の前の状況が、通常の反恵濤とはまた違う、大遍心嘯に準ずる何かしらの異常の前兆なのではないかと、そう思わせるところだった。
何せ異様な光景。暴れ回るならまだしも、枯化獣の大群がただただ何もせず界恵枝を取り囲んでいるなど、およそ前例の無い――と言い切れるかどうかはともかく、一般的には有り得ない現象だった。聖立共壇が慌てたように依頼を寄越した事、ロティが初めて見たような反応を示した事からもそう推測できるだろう。
そして、界恵枝という厄介な存在。
最後に反恵濤を起こしたのは半年前、そちらに関してはまだ安全期であるはずだが……何をきっかけとしてまた異常を巻き起こすかもわからない。
さて。
肝心の、これから俺達がどういった対応をすべきかという部分。
たかだか数分先送りにした程度では妙案など捻り出せるはずもなく、俺達は結局、顔を突き合わせてしばらく思索を続けるのだった。




