第71話 夏の夜に凍える
夏の近づく時期といえど、平野の夜は風が強く、肌寒い。
日中に蓄えられた地の余熱はとうに洗い流され、なだらかな地表はひやりとした風を遮ろうともせず、ただなすがままにその肌を撫で回されていた。
ローナセラ近郊。南西の門から導輿で三十分ほど、街道を外れて南下した平原。
まばらな木々が辛うじて彩る、意図的に手を加えられず自然のままに捨て置かれたような荒涼とした一帯。
好き放題に吹き抜ける風の中央で、その直撃をどうにか岩陰で避けながら、俺達は今、夜闇に紛れて樹を見張っていた。
「へぷしゅ」
風になびく衣服が微かに立てるぱたぱたとした音。そこに紛れ、背後から聞こえる小さなクシャミ。
岩壁だけでなく俺をも風除けにしていたアステルのものだった。
異常が見えたら合図するから導輿で待ってていいって言ったのに、何故か頑なにここを離れようとしなかったのだ。そうまでして一番に見たいものだとは俺には特に思えなかったが。
導輿は、目立たないようここから少し離れた場所、いま壁にしているものとはまた別の大岩の陰に停めてあった。
ゼオとミュイユ、ロティは車内でゆっくり温めたお茶を飲みながら待っている。いやゼオのものは温めた酒なのだろうが。ロティもそうかもしれない。
俺も、直火で温められる飲み物と容器でも持ってきておけばよかった。……いや、この夜闇の中では小さな火種でさえも目立つだろうか。火を使わず物を加熱する方法って何かあるのかな。またロティにでも訊いてみよう。
しかし寒い。何故夏前にもなってこんな凍えそうな目に遭わなければならないのか。
幾度となく風に剥がされるフードを捕まえ目深に被り直しながら、俺は心中でぼやいていた。
溜まっていた仕事も全て終わり、後はただセラン・ウェーラーの『戦祇の左手』へ向かうだけ、という段になって、急遽追加されてしまった依頼。
――『夜な夜な界恵枝周辺に集まっているらしい枯化獣の群れをどうにかせよ』。
なんだそのふわっとした依頼内容は、とも思ったが、それだけ切羽詰まっていたのだろうと触れないでおくことにした。
『界恵枝』。
大陸各地の地表に点在する、祇心による恩恵をその周囲へと放つモノ。
外観としては、白く輝く巨大な樹、といったところか。
ちょっとした屋敷程度なら敷地丸ごとすっぽりと収まりそうなくらいに太い幹。それが細かく枝分かれしながら、天を衝く程に上方へ長く伸びている。
その高さも常識的な植物の範疇に収まるものではなく、近くから頂点を見上げるのは不可能に近い。
全容を視界に入れようとすると、数分かけて幹から離れる方向へ歩く必要があるだろう。
とてつもなく縦に長い、少し曲がりくねった円錐のような幹。そこから周囲へと無数に飛び出した、一般的な樹木で言うところの枝にあたるもの。
そこには一切の葉が存在せず、年中枯れ果てたような姿をしている。陽光の恵みを受ける気は無いと頑なに主張しているかのようだった。
この大陸における大都市の大半は、古来から存在するこの界恵枝に寄り添うように生まれた集落が発端とされている。
祇心の恩恵に与ろうと集まった人々が、百年も千年もかけてその営みを発展させ、街を大きくしてきたのだ。
ただし、各地の界恵枝全てが同様の恩恵をもたらすわけではない。
界恵枝一本につき一種のみの祇心の力が、謂わば割り当てられるように与えられていた。
セラン・ユプセンの界恵枝には、水祇の力が。ローナペゼの界恵枝には地祇の、という形。
例を端的に挙げるなら、前者においては良質な水資源や海産物、後者では豊かな土壌や鉱物が得られやすい、といった具合だ。
この、得られる恩恵の違いが、各地の発展の方向性と――争いの火種になっていった歴史もあるそうなのだが、それはさておき。
このローナセラに存在する界恵枝は、豊穣を司る祇心――穣祇のもの。
三街道の交点という立地による交易絡みだけでなく、この土地そのものから産出される上質な農作物の輸出も、ローナセラの発展に一役買っていた。
地祇を擁するローナペゼとはかつては別の国であり、微妙に似た性質の祇心を祀る隣国同士ということで何やら色々とややこしい関係だったそうだが……今は同じ統聖国ということでその辺の軋轢は解消されている。
俺達がいま息を潜めるようにして様子を見守っている、夜闇の中でも微かに虹色めいた輝きを瞬かせている巨大な樹。
それが、ローナセラの象徴、穣祇の界恵枝だった。
依頼の内容としては、この界恵枝に夜ごとに集まるらしい大量の枯化獣をどうにかする――即ち、討伐するなり追い払うなりしろ、というものなのだろうが……言外に、その原因となるものの調査と対処も含まれているように感じられた。
まぁ言われなくとも、原因を処理しない限りまた同じような異常が発生し、どうせまた俺が駆り出されることになるのだろうから、元々可能な限りの対応は済ませておくつもりであったが。
それにしても、異変の発生までただただ様子を眺めているしかないというのは、こう……ちょっとつらい。寒いし暇だし。
こんなに時間がかかるのなら先に界恵枝自体の調査でも済ませておけばよかった、などと結果論めいた愚痴が頭に湧いてきた頃。
――それは始まった。
「フィーノ様、あれ……」
アステルの声に無言で頷く。
これまで動きの無かった視界に変化。
枯羽牛だろうか、何か大きな生物の影が、平原の向こうからゆっくりとやってくるのが見えた。
一匹ではない。今確認できるだけでも五、六匹分の影が、界恵枝に向かってその歩みを進めていた。
これが問題の異変――あるいはその前兆なのか。
とにかく、待っていた現象が始まったのは確かなようだ。
俺は、導輿で待つ仲間達に合図を送る。
「……『乱禍』――『導祇』」
本来は一人につき一つである祇心との契約を、複数保持し自在に切り替える無法能力。
今行ったのは、更にその悪用。
行使対象を、導祇から導祇に切り替える。
一見無意味なこの行為、特定の用途においてとても便利な効果を発揮する。
即ち。
「――それでその時フィーノってば得意気に料理を切り分けながら……うわあッ!?」
何やら楽しげに話しながら突如として空中に現れたロティを受け止める。
抱きかかえる形になりながら、声を抑えるよう仕草で伝えた。
「……わかってはいたけれど、やっぱりこの呼び出し方は心臓に悪いわ」
「……その体に心臓ってあるのか?」
「知らないわよ。慣用句的表現だと思いなさい」
特に言葉は返さず、抱えたロティを地面に下ろす。
一体何の話をしていたのか気になるところではあったがひとまず放っておき、再度界恵枝の方へと目を向けた。
ロティの声は風に紛れて聞こえなかったのか、あるいは聞こえた上で無視しているのか。枯化獣達の影は、特にこちらへ興味を向ける様子も無く、ただ界恵枝を囲むように集まっていた。
一旦安心し、岩陰へと首を引っ込める俺。入れ替わるように、ロティが界恵枝の方を覗き込んだ。
「あれが問題の? 確かに異様な状態ね。しかもまだ増えるみたい」
索敵の効果だろうか。ロティがぽつりと不穏な事を言った。
乱禍による導祇の行使で、俺は強引にロティを呼び出すことができる。
これ自体は以前から、どうしてもすぐに返答が欲しい際などに時々行っていたことだが、ロティの実体化という要素と組み合わせることで少し応用ができることに最近気付いたのだった。
実体として顕現中のロティも問題無く呼び出せる。
そしてそうすれば当然、元いた場所からロティの姿は消える。
先程呼び出した時点で、導輿内のミュイユ達の前からロティの姿が消えているはずだ。
このロティの姿の消失を、異変発生の合図として事前に取り決めていた。
今頃ゼオとミュイユが導輿を出てこちらへ向かっているところだろう。
「……で、どうするつもりなのアレ」
こちらを振り返り、ロティが眉をひそめながら言う。
……どうしようかなぁ。
倒すにせよ追い払うにせよ、あまり界恵枝のそばで派手な事はやりたくないんだが。
少し考え、
「……とりあえず二人が来るまで待つか」
数分ほど結論を先送りにすることにした。




